第3話『練習開始!』

 無機質な電子音が鳴り、布団から出ないまま、凛太はベッドボードに置かれていたケータイを取り、アラームを止めた。

 時刻を確認し、いつもの時間に希少できたことを確認すると、凛太はベッドを出て、カーテンを開けた。


 ここは、凛太が住む学生寮。窓を開けた先の景色は、アクアフロートの街並みが広がっていた。


 凛太にとって――というより、ここに住む人間以外には珍しい景色がそこには広がっている。この街には、他の街にある物が無い。



 道路が無いのだ。



 道路の代わりに、街中を血管の様に水路が流れている。そこを車の代わりに船が走っている。当然、WCSで動いている環境に優しいモノ。


 人間は歩道を歩き、そして、横断歩道の代わりに跳開橋が置かれており、赤信号で橋が上がり、青信号で橋が降りて渡れるようになるのだ。



 凛太は制服の学ランに着替えて、準備を整えて学生寮から出る。ちなみに、学生寮も普通の鉄筋コンクリート製に見えるが、WCSで加工された水で出来ている。凛太は見上げる度に、それを管理人から告げられた時の驚きを思い出すのだ。


 途中のコンビニでパンを買って、アクアフロートの端にある二柱高校へと辿り着く。端にある為、校舎裏がすぐ海になっている。凛太がここを受験したのは、それが気に入ったから。


 昇降口で上履きに履き替えながら、昨日のことを思い出す。水上部に入部して、今日から活動だというのに、その実感が沸かなかった。何せ、彼はスイジョーが何かよく知らないから。


 好みのタイプだったからと言って、焦りすぎたかなぁ、と少しばかり後悔するも、嬉しそうな硝子の笑顔を思い出し、その不安を外に放り投げた。



  ■



 退屈な授業を終えて、さっさと校舎裏にある砂浜へ向かう。今日から水上部として、練習をしなくてはならないのだ。部活に入った事がない凛太と言えど、先輩より遅く行くのは失礼だと判断し、気持ち早めに部室へ向かった。


 砂浜の隅にあるので、まるで海の家みたいだなぁ、と思いつつ、扉を開いた。


「ちわーっす。期待の新入部員ですよー」


 その部屋は、隅にロッカーがあり、そこかしこに訳の分からない機械らしき物が転がっている、妙にごちゃごちゃとした部屋だった。


 その中心で、ウェイトスーツを着た硝子が、嬉しそうに機械をいじっていた。


「うおっ! せ、先輩早いっすね……。俺もかなり早めに来たつもりだったんすけど」

「ん? ――あっ、凛太くん。おはよー」

「おは……? もう放課後っすよ、先輩」

「へっ!? 嘘!」


 硝子は、自分の隣に置いてあったスマホで時間を確かめる。そして、凛太の言うとおり放課後であることを確認し、「やっちゃったー……」と項垂れた。


「朝練しようとして、ちょっとライドブーツ直してたら夢中になりすぎちゃった……。でも、そのおかげで間に合ったよ凛太くん」


 そう言って、床に先程までいじっていたライドブーツを置く硝子。それは、まるでスニーカーのようなデザインをした派手なモノだった。赤地に白のラインが入ったそれを、指先で凛太の方へ押した。


「えっ……。なんすか、これ」

「これね、昔あったスイジョーの雑誌で抽選してた、限定品のライドブーツなんだ。大分前に当たったんだけど、私じゃサイズが合わなくて、コレクションになってたから……。凛太くんが使ってくれると助かるよ」

「ま、マジすか! いや、確かに無いと練習にならないけど……。でも、限定品なんてもったいないっすよ」

「いいのいいの。私の手持ちで、凛太くんのサイズに合いそうなのはこれしかないし。それに、やっぱり使われてた方がライドブーツも嬉しいと思うんだ」


 履いてみてよ、と向きを整える硝子。

 それに、凛太は履いていた靴を脱いで、履き替える。まるで初めて履いたとは思えないようなその感触に、少しだけ驚いた。


「どうかな? サイズ」

「……ピッタリ、です」

「そっか! よかったぁ……。明日にはウェイトスーツとオキシグローブも直しとくから」

「……オキシグローブ?」

「あとで説明してあげる。とりあえずまずは、練習しよっ」


 硝子は凛太の手を取り、部室の外へ引っ張っていく。彼女が今着ているのは、ウェイトスーツ。そして、履いている靴はライドブーツ。では、今俺の手を握っているこの黒い手袋が、オキシグローブなのか? と、凛太は首を傾げた。




