14 綻びゆくダンジョン

「イド、そろそろ帰らない?」

「うん? ああ、だな。宝箱がバウバウ上ってくる前に行くか」


 ダイスたちが消えてからしばらく経った。あいつらの目的は俺に会う事だったみたいだし、前回の赤毛魔犬イレギュラーの件もあってかダンジョン自体の異変を気にしていたようだから、そういつまでも残ってレベリングはしていかないと思う。さすがにまた顔を合わせる気まずい展開にはならないだろう。

 休んでいた壁から背中を離すと先に出口へ向けて歩き出していたカレンに追い付いて隣に並ぶ。

 正直言うと何だか少し恥ずかしい。カレンは何も言わないで俺が落ち着くのをただ待っていてくれたから。


「…………ぁ、りがとな」

「え、何?」

「こ、この先は広場だよなーって思って。ここ地下1階だし、よく他の冒険者がいるから目立たないようさらーっと通り過ぎよう、な!」

「う、うん? それはまあ、いつもそうでしょ」


 この洞窟通路の先には昼食を摂ったのと同じ広さの広場があり、他の階層の地下広場と違い入場ゲートを通って割とすぐの広い場所だからか、仲間との待ち合わせや合流場所としても活用されている。商魂逞しいアイテム商人なんかもその広場にはよくやってくるから、時折り彼らと勘違いされて話し掛けられる。そんな風に人目があるから俺はなるべく気配を消していつもそこを通っていた。

 閉場時間に近い午後のもう遅い時分になると、これからレベリングしに奥に向かおうって冒険者はほとんどいない。今は通常よりも入場者が少ないから尚更に俺たちは通路じゃ誰ともすれ違わなかった。


 広場に辿り着くと、さすがに案の定他の冒険者たちの姿があった。


 ただ、予想外にもその人数は多い。


 まるで今日来た冒険者たちがほとんど皆足止めを食らっているかのように。


「何だ、まだいたのかダイスたち……」


 位置的には四角い広場の対角線の端と端くらいにかなり離れてはいたが、俺は彼らに気付いて顔をしかめた。

 すると、時に血の繋がりは何らかの直感を齎すのか何と偶然ダイスもこっちに気付いて顔をしかめた。ダイスが何か言ったのか遅れて残りの二人も俺たちを認識する。

 ただし、二人の方はダイスとは異なり顔を明るくした。

 ……何だか面倒事の予感がするな。


「ねえイド、彼らってさっきのよね」

「あー、うん」


 カレンも気付いて同じ方を見据えた。


 結論から言えば、予感は的中した。


 二人に背中を押され渋々な感じのダイスがこっちに近付いて来る。この時まだ俺は周囲にまで意識を向けていなかったが、周囲の誰もがその顔に不安を浮かべていた。


「何だよダイス、まだ何かあるのか? あーもしかしてやっぱ金返せって?」

「は? 違えよ」


 どうしてまだいるのかって不満を滲ませれば、ダイスは苦々しそうにする。顔を合わせるのが嫌なら傍に来なければいいだろうにな。


「俺らだってとっとと帰りたかったんだよ。けどこうして待機を余儀なくさせられてる」

「待機? 何かあったのか?」


 ダイスが広場から続く通路の一つへと目を向け溜息をつく。ダンジョン入場ゲートに繋がっている通路だ。


「あの通路の先にダークハウンドが出たらしい」

「は? ダークハウンド? 間違いないのか?」


 俺とカレンはちょっと大きく両目を見開いた。

 咄嗟には半信半疑ってのが本音だ。黒毛魔犬ダークハウンドって言や……――連日話題の異常種イレギュラーと同じ種だ。


「ああ、すぐにどこかに見えなくなったとかって話だけどよ、目撃したのはそのパーティー全員だからダークハウンドで間違いないみたいだぜ」

「それでこの人数が足止め食ってるのか」

「あー、足止めっつーか自主的な待機って言った方が合ってるか? 万一襲ってきても少数じゃ勝ち目はないがここにいる人数でなら押せるかもしれないってわけで、下手に動くよりベターだろって皆で固まってるんだよ。まあその前にギルド側で安全を確保してくれるのを願うけどな。でなけりゃ閉場後に強制転送されるのを待とうってのがここの大半の奴の考えだぜ」


