第67話「野中大尉の授業」

「んっ、こ、これでいい? ふーこ」

「サーシャ、力を抜いて……、ん、いい感じ」

「ねえ、こうやって足を開くと、なんか……恥ずかしい」

「大丈夫、私を信じて、力を抜いて、足、持っているから」

「ふーこ、こそばゆい……」

「がまんして、足をこう……そう、こういう感じに開いて」

「いっ……す、擦れて痛い」

「ほら、が、ま、ん」

「へ、変な感じ」

「大丈夫、人に見られる心配もないから、だんだん慣れる、うん、それにちゃんとできるようになったら、気持ちいいよ」

「恥ずかしい……」

「恥ずかしがっていたら、次に進めない、はい、次はタイミング」

「こ、こう顔を上げればいい?」

 サーシャは仰け反るようにして上半身を上げた。

 それに合わせるようにして、風子は彼女の足首を掴んで、ゆっくりと弧を描くように回す。

「あー、も-」

 たまらずそんな唸り声をあげたのは同部屋の二年生、長崎ユキ。

「目を閉じると、いかがわしいことに聞こえる」

 何もいかがわしいことではない。

 平泳ぎの特訓中である。

「すみません……」

 風子が謝ると、ユキがニヤリとした表情で手を振った。

「いいの、ただツッコミたかっただけだから、だって、サーシャちゃんのそんな声聞けるなんて、お姉さんうれしくなっちゃうし」

 そう言うと、ユキはスマフォに目を戻した。

 ネット小説を見ていたのだ。

 こっちはこっちでツッコミどころ満載である。さっきまでニマニマしながら、世間一般様のいうところの『いかがわしいお話』を彼女は読んでいるのだから。

 熱中している二人はまったく気付いていないが……。

 そんなこんなで、サーシャは座布団を重ねたところにうつぶせになり、手と足を動かし、風子達の部屋で水泳の練習をしていた。

「うん、息を吐いて、そのまま流れるように腕をかいて……そう、今……顔を上げて息を吸う」

「痛ったたたたたたた、痛い」

「がまんがまん、ここで足と腕と息継ぎのタイミングを体に叩き込む」

「ふーこってそんなにスポ根タイプだったっけ?」

「はいはい、余計なことはいいから、練習、根性、練習、根性、練習」

 改めて言っておくが、サーシャは流暢な日本語を話すロシア帝国からの留学生。

 日本人もびっくりするマイナーな言葉をスルスルと話せる女子である。

 風子は相変わらず足首を握って、あのカエルのような泳ぎ方の練習をさせている。

「はい、ここで閉じる、水を掴む感じで……水を両足で挟むと浮き上がるから」

「こ、こう」

「そう、ここで思いっきり」

 ガツン。

 サーシャは右と左足首のくるぶしをぶつける。痛かったんだろう、涙のたまった目をぱちぱちさせている。

 普段、器用そうに立ち回っているが、水泳とか恋とかになると不器用マックスの残念な女子。

「……いっ……たい」

 風子とユキが笑う。

「酷い、必死なのに」

「ごめんごめん」

 打ち付けた彼女の白い足首だけでなく、振り返る顔が赤くなってるのを見て風子はかわいいと思った。

 風子の中のエロオヤジが、この短パンから伸びる足と、引き締まったお尻、白いTシャツの下にある小っちゃな背中に対し、涎を垂らしまくっている。

 それに彼女は、男子的にはたまらんものなんだろうと想像していた。

 ――これぞ、まさに垂涎。

 一瞬、女ではなく男に生まれればよかったんじゃないかと、風子は思うぐらいだ。

 いかんいかんと彼女は水に濡れた犬のように頭をぶるんぶるんと振って、邪心をふき飛ばす。

 ――集中、集中っと。

 彼女たちの障害になっているのは水に対するの恐怖心。

 水が怖い。

 純粋に水が怖いのだ、サーシャは。

 水に対して怖いという感覚がまったくない風子にとって、それは未知の世界なのだ。

 だから、風子はサーシャと話し合った。

 結果として、そうやって話し合ったことが、お互いの家庭環境とかトラウマとかを知り合うことになって、ここ数日の短い期間ですごく親しい間柄になったという副作用もあるのだが。

