第9話『ワイド・ウェーブ・ウォール』
最終直線、五〇メートル。
依然、倉島が数メートル前に出ているという状況である。素人からすれば、この場では見ている教頭だが「やはり素人。こうしてあっさり負けるだけ」と思っているだろうが、実際に凛太と対戦している倉島、そして凛太を指導した硝子の意見は違う。
素人であれば、そもそも数十メートルほど離されていてもおかしくはない状態なのだ。
普段使っていない筋肉をフル活動させるスイジョーは、一週間かそこら基礎を学んだだけでレースを行える物ではない。
(凛太くん、すごい……。私の無茶な指定通り、倉島さんの背後に位置づけてる――っ!)
指を組みながら、隣にいる教頭を慮り、飛び跳ねるのを遠慮している硝子。だが、実際は飛び上がりたいほど上手く行っていた。
倉島がフロッグを警戒し、トリックを撃たなくなるのは読んでいた。
で、あれば、トリックを撃たないチェックメイカーが相手ならば、凛太にも充分勝ち目はある。
否、一週間しかスイジョーをしていないという素人のみ、という条件であれば、凛太しか勝ち目はないと言ってもよかった。
(先輩の言った通りの位置につけた――ッ! あとは、タイミングだけ……)
硝子が狙っていた作戦、それは、スリップストリームである。
モータースポーツ用語だが、それに明るくなくても知っているだろうほど有名なテクニック。
空気抵抗を受けないよう、前に走るランナーに壁となってもらい、自分は空気抵抗を受けず加速する。
凛太の脚力なら、空気抵抗を受けない状態でなら、チェックメイカーを抜けると踏んだ硝子の読みは正解だった。
しかし、だからこそ、前に出るタイミングは需要だ。もしも前に出れば、トリックを駆使されて沈められる。
だから、ゴール間際の一瞬。後方に出るトリックなら凛太でも躱せるのだ。警戒すべきは出るタイミングだけ。そこだけは凛太にすべて一任されていた。
タイミング、タイミング、と何度も呟く凛太。ゴール間際、一秒もかけないようなシビアなタイミングであればあるほどベスト。
精神を食うギリギリの作業である。凛太の額に汗がにじみ出す。
今か今かとタイミングを伺っていたその時である。
「鯨馬よ……。俺ぁ、お前を舐めてた事を謝るよ」
突然、振り返らないまま、倉島が呟くようなボリュームで言った。波の音でかろうじてしか聞こえなかったが、凛太としては初心者を舐めるのは当然だと思ったので、「それぁ俺が勝った後に言ってくださいよ」と返した。
「……それじゃあ言うタイミングがねえからさ。お前は今から、負けるんだからよ」
その瞬間、何故か、倉島は急ブレーキを踏んだ。
足元が揺れる。波が、周囲の水が、倉島の足元に集まっていくのがわかった。
「まさか初心者相手に、コレを使う事になるたぁ、思わなかったぜ! 俺の敬意だと思ってくれや、鯨馬ァッ!!」
「凛太くんッ! 倉島さんを抜いてッ!」
硝子の声が聞こえたのか、凛太は太ももに思い切り力を溜め、バネのように飛び出そうとしたが、間に合わなかった。
「ワイド・ウェーブ・ウォール!!」
倉島の足元から、まるで巨大な壁のような波が、凛太に向かって放たれた。
身の丈の倍以上はありそうなその波は、フロッグを使ったとしても越せないのは、見てすぐにわかった。だからといってサイドステップなんて使えば、まだまともに重心制御のできない凛太は盛大にコケて、体勢を立て直している間に負けが確定する。
飲まれても当然、許容量以上の水をスーツが吸って負け。
なんとか波を壊すか、飛び越えるしかない。
が、凛太にそんなトリックはない。
(どっ、どうしようもねえぞッ、こんなの!)