 なるほど、だから出るに出られないのか。

 またこんな下級ダンジョンの浅い階層で本来は出ないはずの魔物が出たなんて、いよいよこのダンジョン自体がヤバい気がしてきたな。


 加えて黒毛魔犬ダークハウンドは、下級ダンジョンにいる冒険者のレベルじゃ到底手に負えない。ダイスの舎弟二人が顔を明るくした理由がわかった。自分たちより遥かに強いカレンがいたからだ。

 だが、カレンでも戦えば苦戦を強いられるだろう。


 先日の赤毛魔犬レッドハウンドとは根本的に違う。本来このコーデルダンジョン自体に現れないはずの魔物なんだそうだ。


 上級ダンジョンに出た個体そのものなのか別のなのかは現状からじゃわからないが、どちらにせよ厄介過ぎるだろこれは。

 冒険者保護の魔法があるから仮に攻撃されても寸止めになって死にはしないかもしれない……が、運悪く死ぬかもしれない。

 必ず魔法が発動するかどうかを俺は危ぶんでいる。どうにも不穏さを拭えないせいだ。ダイスたちみたいに人数がいるから安心なんて楽観視はできない。ザコが何人集まったって所詮はザコでしかないし、かなりのレベル差のある相手には数で押す云々は通じない。

 俺とカレンは表情を険しくして視線を交わし合う。


「ギルドが動いてくれるのを悠長に待つのは得策じゃないわね。すぐにここから出た方がいいと思う」

「俺もそう思う」


 僅かに緊迫感を滲ませる俺とカレンの様子に、ダイスたちは冗談でも聞いたようにややポカンとしてから慌てたように行く手を塞いできた。苛立ったダイスが馬鹿を見る目で俺を睨む。


「お、おい何言ってんだよ、危ねえだろ。魔物と鉢合わせたらどうするんだよ!?」

「何だよ、心配してくれてんの? 明日は槍でも降るかな」

「ばっ、違えよ! 折角皆で息を潜めてんのに刺激するような真似すんなって意味だ。もしお前らがおめおめとこの広場に逃げ込んで来たら、敵にむざむざこっちの位置を知らせることになるだろ」


 考えが甘い。


「はあ……、あのなダイス、俺たちがずっとここに留まっていたところでダークハウンドが現れない保障はどこにもない。通路に出たならここにだって出る。今現れないのはたまたまだ。最善は一刻も早くダンジョンを出ることだよ」

「……そ、そう言われるとそんな気もするぜ。けど途中で出たらどうするんだよ」

「あのなあ、何のための索敵スキルだよ。突然降ってきでもしない限りは魔物を察知した時点で近付かなきゃいいだろ」


 ダイスたちは目線を下げてしばしだんまりになった。その方法ですら物怖じするのか? おいおい、冒険者業は安全から程遠い職業だってわかってる?

 逆に呆れてこっちも物を言えないでいたら、ようやくダイスが顔を上げた。


「ならお前らとゲートまで行く。お前の仲間は強いみたいだからな、いざとなれば盾にできる」

「「さすがは坊っちゃん!」」


 ははっ、相変わらず発想が下衆だな。まあしかしカレンは気にしてなさそうだ。俺にもダイスたちの行動を止める気はない。勝手に付いてくるなら付いてこればいい。

 カレンを先頭にして広場の中程に差し掛かったところだった。


 何か、本能的なものが震えた。


 思わず一人足を止め振り返った俺の視界に不可解な光が入ってくる。


 正確には上から射し込んでくる、だが。


「……は? 宙に魔法陣?」


 治癒でも防衛でも攻撃のでもない。


 テレポートのだ。


 大きめのものなのでそれに合わせたサイズの何かが転送されてくるんだろう。


 ……だが、あの大きさはおそらく人じゃない。


 じゃあ、何が来るんだ?