 とにかく、彼女は二つの恐怖を持っていた。

 まず『顔に水がかかる』こと。そして、『息を吸ったときに水が入る』ことである。

 頭では分かっている。

 顔に水がかかっても何も起きない。

 水から顔を出して息を吸えばいいし、少々水を飲んでも問題はないということは。

 だが、その恐怖が邪魔をして、腕、足、呼吸のための胸起こしのといった三つのタイミングがばらばらになってしまう。

 そこで風子はとにかく体でそれを覚えさせようとして、陸地でこうやって練習していた。

「びよーんと手と足を伸ばして、この時にぶくぶくぶくって息を吐く、それからゆーっくり、そう手を回して、足を前にカエル開きして、そう、そこで顔が自然に上がる、ほら上がるでしょ……そこで、はい、息をすってー、足をこうっ、閉じる……足と足の間の水を挟むように閉じる、これに合わせて胸の前の腕を伸ばすー、ここは長めに、ゆっくり、ゆっくり、速い、ゆっくり、ぶくぶくぶくー、次、そうそうゆっくり腕をかいてー、カエル足ー、顔が自然と上がってきたらー吸ってー、足挟むー、びよーん伸び伸びー」

 二人は繰り返し練習する。

「伸びてーぶくぶくー、ゆっくり漕いでーカエル足ー吸ってー足閉じ水掴みー伸びてーぶくぶくー」

 サーシャも小さな声であるが、一生懸命声に出して練習していた。

 ユキは、そんな二人を見つめて目を細める。

 ――いいなあ、友情。

 彼女はそう思いながら、スマフォの画面を見る。

『四十歳バツイチ子持ちを好きになったら』

 そんなタイトルとおっさんと青年が絡み合う絵の表紙。

 彼女はそれを消して、次は『百合』というキーワードで検索を始めた。


 

 風子は授業開始三分で、起きることを諦めた。

 サーシャの足首を握って動かしていたから、最近二の腕がぎゅっと引き締まった感じがあると同時に、一日一時間やっているものだから、疲れも溜まっている。

 今日は寝ても何も言わない、野中大尉の戦術の授業だった。

 怖い教官陣の中でも珍しい、超癒し系おっさん教官である。

 それに戦術なんて勉強しても、人生の足しにもならないとぶった切っている。

 そういうことを言い訳にして、彼女は机にかじりつくようにして爆睡中であった。

 冷房の効いた教場。

 学生のほとんどが野外での訓練に疲れているから、ここで体力の温存を図っている。 

イクサというものが終わるのはどちらかの戦意を破砕したときになる、意志と意志のぶつかり合いだからこそ、人、物、金がなければすぐにそれが折れる、まあ、当たり前のことなんだが」

 ホワイトボードを背にして講釈を垂れる野中は学生が寝ていようがどうしていようがまったく気にする感じはない。

 ことごとく沈没している学生。

 寝ている学生に、野中は戦術の原理原則を教えている。

 そもそも、こんなことを高校生に教えて何になるんだろうと、野中も思っているぐらいだ。

 だが、ちゃんとやる。

 この子達一中隊の副官である日之出中尉が、ぶつぶつクレームを入れてくるものだから、手は抜けない。

 彼はああいう女性は苦手だった。

 野中もびっくりしていることに、一人目だけしっかり目を覚まして聞いている子がいた。

 極東共和国からの留学生である山中幸子だった。

 原理原則の『集中』について、例を使って授業をしている。

 しっかり聞いているように見える幸子。

 野中はこんなことになんの興味があるのだろうと疑問に思うぐらいに。

 そのうち、寝てる学生たちに野中が集中についてイメージを発表させようと、当て始めたところ、安眠妨害に対する抗議なのだろうか、おでこが赤くなっている――風子と同様、机に顔を付けて寝ていた――サーシャが手を挙げて発表した。

