第5話『ニューウェーブ』

 凛太のスロースピードと全力ダッシュの交互ダッシュを見ながら、硝子はずっと考えていた。


 素人が、経験者に勝つ方法を。


 硝子が負けたのは、本人の見立て通り、倉島と彼女の対人経験の差が最も大きい。


 二柱高校の水上部と違い、御崎高校の水上部には部員が多い。なので、対人戦の経験は、硝子よりも倉島が圧倒的に分がある。


 凛太の様に、トリックよりもランを重視するランナーと違い、彼女らの様にトリックで相手を妨害する事を重視しているランナーは『スピードキラー』あるいは『チェックメイカー』と呼ぶのだが、そういったランナーにはトリックのキレや精度だけでなく、相手をより効果的に追い詰めるトリックの組み立てが重要になる。


 そしてそれは、実際にランナーを相手にする事が効果的な練習であり、硝子が負けたのは環境の所為でもあった。


 ――とはいえ、倉島が努力を積んでいた点も、決して無視できる要素ではないのだが。


 環境もあれど、自らのしてきた過去の努力のみを信じてレースに挑んだだけの硝子では、まだ足りなかったのだ。


 それは未来を見据える事。戦う相手が何をしてくるか、しっかりと考えて作戦を練る事。


 策略は格下が格上に勝つ唯一の手段であり、戦いに挑む前は自分が格下であると謙虚に受け止めるのは、とても大事な要素である。


 凛太を勝たせようと考える硝子の頭には、知らずしてそういった考え方が芽生えていた。


(……凛太くんの仕上がり次第で、微調整を加えなきゃいけないだろうけど、やっぱりどう考えても、チャンスは一度しか作れない。それに、覚えられるトリックも多分一つだけ)


 先程硝子は「覚えるトリックは一つでいい」と言ったが、正確には「一つしか覚えられないだろう」というのが、彼女の見解だった。


 一週間という時間で出来るのは、とにかくスイジョーの基礎的な『コケずに走る』という事が精一杯。本来トリック一つだって、素人には時間が足りないのである。


「凛太くんっ! 走りながらでいいから聞いて!」

「へっ? お、っとと……!」


 突然の硝子の言葉に、凛太はバランスを崩しそうになるが、なんとか立て直し、往復することに集中する。


「凛太くんが今度やる倉島さんは、基本に重点を置いたオールラウンダーなトリック使い。だから、とにかく凛太くんにはランでトリックを躱してもらう。得意トリックは水面を蹴り上げて三日月型の水を飛ばす『ワイドワインダー』効果範囲が広く、出しやすいから、初心者がよく使うトリックなんだけど、だからって倉島さんが初心者ってわけじゃない」


 初心者向け、という言葉を聞き「じゃあ弱いんだな」と思う人は多い。しかし、その言葉の本当の意味は「初心者でも扱えるほど癖が少なく、また、状況を選ばない」ということでもある。

 倉島がワイドワインダーを好んでいるのも、そういった普遍性を買ってのことである。


 もちろん、使えるのがそれだけ、という意味ではないが。


「少し速いかもしれないけど、明日は実際に海に出て、私との模擬レースをしてもらう。ワイドワインダーを躱す練習をする為に」

「まっ、マジすか! もうレース?」

「一週間しかないしね……。本当は、もうちょっとゆっくりやりたいところなんだけど……」


 自分一人の時は直面しなかった『短い時間の中でランナーを勝たせる為に効率よく練習させる』という状況は、現在の硝子にとって重大な焦りを生んでいたが、それは彼女を大きく成長させてもいた。


 練習とは日々の積み重ねであり、毎日やるから実を結ぶモノではあるが、ただ決められた事を延々と決められたからという理由でやっていてはいけない。


 上手くなりたい、というのは大前提。

 どうすれば上手く、勝てるようになるのかを考え、それを実現できるようにするのが練習でやらなくてはならないことなのだ。



  ■



 結局、『歩く』と『止まる』だけを延々と繰り返して、その日は終わった。

 覚悟していた事ではあったが、それだけだというのに、全身がズキズキと傷んだ。


 普段と違う動きをすれば、当然いつも使っていない部分の筋肉が使われる。特に、スイジョーでその場に停止する技術というのは、内ももの筋肉を非常によく使う。


 翌日になって、凛太は筋肉痛で苦労しながら登校。


 なんとか放課後までに体力を戻しておかねばと、授業を全部寝て過ごす事を決意した(と、言っても、いつも理由をつけては寝ているが)。


 クラスメイト達への挨拶を済ませ、机に突っ伏していると、誰かに軽く机をノックされて、顔を上げた。


「よっ、凛太」

「――なんだよ、鉄平か」


 軽く手を挙げて、ニコニコと笑顔で微笑んでいるのは、クラスで最も仲のいい、志賀鉄平である。


 明るい茶髪の髪を一本結びにした、タレ目で少しばかりニヤけた顔の男であり、耳にいくつかのピアスをつけているのが特徴。


「俺疲れてっからさぁ、寝かしてくれねえかなぁー」

「はぁ? 何言ってんだよ。バイトも部活もしてないやつが、なんで疲れんだよ。入学して早々から風邪引いて休んでた俺の為に、ちょっとくらい話に付き合ってみてもいいじゃん」