 俺の呟きが聞こえたのかはたまた自ら察知したのか怪訝気にカレンが振り返り、ダイスたちも見上げた。

 近くにいた者、離れていた者、広場のほとんど皆がもう異変を悟って天井には及ばないまでも高い位置に浮かぶ魔法陣を見上げている。


 嫌な予感にぞくりとした、と同時にそいつは陣から生まれ落ちるように滑らかに地面に降り立った。


「なっ!? 真っ黒い毛の魔犬……――ダークハウンドか!?」


 誰かがそう叫んで動揺が走る。まさにそいつを回避しようとこの場に集まっていたにもかかわらず遭遇するとか、この場の皆はホントツイてないな。想像するまでもなくパニックに陥った低級冒険者たちが広場から幾つか伸びている通路に殺到した。ダイスたちもその例には漏れない。


「うわっとっとっ」


 密集するという程には密度はないが、走ってきた見知らぬ誰かから肩をぶつかられよろける。

 いつの間にかカレンとも距離ができていて、俺は彼女が転んだりしないかって焦って思わず手を伸ばした。俺よか断然強いんだからそう心配なんて要らないとは思わなかった。


「カレン! 平気か!?」

「イド! ――後ろっ!!」


 え?

 肩越しに見えたのは黒毛魔犬ダークハウンドの跳躍の影。

 素早い。いつの間にこんな距離に!?

 偶然か故意か、そいつは俺へと毛深くて太い脚を突っ込んでくる。

 これは避けられない。

 いやしかし冒険者が死なないよう寸止めで済むんだろ? ダンジョンの寸止め魔法が働くよな? たとえ怪我はしても命に関わるような酷いのにはならないんだろ?


 だが、本当にこんなどう見ても異常事態の中でも正常にシステムは働くのか……?


 さっきも同じ事を懸念したばっかだ。俺の弱さで受けたら再起不能は確実だ。

 そんな思考は高速で回るのに、変に硬直した体は時間が止まっているかのように一切が動かせない。武器の棍棒もただ汗を握る手の中では役立たずの代物だ。

 あ、これはマジでヤバい?


「イドーーーーッ!」


 カレンの悲鳴が聞こえる。

 ああくそ、最低だろ俺。

 またカレンに悲しい思いをさせるのか? 新たなトラウマを残すのか?

 嫌だ。


 だが……――悪い。


 黒く鋭い鈎爪が俺の脳天をカチ割りそのまま上から下まで体を引き裂くように振り下ろされる。


 痛みはなかった。


 肉薄した鈎爪の先の皮膚一枚の空白が全てを覆したから。


 ――魔犬の方が吹っ飛んだ。


 何か強い力によって離れた広場の壁まで跳ね返された魔犬は路地裏の負け犬みたいな甲高い鳴き声を上げた。しかも次には何とテレポートで逃げた。

 呆気なくも、最早魔物は居なくなった。

 遠くのやや凹んだ壁を呆然として眺める俺は力が抜けてへたり込む。


「イド! 平気なの!?」


 カレンが駆け寄ってきて俺の前に膝を突く。

 しかし俺は彼女の方へは目を向けられなかった。

 俺の視界には幻想的な雪を思わせる白くて長い髪が揺れていた。


「イド、平気です?」


 少女の纏う黒いフードローブがより白の美しさを際立たせる。一対の瞳は爛々として紅く、それらは俺を案じるように細められている。


「カ、ヤ……? ――カヤ!」


 今度こそ俺は懐かしい相手を前にして、消えてしまう前にと身を起こしその細い腕を捕まえた。ほとんど無意識にした反射的な行動だった。


「カヤが俺を助けてくれたのか? なあカ――!?」


 なのに、掴んだと思ったらするりと指先は空気を握った。カヤは嘘みたいに滑らかに腕を引いたんだ。これ以上俺に触られたくないみたいに……。


「一時的に退けただけです。それなら大丈夫」

「えっ、し、退けた? 大丈夫って何の話だよ? まさか俺のことか? それとも魔物の?」

「魔物、です。……イド、ごめんねです。うちにはそれしかできない。だから、お願いだから、――魔物を殺さないで。駄目です」


 別段俺が避けられたわけじゃなさそうでほっとする反面、ああまただと気分が落ち込む。折角久しぶりに会ったってのに再会を喜ぶよりも魔物を殺すなってそれを熱心に口にする方が先なのか。どこかいじけた気分でぐっと咽に力を入れる。

