第47話「おとながこどものころ」

「かわいいわね、相変わらず」

「だれが?」

「あなたの学校のこどもたち」

 佐古は興味なさそうな顔をしたまま、グラスの半分ぐらいになった黒ビールに口をつけた。

「先週末、ここに来たんだけど」

「よくうちの学生ってわかったな」

「あなたのところの制服は誰でも知ってるし、バイトの女性もわかったから」

「へえ、バイトなんて雇ってたんだ」

「あなたは夜しか来ないから知らないと思うけど」

 ぐいっとカウンター越しに店長である橘桃子タチバナモモコが体を乗り出した。

「すっごい美人よ、バイトの人、眼鏡美人」

「ふーん」

「そっけない」

 桃子はつまらなさそうに眉をひそめる。

「その言葉に食いついたら、妻にチクリ入れるんだろう? その手にはのらん」

「でた、恐妻家」

「恐妻家で結構」

 佐古はすました顔のまま、自分の坊主頭を撫でた。

「で、どんな学生が来たんだ」

「金髪女子とイケメン男子、それに根暗そうな女子」

「まったくわからん」

「バイトの人がそう言ってたの、私は奥にいたから遠くでしか見てないし」

「もっと、表現の仕方ってあるだろう?」

 夜の喫茶店は人も少ない。

 桃子はサイフォンから抽出した自分用のコーヒーを準備して、手元に置いた。

「相変わらずって、女子はみんなそうよ」

「女子って……よく言うよ、私と同級生だろ、君は」

「『私と同級生だろ、君は』ねえ……なんだか『私』『君』とか偉そう……やっぱり中隊長なんかになっちゃったから?」

 桃子はそう言った後、カップに口を付けながらジト目で佐古を見ている。

「そんな言い方するなよ。あー悪かった、悪かったよ、橘さん」

「桃子」

「桃子さん」

「桃子」

「桃子」

「付き合ってたころは、気軽に呼んでいたのにね」

 彼女はふと目を背け、ため息混じりにそう言った。

「もう二十年か……」

 佐古は、グラスの中の黒い液体を飲み干す。そして、グラスの端についた泡を手元のおしぼりで拭き取った。

「ばか、まだ二十年よ」

「『もう』も『まだ』も、変わらないじゃないか」

「あーあ、あなたはあんなにかわいい奥さんと子供はできているし」

 年とったのはあなただけよ。

 彼女はそういう目を彼に向けた。

「君……じゃない……桃子さんは、相変わらず」

「桃子」

「こだわるね」

「なんか、若返った気がするじゃない」

「結婚していないんだから、普段から若い気分でいられるんじゃないか?」

「なに、そのオッサン発言」

「オッサンだよ」

 そう言った後、佐古は二杯目を頼み小さくあくびをした。

 桃子が少し目を細め、彼の顔を覗き込むようにする。そして、その手元にグラスを置いた。

「疲れてる?」

「四月に子供達が入ってきて、ずっと休みがないからね、しかも夜も寝た後に書類仕事して帰る日々なんだよ……朝は子供達が起きる前には出勤」

「相変わらず大変ね」

「俺たちが学校にいた時も、教官達も同じようなことをしてたと思えば」

「無理しちゃう?」

「無理はしてない、がんばってるだけだ」

 桃子はため息をついて、カップを手に取った。

「あの頃はまったく気づかなかったけれど」

 彼女は少し冷めてしまったコーヒーを口に含んだ。そして、店の奥の方に目をやり、どことなく遠くを見ているようだった。

「守られているってことに気づいたのはずっと後、自分がそういう立場になったりしてから気づく」

「そうね、今思えば夜這いとか、平気でやる人、いっぱいいたしね、あの頃」

「俺はしていない」

「嘘つき」

「……」

「ところで桃子さんが見た金髪の子はたぶんサーシャだな、留学生の優等生、しっかりした子だっただろう」

「優等生? 私の感じだと、特別優秀っぽくは見えなかったけど」

「学業、体力、人間性、優秀、そんな貴族のお嬢さん」

「そうかしら、普通の女の子だった」

「どういうところが?」

「こういう雰囲気のお店にきて、緊張して、注文間違えちゃうような女の子」

「なんだよ、それ」

「バイトの人がそう言ってた」

 そう言って、桃子は少し笑った。

「最後は蹴り飛ばしていたけど」

「は?」

「だから、蹴ってた、イケメン男子を」

「ここで?」

「そう、跳び蹴り」

「跳び蹴り……なんで、そんなことに」

「最初は男子が『貴族のお嬢様だったらこんなところで緊張とか』なんて笑うものだから、痴話喧嘩始まっちゃって『緊張なんかしていない』『間違って紅茶なんて頼みやがって』『女の子が困っているときは、逆にフォローしなさい』とか言い合いになって、最後は男子の方が無視しちゃったのよ」