負ける。
仕方のない事だ。どんなことでも、一週間しかやっていない人間が、 数年はやっているだろう人間に勝つなどありえないのだ。
努力は実を結ぶとか、天才だからとか、そんなもの関係ない。
重ねた時間による裏付けは、大なり小なりあれど、ほぼ絶対と言っていい。
無類の運動神経を誇る凛太だって、体育祭や素人に足を引っ張られる学校の授業レベルの運動ならまだしも、競技で経験者に勝った事は無いのだ。
倉島が放ったワイド・ウェーブ・ウォールは、最高Aから最低Eまであるトリック難度の中では、Cランクに相当する。
トリックの難度は主に『操る水の多さ』や『要求される精密さ』などがあるが、WWWは操る水の多さが重視されている。膨大な量の水を背後に放つだけの単純なトリックだが、単純故に躱す手段も単純な物に限られる。
凛太にはそもそも、放たれたら躱せる方法などないのだ。
(せめて、引き返して波の有効射程から逃げるか――)
だが、そんなことをすれば、躱せるだけで勝つ事はできない。勝つためには前に出るしか無いが、そうしても負ける。
スタート直前までは、負けても納得できればいいと思った。しかし、そんな甘い事を言えるなら、そもそも勝負の場になど経っていない。結果が伴わない過程など無意味で、過程が無い結果など無意味。
凛太は歯を食いしばり、目の前にそびえ立ち迫り来る波を睨みつけた。
やれるかはわからない、けれど、やるしかない。
凛太はブレーキをかけていた足を振り上げる。まるで、地面に置かれたボールを思い切り蹴りぬこうとするように。
(負けたら先輩が、泣いちまうだろうがッ!!)
それだけは許せない。今後の一生、女の子を泣かせた男として生きていく事になる。凛太にとって汚点だ。
「俺は勝って、先輩と一緒にスイジョーやるんだよぉッ!!」
振り上げた足で、思い切り水面を蹴った。
思い出すのは、硝子に見せてもらった、ワイド・ワインダーの打ち方。
『足を使ったクラフト系のトリックも、手を使ったトリックも、基本は同じなんだ。指で粘土みたいに水を操ること。ワイドワインダーも、まず水面から水を足の指で掴み取るイメージで握り込んで、それを蹴り飛ばす。実際に握れてるわけじゃないけどね。足の指先や体重移動で微妙に振動を操作して、可能にしてるの』
蹴り抜く瞬間ブーツで水面を操作し、思い切り目の前に放とうとした。
目の前に、だ。
足を使ったクラフト系は、初めて一週間で出来るほど簡単なものではない。初心者向けのワイド・ワインダーとはいえ、もっと練習が必要だ。
凛太は、初心者なら誰しもがやるミスを犯した。
足にくっつけていた弾が、すっぽ抜けて真上に飛んでいった。
(うそっ、だろ……!)
しくった、そう思った。しかし、まるでその水は、足元から伸びるロープの様に象られていた。
水で作られたそのロープは波を越す高さとなり、凛太はそのロープに飛び乗った。
不安定すぎる蜘蛛の糸。掴めば千切れそうなそれでも、行くしか無かった。
「飛ッべぇぇぇぇぇっ!!」
腕を思い切り回し、スピードと遠心力を生み出す。そうして発生した力でブーツの力を増幅し、糸を渡りきり、凛太は波を飛び越えた。
「な――ッ!?」
凛太の下に、驚く倉島の姿があった。今までいいようにされてきたことを考えれば、胸がスッとする思いだったが、凛太にそれを感じている余裕はなかった。
そんな驚きのどさくさに紛れて、凛太は倉島を追い越して着地。
一気に駆け抜け、ゴールラインを越えた。
「やっ、やった……っ」
ゴールの向こうから、未だコースに留まる倉島を見つめる凛太。そして、思い切り拳を天に向かって突き出した。
「ぃぃッやったァァァァ!! 先輩っ、先輩見てましたぁ!? 勝ちましたよ俺ぇ!」
海上から砂浜へと走っていく凛太の背中を見て、立ち尽くす倉島。バカな、という言葉を口の中で転がしながら。
凛太がやったトリック、あれはアクセル系とクラフト系の複合トリックで『ショットライディング』という。
蹴り上げた水を状況に応じた道に変化させるという、超高等テクニックである。ただし、難度は変化させた物の精密度によって変わる為、凛太がやったトリックそのものは、超がつくほどの難易度ではない。
倉島が驚いているのは、
(初心者が、初めて一週間で複合クラフトトリックなんて……。しかも、おそらくとっさの判断で……)
倉島は硝子にワイド・ウェーブ・ウォールを見せてはいない。だから、このトリックの対策を練っているというのは考えにくい。
凛太がこのトリックを練習しているわけがない。
倉島はオキシグローブを外し、頭を掻く。海でスイジョーをやると、潮風で髪がぱさついて痒くなってしまうのだ。