 カヤには沢山訊きたい事があるのに。今までどうしてた、とか。だがまずは訊くべき事を訊こうか。


「それは、その…………カヤが魔物の味方だからか?」

「うちは、イドの味方」

「俺の?」


 即答したカヤは困惑を浮かべる俺の顔を見つめてどこか悲しげにした。そしてそっと微笑んだ。何か辛いのを我慢したような顔で。


「またね、です」


 カヤの姿が薄れる。


「え、まだ話は途中だろ、待ってくれって! カヤ!」


 もう一度手を伸ばして叫んだ時には姿はなかった。

 嘘だろ? どうして消えるんだよ。


「イド、今のは誰? ……ううん、何者なの?」


 慎重な面持ちのカレンが問い掛けてくる。慎重というより警戒と表現してもいいだろうか。


「何者……か。俺の友人だよ。カヤって言うんだ」

「そう、あなたの友人……。あの子は、人なの……?」


 俺は即答できなかった。


「……さあ、な」


 断言も。


「友なのは確かだよ……」


 だって俺にもわからない。


「……ふぅん、そう。ま、とにかく無事で良かったわ」


 思考が纏まらずに俯いていたらカレンの静かな声が降った。追究がなかったのは些か意外だった。


「正直、また失ったかと思ったから」


 ハッとした。そうだよ、トラウマを刺激した。


「カレン悪いっ――……え?」


 声が湿って聞こえて俺は泣かせたかもと焦って顔を上げた。

 しかし彼女は微笑んでいた。泣いてはいなかった。

 なのに、とても脆く見えたのは何故だろう。

 自責のようにも見えた。

 さっきカヤが浮かべた笑みみたいに……。


「カレン……?」

「イド、あたしもっと強くなるわ。今度はあたしがあなたを護るんだから。……とーはー言ーえっ、あなたはあなたで心置きなく強くなりなさいよね? いいわね?」


 瞬きの後にはいつものカレンだった。気のせいかと思ってしまうみたいに。

 周囲は大半が逃げてほとんど人が残ってはいない。

 この件は早急にギルドに報告するべきだろう。


 管理されているはずのダンジョン内で、本来出現するはずのない魔物それ自身がテレポートまでする。


 端的に言って、ヤバい。


 それにそうか、だからこれまで誰にも討伐されずに逃げ回る事が可能だったのか。一流冒険者たちでも見失ってしまったのはおそらく他の階層にテレポートしていたからだ。いくら索敵が得意でも真上や真下ならいざ知らず、離れた階層まで一度に網羅するのは一流でも至難の業だ。

 逃げの早さの謎はこれでわかった。


 しかし、より面倒な展開になったと言える。


 昨日までは確かに上級ダンジョン内だけだったのが、今日は下級ダンジョンにまで出没範囲を広げたのは由々しき事態だ。


 これじゃあ冒険者が怖がって育成どころじゃない。

 明日にもダンジョンの全面封鎖もあるかもしれない。


「魔物はどこかに消えちゃったし、とりあえずは帰りましょうか」


 カレンの言葉に俺は広場内をぐるりと一度見回した。たぶんこの場じゃカヤはもう出てこないと思った。何となく。


「ああ、そうだな」


 存在を半分忘れていた棍棒をふと意識する。これも言ってみればカレンとはまた違った相棒だ。

 ……使ってやれない不甲斐ない持ち主で悪かったな。

 握る掌に気持ちと力を込めてやる。

 少し後ろ髪を引かれる思いがしなくもなかったが、カヤの消えた辺りを一度だけ見据えてからカレンを追って歩き出す。


 ――イドの味方。


 頭の片隅ではいつまでもその言葉がぐるぐると巡っていた。





 その夜、この件についてのギルドからの対応が即時通達された。

 それによれば、下級ダンジョンは明日以降も通常通りに開場閉場するそうだ。


 ただ、ダンジョン魔法を強化するとか何とかで、コーデルダンジョン全体がテレポート不可領域になる。

 クエスト達成までの一時的な措置だそうで、黒毛魔犬ダークハウンドが下級ダンジョンにテレポートできなくするのが主な目的らしい。


 デメリットは閉場後の強制転送も不可能になる点くらいか。


 ダンジョン内に居る冒険者は自力で出口まで辿り着かなければ外には出られなくなり、緊急時の即時脱出が難しくなる。

 まあギルドの方でも下級ダンジョンに関しては一流冒険者による見回りを始めるって話だから帰れなくなったとかの心配はしていない。彼らが出口まで連れていってくれるからな。