「無視」

「だから跳び蹴り」

「なんだそりゃ」

「私はちゃんと大人の勤めを果たしたわよ、バイトの人が困ってたから二人のところにいって、男子に『女の子に恥をかかせちゃだめ、あやまりなさい、ついでにこぼした水、それはあなたが拭きなさい』って言ってやった」

「理不尽」

「だって、女の子は大切にしなきゃ」

 満面の笑みで桃子は佐古を見る。

「俺は大切にしていた」

「また、昔の話?」

「共通点といえば、それぐらいだし」

「なに、その言い方、寂しい」

「それに、あの時の同期は俺と小山ぐらいしか残っていない」

「佐古君たちはみんな出て行ったものね」

「たまには、その話をしないと、先にいってしまったみんなを思い出さないと」

「私も行きたかったなあ」

「俺は君が残ってうれしかった」

「なんか、仲間はずれにされちゃった気分」

「……」

「今も」

「仲間はずれにしていない、こうして話しているんだし」

 じっと佐古は桃子の目をみつめた。

「ありがと……私ね、ほんとあの時、佐古君が帰ってきたって聞いてうれしかった……戦争が終わって、なにもかもボロボロになってたけど」

「親まで死んでいたと思ってたらしい」

 佐古は笑った。

「長かったから……」

「あの日のドカーンがあってから四年、岐阜、富山、長野の山の中に籠ってゲリラ」

「四年か……本当にね、死んだと聞いてからも三年待ってた、待ってたけどやっぱり帰ってこなかった、だから待ってなかった」

「それはしょうがない」

「でも、今なら言えるけど、罪悪感はひどかったわ」

「女子って、けっこう割り切れるんじゃなかったけ」

「あ、傷いた……けっこう情の深い女子だったんだよ」

「かなりクールな女子だって印象があるんだけど、デートで手もつないでくれなかったし」

「キスもしていない」

「そう、キスもしてくれなかった」

「私からすれば、あなたが奥手だった記憶しかないんだけど」

「俺からすれば、桃子さんがスラリスラリとかわしていた記憶しかない」

 なんども繰り返した二人の台詞。

 五月が過ぎると、どうしてもこういう話になってしまう。

 二人はあの頃のことをしゃべることで、平静を取り戻しているのかもしれない。そして、二十年前の戦争を話すことが仲間の弔いでもあった。

「不思議、ついこの間のことなのに……みんないないのよ」

「最初の戦闘でほとんど死んだ」

日之出ひので中隊長も教官達も」

「そう、中隊長が死んだ後はあっという間にみんな死んだ……何をすればいいかわからないまま、みんなそこに留まって死んでしまった」

「……俺はね、今の子供達が戦場にいったら何をやっても生き残ろうと思う」

「戦場にでも行くつもり?」

「そりゃ、一番いいのは戦場にいかないことだ……今のご時世、たぶん、そういうことになる可能性はとても低い」

「でも」

「でも、最悪のことを考えて、彼らを訓練しないといけないし、俺も準備しないといけない」

「なんか、佐古君、オジサンになっちゃったね」

「立派になったと言って欲しい」

「少佐殿に敬礼しないと」

「ごめん、取り消す」

 桃子はまるで軍人のように、右手をピンっとまっすぐに伸ばして挙手の敬礼をした。

 それを見た佐古は苦笑するしかなかった。

「そろそろ帰るよ」

「もう、そういう時間?」

「日が変わらないうちに帰らないと」

「夫婦円満の秘訣?」

「そう、夫婦円満の秘訣」

「やだ、なんかムカつく」

「どうぞ、桃子さんも、結婚したら?」

「それもムカつく、セクハラ」

「元カレとしての忠告」

「元カレだったら、ただの嫌味」

「フラれた方からの逆襲」

「だから、三年待ってたの」

「結果はフラれた」

「そうね」

 店内に流れるジムノペディの旋律に、桃子の軽いため息が自然と吸い込まれた。

「でも、なんか、そう言われると悲しい」

 彼女は笑顔でそう言うと、彼が飲み干した後のグラスをそっと手にとり、そして飲み口についた泡を見つめた。


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