第7話『ロケットスタート』
フロッグの練習をしつつ、しかし、それだけで勝てるほど甘くはない。
水面で走ること、バランスを取ることを覚えたら、今度は砂浜での走り込みが始まった。
目の前で走るウェイトスーツ姿の硝子を追いかける凛太。普段の彼ならば、揺れる尻を凝視したり、砂浜で女の子を追いかけるというシチュエーションにときめいたりしていたのだが、今回ばかりは事情が違った。
「ファイト! 凛太くん! すべてのスポーツは足腰だよ! 足腰を鍛えれば世界を制する!」
「そ、それって左じゃないですかね!?」
凛太は体格も大きく、筋力量もあるので、スタミナには自信がある。しかし、体格も小柄で、筋力量がそうあるわけでもなさそうな硝子が、砂浜を余裕で走っているのに、凛太は感心していた。
とにかく、試合の日までは水面での移動を確認し、フロッグを練習し、砂浜で走り込む。
その練習を繰り返した。地味で退屈、そしてハードだと凛太は感じていたが、しかし、練習とは本来こういう事である。
地味で退屈で辛い。その中に楽しみを見いだせなくては、何かを続けていく事など不可能なのだから。
一週間、練習のみと考えれば長いが、その後の本番を思えば、とても短い日々でもあった。
■
そして――本番の日。
朝起きた時から、少しずつ手が震えていた。授業中、いつもなら寝ていたのにそれすらできず、ただただ放課後が来るのを焦れったそうにして待つだけ。
放課後になり、走って部室に行くと、そこには珍しく硝子の姿がなかった。
しかし、そんなことが頭に入らないほど、凛太は緊張していた。ウェイトスーツに着替えながら、頭に過るのはこの後行われる試合の事。
体育祭程度が本番だった今までとは違う。負ければ誰かが何かを失うようなスポーツの試合はやったことがない凛太は、ひたすら緊張していた。
部活の廃部――負ければ硝子が泣いてしまう。
いや、きっと気を使って、笑顔を見せてくれるだろうが、見てないところで泣いてしまうだろう。
周囲を見渡した凛太は、部室の中にある様々な物に、硝子が今までしてきた努力の跡を感じてしまう。
部屋の中に貼ってある様々な張り紙にはトレーニングのメニューが書いてあったり、棚の上にはおそらくライドブーツに使うのだろう機械の部品が置かれていた。
きっと一年間一人で、黙々と練習していたのだろう。
そう考えたら、負けるわけにはいかない。絶対に勝って、この努力を実らせてあげたい。
凛太はそう思いながら、着用したスーツ、ブーツ、グローブの着心地を確認する。
「……完璧」
呟きはしたが、疑念が晴れない。
俺は本当に、今日の試合で納得のできる結果が残せるのか?
思わず拳を握って、それを見つめた。
(大丈夫だ。勝てる……先輩とそういう練習をしてきたんだ。一週間だけとはいえ、すげえ辛かった。勝てるとは言わねえが、納得する結果を出してやる……)
手が震える凛太。そこでふと肩が叩かれ、振り返ると、そこには硝子が笑顔で立っていた。いつもの様に優しげな笑顔。
きっと負けた時も、この笑顔で出迎えてくれるんだろうなぁと思うと、負けるわけにはいかなかった。
「緊張してるの?」
「そ、そりゃあしますよ。負けたらスイジョー、できなくなるし……」
「あはは。元々、お飾りみたいな部活だし、負けてもスイジョーはどこでもできるよ」
嘘だ。
凛太はそう言いたかった。確かに、スイジョー自体はどこでもできるだろう。
しかし、海の目の前という練習に最適な環境、部員がいないとはいえ人が集まりやすい場所。
学校の部活というのは、スポーツをやる上で最も適した環境なのだ。
だから、できることなら部活でスイジョーを続けたいのだろう。
「とにかく、肩の力抜いて、凛太くん。私の練習についてこれたんだから、大丈夫だよ」
「すげえ辛かったっすからね……」
「でも、その分楽しかったでしょ?」
まるでいきなり水をぶっかけられたような言葉のタイミングで、凛太は面食らって、目を見開いた。
「そう……っすね。辛いけど、楽しかったっス」
「練習の辛さは心を支える為にあるけど、楽しさはやる気を支えてくれるから。どっちも欠けちゃダメなんだよ。今日勝ったら、美味しいモノでも食べに行こう!」
「う、うっす!」
気づけば、拳の震えが止まっていた。
緊張も無く、肩の力も抜けていた。
「それじゃあ、行こう凛太くん。もう倉島さん来てるよ」
「えっ、もうそんな時間だったんスか!?」
ウェイトスーツのダメージメーターを操作し、時計を出す。
凛太が部室に来てから、かれこれ三〇分ほどが経過していた。