 あとどうやら今日見た個体は上級ダンジョンで騒がれている個体そのものだったらしい。まあ、だよな。そうホイホイ何体も非常識なのが現れて堪るか。


 そしてもう一つ、これは巷の冒険者たちには関係のない話だが、コーデル上下物流は、ギルドから正式に上級ダンジョンの補充作業の再開を要請されたと、遅くまで事務所に詰めていた俺たちはウォリアーノさんからそう伝えられた。


 俺は言うまでもないが、リリアナさんとアシュリーさんは現状じゃ上級ダンジョン入りは不適格。俺からすればめちゃ強い二人はリリアナさんがレベル37でアシュリーさんがレベル41。だが黒毛魔犬ダークハウンドは手に余る。

 必然的にカレンとウォリアーノさんが行くほかないんだが、数日間はまずは様子見も兼ねて会社で一番強いウォリアーノさんが行ってみると言っていた。

 だからまだ明日、俺はカレンと下級ダンジョンに潜る予定でいる。

 そのあとは、ウォリアーノさんの判断でカレンのシフトを入れるから、地下の方は俺とリリアナさんとアシュリーさんの三人で回すようになるだろう。


「今日は色々あって疲れたし、明日は朝一出勤じゃなくてもいいでしょマスター? ダンジョンの様子見も兼ねて少し遅めの開始でも問題ないわよね? このところのあれこれを鑑みると、開場の時点で観測システムには異常がないって情報をギルドからもらっておくだけでも安心だし」


 長椅子に背を預けたカレンが肩でも凝っていたのか、凝りを解すように首を回しながらウォリアーノさんへと視線を送る。確かに最近のコーデルダンジョンじゃ頻繁におかしな事が立て続いていて彼も社員の安全面を考慮したのか小さく頷いた。


「そうだね。カレンの懸念ももっともだ。こちらとしてもその手の情報を事前に把握しておけば心構えも違うだろう。よし、明日は皆遅めの出勤で構わないよ」


 つまり、早朝の開場の鐘と同時のダンジョン入りはなし。


 リリアナさんとアシュリーさんも朝遅くまで寝ていられるからか機嫌を良くした。

 俺たちは膝を突き合わせてそんな取り決めをして、この日は何事もなく解散した。


 夕食を屋台で買って帰った借家にはまだ親父の姿はなかった。どうせソルさんと一緒だろうしあまり心配はしていない。ソルさんが一緒だからな。ソルさんが。

 食事を済ませて腹を休めて体も洗ってさっぱりした頃にはもういい時間でご近所も静かになっていた。


「親父、今日は遅いのか。ソルさんと飲みにでも行ってるのかも」


 ふああ、と大きな欠伸あくびが出た。いつまで経っても帰ってこないから先に寝るかな。

 ダンジョン関係以外にもカヤの事とか考える事はあったが今夜はすごく眠い。濃い一日だったもんな。こりゃ思考を整理する前に意識が沈むな、なんて考えている今も睡魔に呑まれていく。

 よし、明日もカレンと仕事を頑張ろう……との気合いを念頭にぬくんだ布団の中で目を閉じた。

 いつものような明日が待っている、と俺はそう信じていた。






 その夜遅く、コーデル上下物流事務所に来客があった。

 中はまだ明るいが、若者たちはとっくに皆帰宅しており、残っていたのはその喫茶店兼事務所のマスターのみ。

 たまたま事務所の方にいたウォリアーノは玄関のすぐ外側に降り立った気配を悟り、静かに歩いてドアを開けると来訪者を見下ろした。見上げる深紅の瞳とぶつかる。


「お久しぶりですね。そのうち、もしかしたら来るかもと思っていたのですよ、――カヤール様」


 穏やかに笑い含んだウォリアーノへと、白髪の少女は極々小さく頷いた。


「久しぶり、です。――オーウェン・ナザール・ウォリアー」


 ウォリアーノは眼鏡の奥で軽く目を瞠った。


「……そのフルネームで呼ばれるのは何年ぶりかな」


 独り言ち、彼は体をずらすと深夜の客人を中へと通した。

 促しに一切の躊躇いなく歩を進める少女カヤールことカヤは応接椅子に腰掛ける。ウォリアーノは彼女に少しだけ待つように言って喫茶店へと一時消えた。


 ウォリアーノは勇者パーティーの一員で、イドともかつて旅をしていた。


 五年前のイドの大怪我の時もその場にいた。故に、カヤールを知っているのだ。


 もう何度も面と向かっているのにイドが彼の正体に気付かないのは、大きく髪型が変貌したへんてこバンダナのなにがしとは事情が異なり、元々イドが彼の顔を知らないからだ。引く手数多な優秀魔法冒険者の彼は望まぬ勧誘や引き抜きなどの面倒を避ける意味もあって面具を着けていたのだ。

