第66話「デレの対象は異性だけとは限りません」

 風子は泳ぎが得意である。

 海が目の前にある舞鶴で育ったというのもある。

 そういうことで、もちろん素養テストの結果は合格だった。

「きれいな泳ぎ方だなあ」

 と、綾部軍曹は彼女を褒めるぐらいだった。

 ――この人、褒めるときは真面目な顔をするんだ。

 そう、彼女は思った。

 そんな風子が、耳に入った水をトントンしながらプールサイドを歩いていると、サーシャがプールに入っていた。

「次、ゲイデン」

 晶が紙バサミに挟んだ名簿を見ながら、鋭い口調で指示をする。

「ゲイデン行きます」

 その時だった。

 サーシャがゴーグル越しに目をつぶったのを風子は見てしまった。

 すごく嫌な予感がした。

 サーシャが壁を蹴る。

 ばちゃん。

 ぎくしゃくした水の弾く音。

 ばしゃばしゃばしゃ。

 彼女は平泳ぎではなかった。

 バタ足。

 しかも、水しぶきが高いバタ足。

「ゲイデン不合格」

 晶はばっさり切り捨てるようにそう宣言した。

 だが、彼女はバタ足を続ける。

 息継ぎはない。

 サーシャは下半身と上半身、それらがまったく連動していない動きで顔を上げた。必死な彼女の表情が見える。

 なんとか息継ぎをしているようなので風子は安堵した。

「ゲイデン! 止まれ! それ以上は進むと足がつかない、やめなさい!」

 晶がすぐに不合格と宣言したのはこのためだった。

 中央部にいくと足が届かないプールなのだ。

「止まれ!」

 晶がもう一度大声を出すが彼女は止まらなかった。

 制止を無視するような形でサーシャが必死に泳ぐ。そして、ちょうどプールの真ん中にいったころだった。

 酸欠と恐怖のせいだろうか左右の手足がばらばらに動きだす。

 彼女は顔を上げ、必死に息を吸おうとした。だが、ちょっとした波で顔に水がかかり、ゴホゴホと咳き込んでしまう。

 体が完全に立っいた。

 浮くのが必死な状態で彼女はもがきはじめる。

「浮き輪!」

 綾部軍曹がオレンジ色の浮き輪をプールに投げ入れる。それでも、パニックになったサーシャは掴むことができなかった、いや、しようともしなかった。

 その時だ。

 紙バサミが地面に落ちる音が響いたのは。

 晶だった。

 彼女の飛び込みはきれいな曲線だった。

 彼女はまるで水面に吸い込まれるようにして水の中に潜り込み、無駄のない動きでサーシャに接近した。

 浮き輪を抱え、暴れるサーシャを後ろから羽交い絞めにするようにして抱え込む。そして、そのままプールサイドに押し込んだ。

 プールサイド付近には高さ一三〇㎝になるような台がひかれている。

 サーシャはそれになんとか足をつけれる場所まで引きづられ、そこに足を乗せることができた。すると、彼女は激しく咳きこみ、それから水を吐き出した。

 風子が彼女に駆け寄る。

 彼女は肩で息をしながら、水面からプールサイドに這うようにして上半身を上げた。

「サーシャ……」

 大丈夫?