俺はそんな時間、拳を見つめてたのかよと驚きながら、部室を飛び出した。
■
砂浜にはすでに、倉島と教頭が立っていた。倉島は人の良さそうな笑顔で「よう」と手を上げて、凛太の体を見る。
「へえ、いいスーツとブーツだな。――あぁ!? それ、季刊スイマガの一〇〇名限定プレゼントのブーツじゃねえか! なんで素人のお前が持ってる!」
「え?」これってそんな叫ばれるほどの逸品なの? と凛太は頭を掻きながら「えっと、先輩からもらったんス」と言った。
「マジかぁ……。スイジョーやってるヤツぁ大体買ってるから、競争率高えんだよなぁ。よく当たったな高森」
「手紙一〇〇枚は出しましたから……」
と、空を見つめる硝子。
それで、凛太も倉島も、相当な苦労をした事を察した。
「無駄話はそこまでにしてください。――そろそろ始めましょう」
三人の間に割って入る教頭。その瞬間、三人の表情も険しくなった。
「――その事について、なんですけど、勝負のルールを変えたいんです」
「ルールを変える?」
倉島の表情が、呆気に取られた物になった。
凛太も初めて聞いた提案だが、しかし、今までと同じ。彼にできるのは硝子を信じることだけ。
きっと、自分を勝たせる為の作戦なのだろうと、凛太は黙っていた。
「一週間練習したとはいえ、凛太くんはまだまだ素人。コース取りとか、そういう細かいところまではとても教えられませんでした。なので、ここはロケットルールを倉島さんに飲んでもらいたいんです」
「……ロケットルール?」
そこでやっと、凛太は口を開く。
答えたのは硝子ではなく、倉島だった。
「カーブなし、直線だけのコースでやるってことさ。――まあ、それなら確かに、コース取りや攻防の負担は減る。だがいいのか? それは俺にも言えることだぜ」
頷く硝子。
「構いません。凛太くんも、いい?」
凛太も頷いた。
「俺は構いません。先輩の作戦に従います」
「いいだろ。そっちのルールは全部飲むぜ。こっちは経験者だからな」
と、踵を返して海へと歩いて行く倉島。
それについていく凛太。
硝子が持っていたタブレットを操作すると、砂浜からずっと先の海上に、大きなゲートが立ち上がり、そして、倉島と凛太が並んで立った位置には、白いラインが描かれる。そしてそのラインは、ゲートの端とつながっていた。
まるで陸上のコースの様――というか、ほとんどそのままだった。
唯一違うのは、レーンを示す線だけが無いことだけ。
硝子が操作したのは、コースメーカーと呼ばれるアプリが入ったタブレット。
これで指定した範囲の水面にコースを作ることができるのだ。
「おい、いいか鯨馬。さっきはまっすぐ走るルール、って言ったが、厳密にゃ違うぜ」
凛太の隣に立った倉島が、屈伸しながらそう言った。
「――違う?」
「陸上と違ってレーンがねえだろ。決められた幅の中ならどこ走ってもいいんだ。そうじゃねえと、トリック躱すこともできねえからな」
「あ、なるほど」
それだけ言うと、倉島は黙った。
表情が険しくなり、集中力を高めているのもすぐにわかった。
凛太もまっすぐゴールだけ見て、自分が勝つビジョンを描く。華麗に抜いて勝つ。それだけしか考えていない。
「位置について!」
硝子の声が聴こえ、倉島は腰を落とし、膝に手をついた。
凛太も、クラウチングスタートを取る。
(へぇ、クラウチングスタートか。ま、予想通りのラン重視のタイプだな)
構えからどんな格闘技をやっているかわかるように、スイジョーでもスタートの形からどういうタイプのランナーなのかがわかる。クラウチングスタートは、とにかく前に出ようとするタイプのランナーがやるスタートだ。
倉島は、そこから作戦を瞬時に立てた。
あとは飛び出すだけ。
「レディ!」
次の瞬間には、本番が始まる。
凛太の心臓が、人生で一番大きく跳ねた。まるで全身が心臓になったみたいに震えていた。
誰かの大事なものを懸けてスポーツをしたことなんて一度もない。
運動神経だけで勝ち上がってきたが、しかしそれは授業とか体育祭とか、そういった物だけ。
勝っても負けても何も失わない物。
――しかし、尊敬できる先輩の大事な物を、たった一週間の練習で守らなくてはならない。
だが、今はそんなことどうでもよかった。
この心臓の鼓動、震える手足、なのになぜか、顔は笑っていた。
味わったことの無い緊張感。体が生きているのを実感する。
「ゴーッ!!」
硝子の声がした瞬間、
凛太の背後が、弾けた。
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