  ■



 どうやら練習は海でするわけではないらしく、硝子は凛太を引き連れて校庭を横切って行く。

 しかしそうなると当然、校庭で練習している部活の生徒達に黒タイツ姿を見られるのだが、それでも平然としている硝子に思わず、


「あの……恥ずかしくないんスか? その、ウェイトスーツ……」


 硝子の体を指差す凛太。


「なんで? たまにこの格好で、学校内歩いてるよ?」


 と、逆に変なことを言うなぁ、みたいな目で見られてしまった。


 

 そうして、主に男子達にジロジロ見られながらやってきたのは、学校のプールだった。

 水が張られたそこに硝子は立ち、凛太はそれをプールサイドから見ていた。



「それじゃあ、まず凛太くんには、水面を歩いて、ここまで来てもらおうかな」

「へっ? そんな事でいいんすか?」


 凛太は、一歩水面に向かって足を踏み出した。

 さすがに一瞬不安ではあったが、両足を水面に置くことが出来た。


「おっ、おぉ……!?」


 その感動も束の間、凛太は気づいた。


 ちょっとずつ、勝手に足が前へ移動している事に。


 それはバイブで震えるケータイを地面に置いた時のような微々たるモノではあるが、それで自分が移動しているという違和感が、かなり心を揺さぶる。


 というより、まともにバランスを取る事ができないのだ。


 地面が少しずつ揺れている上、ただでさえ不安定な水面。実際に立ってみると、直立できている硝子がどれだけしっかりとした体幹を持っているかがわかった。


 靴裏が超微小振動を起こしている所為で、一定の位置に留まるには、それに合わせて細かに筋肉を動かして調整してやる必要があるのだ。


「どれだけかかってもいいから、私のところまで歩いてきてっ」


 と、少し大きめな声を出す硝子。初めての後輩の指導で、気合が入っているらしかった。


「うっ、ウス!」


 しかし、何故かまず一歩が踏み出せない。どう足を出しても、一歩目でコケる気しかしないのだ。


(さすがに、先輩の前でこうしてずっとウダウダやってるわけにもな……。覚悟決めっか!)


 凛太は、硝子にバレないよう、拳を握って、一歩大きく踏み出した。


「あっ、ダメ!」


 そんな硝子の言葉も遅く、凛太は大股で一歩踏み出す。

 踏み出した右足が、ズルリとバナナの皮でも踏んだ様に滑って、大きく開脚するハメになった。


「いぃ、っぎッ!?」 


 無茶な開脚をさせられた所為で股関節から嫌なビキッという音がして、痛みをこらえようとして足を閉じようとしたら、バランスを崩してしまい、凛太は思いっきり水面へとダイブするハメになった。


「りっ、凛太くーん!?」


 水面を滑り、すぐに水底へ手を伸ばして、凛太の手を掴んでひっぱり、プールサイドを掴ませる。

 凛太は慌ててプールサイドに這い上がると、水が鼻に入ったのか、咳き込んでいた。


「ゴホっ! ゴホッ! しっ、死ぬかと思ったぁ!」

「だ、大丈夫、凛太くん……? ごめんね、コツを先に教えておけばよかったね……。指導するのに慣れてなくって……」

「だっ、大丈夫……っす……」


 硝子が背中を軽く叩いてくれたおかげか、すぐに咳も止まり、凛太はゆっくりと立ち上がる。


「ほんとにごめんね……。大丈夫?」

「もう大丈夫っす。ケホッ……!」

「そ、そう? えと、すり足みたいな感じで、軽く足を出すと上手く行くから、その感じでやってみて」

「ウス……ッ」


 

 先程よりも慎重に水面へ足を乗せて、踏み出した足とは逆の足で水面を蹴り、踏み出した足でブレーキを軽く踏む様に歩いてみると、バランスを崩す事無くその場から動く事ができた。


 そもそも軽く震えて、常に少しずつ動いている状態なので、大きく動く必要はないのだ。

 

「上手だよ凛太くん! じゃあ次は、その場で一分間立ち止まってみようか?」

「えっ、次は立ち止まることですか……?」


 走る事じゃないのか、と思いつつ、凛太はその場で直立したまま、動かないように勤めた。

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