 そう風子は言おうとしたが、涙と鼻水でベタベタ、いつもの余裕の表情はなく、代わりにクシャッとなった彼女の顔を見てしまったため何も言えなくなっていた。

 それはあまりに、いつもと違う彼女だったからだ。

 見てはいけないものを見てしまった気分になってしまった。



 その後、サーシャはもう一度テストを受けるために泳ごうとしたが晶に止められた。そして、彼女は厳しく叱られた。

「溺れるということをバカにするな、下手をすれば助けに入った人間も溺れる、ゲイデンの無駄なプライドで危険を冒すことは間違っている」

 サーシャは晶を睨むようにして見上げた。

「ゲイデン家の人間は……」

 抗議しようと口を開く。

「泳げねえならさっさと黄色にいけよ」

「ばっかじゃねえの、待ってるこっちはサミーから勘弁してくれよ」

「こんなところでわがままとか意味わかんない」

 一部の男女がぶつぶつ言い出した。

 意地になっているサーシャ。

 そんな彼女の腕を引っ張る手があった。

「サーシャ……」

 嫌われるかもしれないと風子は思った。でも、放ってはおけなかった。

 誰かが意固地になっているサーシャをホグさないといけないと思ったからだ。

 彼女は同期の一部からぶつぶつ言う声が聞こえた時、そんなんじゃないと思った。

 腕を捕まれ、後ろを振り向いたサーシャは風子と目があう。すると、彼女は目を伏せた。それは、どことなく恥ずかしいような安堵したような表情だった。

 誰かが止めてくれるのを待っていたのかもしれない。

 ――ゲイデン家の子女は、何事も勝っていなければならない。

 そう言われ続けてきた彼女は、友達に止めてもらわなければ引けない状況だったのだ。風子に腕を引かれたまましばらく歩き、そしてキッと涙目で見上げた。

「……」

 安堵と羞恥が混ざった表情のサーシャ。

 申し訳なさそうに瞬きをする風子。

 サーシャは目を伏せるようにして頭を下げ、そして黄色帽子が集まっている方向に向かっていった。

 ――嫌われた、かな。

 風子はどこまでも不器用な自分に対してなんとなく諦めたような、情けない気分になった。

 ――結局、中学生のころと同じ失敗しちゃうんだから……。

 また、でしゃばってしまったと思った。

 そんな風に、彼女はどっかり凹んでしまった。



 その日の夜。

 風子は同部屋の先輩である純子に今日の話をしていた。

 何かを訴えうるわけではない。

 わけのわからない不安感を和らげたかっただけなのだ。

「サーシャちゃんとふーこちゃんはいい友達だね」

 純子は話を聞いた後にそう言った。

 風子は訝しげな目をする。

「だって、ふーこちゃんは友達だと思っているんでしょ」

「友達……というか、なりたいというか」

「うん、ふーこちゃんが友達になりたいと思ってあの子の腕を握ったんだから二人は友達なんだよ、わたしはね、友達っていうのは片方が歩み寄って、そして、何か心に触れた時点で友達というのが成立するものだと思ってる」

 お母さんのような口調でゆっくりと純子は風子に言った。

 コンコン。

 部屋がノックされる。

「どーぞー」

 純子が返事をする。

「サーシャ・ゲイデンです、ふーこはいますか?」

 ダサジャー姿のサーシャが、少しだけ開けたドアから顔を覗かせる。

「いるよ、サーシャちゃんだって、ふーこちゃん」

 純子がニヤニヤしながら風子を見た。

「えっと……」

 風子は言葉がでない。

 一瞬だが微妙な空気が流れる。

 だが、その空気を壊したのはサーシャだった。

「ちょっと、相談したい」

 彼女には珍しく、遠慮がちな口調だった。

「うん」

 風子はそう答えた。そして、立ち上がる。

「いってこい、若人」

 満面の笑みの純子はそう言って二人に手を振った。


 

 自販機の前にあるベンチに座った二人。

「泳ぎを、教えて」

 サーシャは目を伏せたまま、小さな声で話始めた。

「副官に言われた」

 晶は叱った後のケアも含めて、サーシャを呼び出して話をしていた。

「友達に頼りなさいって」

 風子の目が、驚いたふうに少し開く。

「私は日本人に勝てって言われてここに来た」

「うん」

「うまくできることが勝ちだと思っていた」

 サーシャの手が膝の上で少し震えている。

「でも、軽歩は下手だし泳げないし」

「他は何でもできてると思うけど」

「全部じゃないから」

「全部じゃないといけないの?」

「私は兄や弟に全部負けているから、ゲイデン家の落ちこぼれだから」

「だから?」

「だから、ここでは全部勝たないといけない」

「変なの」

「うん」

「……ねえ、だれもサーシャに対して勝った負けたなんて思ってないよ」

 サーシャは一息置く。膝の上にある手をぎゅっと握った。

「副官に『サーシャはもっと素直になりなさい、同級生を頼りなさい』って言われた……『自意識過剰』だって」

「うん」

「ねえ、ふーこ」

 彼女は顔を上げ、じっと風子を見つめる。

「頼ってもいい?」

 純子さんが言った通りだと風子は思った。

 歩み寄れば。

 心を開いておけば、そこに入っていける。そこに入って来てくれると。

 ――自意識過剰。

 昼間次郎に感じていたもの。

 無駄なそれ。

 ――サーシャは今、さよならできたんだ……でも、私はできていない、副官みたいに大人になれば消えるのか……純子さんみたいに三年生になれば消せるのか。

 それこそ自意識過剰の無駄な悩みなのかもしれない、と風子は思う。

「頼ってよ、ふーこさんに任せて」

 胸を張ってどんっと左手で叩く。

「ふーこっ」

 がしっとサーシャが抱きつく。

 照れくさいというかうれしいというか。そして、自分でいいのかなという恥ずかしさと不安。

 風子は今自分がどんな表情をしているのか。

 鏡を見たいと思った。

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