「人をアラワして形すことければ、スナワちわれはアツまるも敵は分かる。我は専まりて壱と為り、敵は分かれて十と為らば、是れ十を以て壱を撃つなり」

 さらさらと、彼女は孫子の虚実篇キョジツヘンの文書を引用。

 そんな話は聞き飽きた、知っている、もういいから眠らせろ、という感じなのだろう。

 サーシャの関心事は泳ぎの練習なのだ。

 さすがに、野中もそんな身も蓋もない態度を面白く思わなかったのかもしれない。

「集中に必要なものはもう一つある、奇襲だ」

 そう言った彼はじっとサーシャを見た。

「サーシャ・ゲイデン」

「はい」

「上田が好きか」

「な……」

 教官陣も学生のだれとだれがくっつきそうだとか、そういう噂ネタを持っているのだ。

 情報網なめんな、と、いうところだろう。

「上田は好きだと言っていたぞ」

 こういう嘘もつく。

「えええっ」

 死んだマグロの目に光が灯り、なぜかガタッと机を揺らしたのは風子だ。

「な、驚いたら人間は一瞬止まるだろ、そこに付け込んで戦力を集中する」

 大人げない野中はニヤッと笑う。

 毛が逆立つサーシャを無視して「これが奇襲の醍醐味なんだ」と野中は言った。

 悔しそうな顔のサーシャ。

 一瞬考えた後、彼女は手をあげて注文をつける。

「教官は、二十年前の戦争を体験したと聞きました、大活躍だったとお聞きします、ぜひ奇襲の成功例を教えてください……こんなくだらない奇襲ではなく」

 ムスッとしている。

 実戦の話なら聞く価値があるとでもいうような態度だ。

 大人げない態度であるが、子供だからしょうがない。

 野中大尉は自分も大人げなかったという感じにフッと笑うと、二十年前の話を始めた。

 十九歳、陸軍士官学校の学生で訳も分からず関東の戦闘に参加した経験を。

 奇襲を受けて、部隊が壊滅した話。

 奇襲をうまくやって、敵の火砲を破壊した話。

 敵である共和国軍人を撃ち殺した話。

 あまりに生々しい話だったからかもしれない、サーシャは大人しく聞いていた。

 笑顔のまま話をする野中に違和感を感じたのもあるのだろう。

 違和感がそこに存在していたから。

 その時だ、幸子が手を挙げたのは。

「私の祖父は飛騨で戦死しました」

「ああ、それは残念な話だ」

「私は人民の解放の為に戦った祖父を無残に殺した帝国の軍人が憎いと思っています」

「そうか、それはしょうがないな」

 こくりとうなずく野中。

 学生たちは、幸子が何を言っているんだという空気になる。

「教官は共和国の人間が憎くないですか?」

 彼女がそう言うと野中は無表情のままに答えた。

「憎い、だが、それ以上に生き残った自分が情けない」

 その言葉は、冷たく、そしていつもの軽薄な野中の言葉と違い、重みがあった。

 場が凍る。

 沈黙。

「しょうがない、とか、情けないとか……」

 幸子がそう声に出した時、課目時間の終了を告げるチャイムがなった。

「ま、終わろうか」

 野中がそう言うと学生長の宮城京が間髪を入れず立ち上がって起立の号令をかける。

「山中、あの戦争はとても悲しい出来事だった……当事者である私も未だに片づけることができない、おじいさんのことは悲しい、憎んでいることも理解する……でも実際、君はあの時代に生まれていなかったんだから、無理をして恨む必要はないと思う」

 ホワイトボードの文字をささっと消す。

「理解なんてできない、あの時代のあの場所にいた人間じゃないと、到底理解できる話じゃない」

 野中はそう言って、授業を絞めくくった。

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