「あぁー……」


 そういや、昨日は休んでたっけな、と頭を掻く。練習をやる前の体力が残っている状態なら、もう少しテンションを上げて説明できたのにな、と思いながら「部活にゃ入ったよ」なんて言いながら頭を掻いた。


「へ? 入ったのか。何やんだよ、俺ぁ凛太に格闘技やってほしいから、そういう系の部活紹介しようと思ってたのに」

「格闘技はパス。顔の形変わっちまうだろ」


 喧嘩して、顔面に青あざを作っていた中学時代は、それだけで女子から遠巻きに見られていた。なので、モテることが大事である凛太にとって、二度と顔を殴ったり殴られたりなどあってはならないのだ。


「じゃあ、どこに入ったんだよ」

「水上部」

「……水上? なんだそりゃ」

「何って言われてもなぁ……。スイジョーってスポーツをやる部活」


 どう答えていいかわからないでいる凛太を見て、鉄平は普段のニヤけ面からさらに口角を釣り上げて、凛太の肩に手を置いた。


「なっ、なんだよ」

「お前のことだ。どーせ、可愛い子がいるとかってんで、よく知りもしねーで入ったんだろ」

「それ以外に部活入る理由がいるか?」

「もっとあると思うけど」


 言いながら、鉄平はスマホを取り出して何かを操作し始める。

 そして「あったぞ」と、凛太の机の上にスマホを置いた。


「あったって、何がだよ」


 鉄平のスマホを覗き込んでみると、そこには、スイジョーをしている二人の若者の姿があった。

 海の上をライドブーツで駆けながら、オキシグローブで作った水の球を投げあっている様である。


「スイジョーって検索して、検索エンジンから動画サイトに飛んだら一番上に出てきた動画だ」

「……随分昔の映像っぽいな、これ。投稿日時が二〇年くらい前だ」


 どこの言葉かわからないが、笑いながらその男二人と、おそらくはカメラマンだろう男が何かを喋っていた。


「ふぅん。海の上で水の球をぶつけ合うのがスイジョーか?」

「いや、そんなんじゃないぞ。スイジョーの真似事、って感じじゃねえか?」


 そうは言いつつも、凛太はその動画に映っている二人の動きを見て、真似事と本気では思っていなかった。

 地面で枕投げでもしているような動きに、昨日直立だけで悪戦苦闘していた凛太は、上手い人達だなくらいの事はわかった。


「……これじゃあよくわかんねえなぁ。他の動画探してみっか」


 と、鉄平は凛太の机にスマホを置いたまま、他の動画を検索しはじめる。

 いいから寝かせてくれとは思うのだが、しかし先に予習しておくのも、先輩にいいところを見せられるかもしれない。


 そう思って、付き合う事にした。



  ■




「それじゃあ、今日はこれも着てね!」


 と、授業を終えて部室へ行くと、挨拶する前に楽しそうな笑顔で、所々に赤いラインの入ったウェイトスーツとオキシグローブを渡される凛太。


「も、もしかして先輩……このウェイトスーツとオキシグローブも……?」

「へ? 私のコレクションから持ってきたやつで、一番男の子っぽいデザインを選んだつもりなんだけど……気に入らなかった?」

「いっ、いや! そういうんじゃないスけど。でも、いいんスか? その、ライドブーツもウェイトスーツも、オキシグローブも、全部そろえたらすごい高いんじゃないすか?」


 頬を掻きながら中空を見て、硝子は「まぁ……凛太くんに渡したセットで、六万円くらいかなぁ。ライドブーツは限定品だから、ネットオークションでの相場になるけど」と、なんでもなさそうに言った。


「ろっ、六!? い、いつか払います! 絶対!」

「大丈夫だよー。私、小さなころからスイジョーしかやって来なかったから。お年玉とかお小遣いとか、全部スイジョーにつぎ込んできたから、いっぱい持ってるし」

「ぜ、全部? ……先輩っていつからスイジョーやってるんスか?」

「大体小学校の頃にはもうやってたかな。と言っても、回りでやってる人もいなかったし、海の上で走って、動画サイトで見たトリック真似したりとか」

「動画……あぁ、いっぱいありましたね。いくつか見たけど、あんなんマジで俺にできんのかよ、って感じのばっかで」

「もしかして予習でもしてた?」


 感心感心、と微笑む硝子。そして、それに見惚れる凛太。


「にしても、結構昔からスイジョーってあるんすねえ。見た動画の中にゃあ、二〇年くらい前の動画とかあったし」

「それって、もしかして『ニューウェーブ』?」

「ニューウェーブ……」


 一瞬、なんだそれはと思ったが、今朝見た動画のタイトルがそんな感じだったな、と凛太は頷く。


「あれが動画サイトに投稿されてから、スイジョーは生まれたんだよ。新たな時代には新たなスポーツ、って触れ込みでね。私もあの動画を見てスイジョー始めたんだ」

「そうなんスか……。でも、あれってレースってよりは随分遊びっぽかったっスけど」

「あの動画が投稿された後にどんどんルールが固まっていって、トリックも開発されてって……。だから、それはこの世界で初めて行われたスイジョーってわけなの」

「はぁー……なるほどなあ」

「さっ、今日も練習、練習! ここからは海の上で練習だから、気を抜かないように!」

「オッス!」


 先行ってるね、と部室から出ていく硝子を見送り、凛太もウェイトスーツに着替えてから遅れて部室を出た。

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