 当時イドからはシャイなのだと思われていたようで「シャイおじさん」と呼ばれていた。ウォリアーノとしてはせめてお兄さんと呼んでほしかったが。


 間もなくして銀のトレーを手にウォリアーノが戻った。その上には皿に盛り沢山と盛られた焼き菓子と甘い甘いホットチョコレートのカップが載っている。

 彼はどうぞとカヤに勧め自分は向かいの椅子でコーヒーのカップに口を付ける。昇る白い湯気がふわりと崩れた。一息入れるとカヤに目を向ける。


「カヤール様、ダンジョンの方はどうです?」

「予想よりは平坦」


 平坦と言う本人の言葉以上に感情の起伏の薄いカヤに、問い掛けたウォリアーノはついつい苦笑する。


「このところのイレギュラーの著しい増加と、ダークハウンドの出現は、どちらも関係あるのですよね?」

「ある」

「やはりですか。ではこの現状を、いやこの先をどう見ています?」

「何があろうとうちは、イドといる、です。それだけは、揺るがない」


 カヤはそう言って幾つか種類のある焼き菓子からタルトを手に取り小さな口で頬張った。綺麗系の見た目で小動物を思わせる可愛い食べ方をするカヤへとウォリアーノは薄いレンズの奥の瞳を緩める。カレンを思い出したせいだ。

 カヤは無言でその姿を見つめる。その紅眼には同情も憐憫も何もない。


「オーウェン」

「はい?」

「もう……後悔だけが残らないように、です」


 カヤの薄い抑揚の裏には彼女なりの思惑と深い感情が込められているのだと、ウォリアーノは知っている。

 カヤは徐に椅子から立ち上がった。いつの間にか皿の上の菓子たちは一つもなくなっている。


「あなたに一つ忠告、です。コーデルダンジョンはもう、限界」


 ウォリアーノは息を呑んだ。


「そ……れは、まさか、そこまでなのですか? 確実に?」


 小さく頷くと白髪の少女は玄関へと歩いていく。


「イドか、この王都かなら、うちは当然イドを護る」

「まるでダンジョンのみならず、王都にまで影響が広がると言っているように聞こえるのですが……?」

「あのダンジョンは、かつてのこの地を荒野から恵みの地に変えた。今の王都があるのはそのおかげ」

「なるほど、王都にはそのような成り立ちの秘密が……」


 ダンジョンがあるからこそ拡がった繁栄。

 ウォリアーノは驚きと、どこか無念のようなものを浮かべる。

 彼も薄々この王都とダンジョンには密接な繋がりがあるのを察していたのだ。だから彼は冒険から身を引いてからはギルドの下でダンジョン管理の一翼を担う道を選んだ。


「情報の共有はするです。イドのために……」


 ふっとウォリアーノは微笑した。華奢な背中に柔かな声が投げ掛けられる。


「カヤール様は本当にイド君が大切なのですね。その気持ちを大事にして下さいね」


 歩みを止めた彼女は静かに瞬いた。数度そうしたあと「……ん」と言葉の意味がようやく浸透したかのように言葉を零す。ウォリアーノから激励されるとは微塵も考えていなかったようでもあった。


「うちは、罪深い……。イドを、利用している……してしまった、から。だからこそ、何でもする、です」


 ――少年の優しい願いを壊さないために。


 ウォリアーノが心で紡がれた声を聞いたはずはない。しかし彼は彼女の想いを察したかのように優しく目を細めた。


「カヤール様、今夜はわざわざありがとうございます」


 最後、姿を掻き消す前、彼女はこくりと首を頷かせた。

 しんとした事務所にぽつねんと残されたウォリアーノは、暫しして手元に目を落とすとどこか疲れた笑みを浮かべた。


「私にも理解できるよ。大事な誰かのためにひたすら走る気持ちはね」





 

 

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