■
「先輩っ! せんぱぁーい! やりましたよ俺ぇ!」
手を振りながら、砂浜に上がる凛太と、それに駆け寄る硝子。二人は手を取り合い、喜びを押さえきれないかのように飛び跳ねる。
「すごい! すごいよ凛太くん! ショットライディングなんていつ覚えたの!?」
「しょっ、ショット……?」
当然、凛太は先程自分が放ったトリックが『ショットライディング』と呼ばれているなんてことは知らない。ワイド・ワインダーで波をぶち抜こうとしたら失敗して、蜘蛛の糸のようになっただけだから。
「いや、あれって、名前のあるトリックなんすね……。俺、ワイド・ワインダー打とうとして失敗したから、飛び越える方向に切り替えて……」
「そっか……。ワイド・ワインダーの打ち方教えたの、覚えてたんだね」
嬉しそうに微笑む硝子。その頬には、一筋の涙が流れていた。
「せっ、先輩……?」
「ご、ごめんね。おめでたい時なのに……。でも、これで部活、続けられるんだなって思うと……」
あっ、と口を開いて、凛太は近くに立っていた教頭へ詰め寄る。
「教頭先生! いいんだよな! 水上部続けても!」
まるで苦いものでも噛んだように、忌々しげに眉間へシワを寄せ、教頭は小さくため息を吐いた。
「ええ……。約束は守りますよ……。新入部員も入ったことですし、いいでしょう。水上部は存続です」
そう言い残し、立ち去る教頭。それを見送ることもせず、凛太は硝子に向き直って、親指を立てた。
一瞬、ポカンとした硝子だったが、すぐに控えめな仕草で親指を立て返した。
「二人でお喜びの所、割って入って申し訳ねえな」
遅れて海から上がってきた倉島が、凛太と硝子の間に割って入ると、思い切りと言ってもいいほど力強く、凛太の肩を叩いた。
「イテッ! なんで!?」
パシンっ、と乾いた気持ちのいい音が鳴って飛び上がる凛太。しかし、それでも何度かバシバシと肩を叩き、倉島は少年のように歯を見せて笑っていた。
「お前やるなぁ! 手加減したが、手ぇ抜いたわけじゃないんだぜ。最後のワイド・ウェーブ・ウォールなんかは割りと本気だったのに、よく躱したぜ」
「は、はは……ども」
「あんだけ走れるって事ぁ、結構練習したんだろ? 一週間によくもまぁ詰め込んだもんだぜ。高森に相当いびられたか」
「いびってません!」
顔を真っ赤にするほどムキになって否定するが、倉島は豪快に笑っているだけで、まったく硝子の話は聞いていないようだった。
「なんにしても、いい根性してるぜ鯨馬。ウチの部にほしいくらいだ。学校ちげえのがおしいぜ」
「そりゃ、光栄です……」
勝った後だからか、どういう顔で接して良いのかわからない凛太は、いつもより声が小さく遠慮がちに対応していた。
「お前そんな大人しいキャラじゃねーだろーが! ったく、勝ったんだから堂々としとけや。負かしちゃって相手に悪いなぁ、とか思うのが一番失礼だかんな」
「いっ、いや、そんなつもりじゃないんスけど……」
「次は俺が勝つから気にすんな。それじゃあ、俺は部活に戻んねえと。んじゃあな、二柱高校水上部のお二人さん!」
倉島はそう言って、最後に凛太と硝子の肩を叩き、海へと戻って走り去って行った。その背中を見送って、凛太はため息を吐いた。
初心者に負けるのはどんなことであれ悔しいはずだ。それをあんなに気持ちよく笑い飛ばせるのだから、倉島という男がどれだけ器の大きい男かわかるというもの。
「……さてっ、じゃあ凛太くん、着替えておいでよ」
硝子の言葉に、凛太は「えっ?」と首を傾げた。
「これから練習するんじゃないんですか?」
「いやいや、試合は練習よりも遥かに体力を消耗するんだよ。あんまり無理しちゃいけないからね。それに、今日は練習じゃなくて、約束の通り、奢ってあげるから」
「……奢る?」
なんの話だろう、と凛太は腕を組んで思い出そうとする。が、それをする前に、硝子から答えが出た。
「忘れちゃったの? 試合に勝ったら、何か美味しいもの食べに行こうって言ったじゃない」
「あぁっ! そうだ! なんで忘れてたんだ俺!!」
すぐ着替えてきます! と、オキシグローブを手から外しながら部室へ走り出す凛太。彼本人も終わってから驚くほど、試合に集中していたようだ。
他の何を忘れようとも、女性関係の事を忘れなかったのが凛太であり、それは自分が一番よくわかっていた。
思ったよりもスイジョーにハマっているのだろう。
尊敬する先輩達と同じ物にハマれた事、凛太にはそれが嬉しかった。
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