7 イレギュラーなイレギュラー

 嘘だろ!? 今のだけで体力の三割は削られたって!

 予想以上に強い魔物の膂力りょりょくに俺はこの上ない驚愕と違和感を覚える。

 魔物は飛び入りの俺を警戒してか一度後方へと下がった。


「大丈夫ですか!」


 その隙に振り向いた俺の心臓が、どくりと嫌な感じに跳ねた。皆男性で、俺は彼らをよく知っていた。


「ダイス……」


 魔物に追い詰められていたのは、通路に尻餅をついているダイス本人と彼の腰巾着二人の計三人。俺は思わず顔をしかめていた。

 奪われた巾着財布は何と中身ごとアシュリーさんの手で戻ってきたんだよな。尋ねても何があったかまでは教えてくれなかったが。とは言え顔を見たら胸糞が悪くなるのは道理だろう。


 カレンの言う事を聞くべきだった? 俺は何かを間違えた? だからこんな巡り合わせなんて起きたのか?


 意味のない自問自答に気を取られたせいで、魔物が標的を俺に変更したのに気付くのが遅れた。


 ガオオオォォォルルルルルルルッ……!


「――ぐうッ!」


 吼えると共に接近し振り回された鋭い爪に咄嗟に反応するも不完全。棍棒で上手く力を受け流せず半端な防御のまま吹っ飛ばされる。


「っうぐ……ッ……くはッ!!」


 ドッと壁に背中を強打して不格好に地面に転がって咳き込んだ。

 今ので肋骨が何本かいったかも。息をするだけで痛む。

 ドッと冷や汗が噴き出す。

 俺の中の違和感がいよいよ膨れ上がり、魔物の姿を注視する。


「嘘だろ……。こいつ、イレギュラー!?」


 思わず両目を見開いていた。


 通常灰色のコーデルハウンドの毛並みは、よくよく見れば何と赤みがかっている。


 てっきり通路照明の反射かと思っていたがどうにも違う。

 通常形態と外見がどこか異なるのは異常種イレギュラーに共通する特徴だ。


 測定スキルを使えば、レベル15と出た。


 道理で力も強いわけだ。これは絶望的に厄介な相手だな。

 一般的にレベルが10も開けば、それはもう大人と子供くらいの差がある。

 レベル7のダイスとそれより一つか二つ上の取り巻きたちがこいつに苦戦するのも無理はなかった。レベル差を見ればまあ俺のがもっと分が悪いのは置いとくとして。

 完全に俺をターゲットとしたイレギュラーは俺の方へと疾走してくる。

 怒ったカレンはきっと当分角を曲がっては来ないだろう。

 友情交渉も儘ならないし、到底俺一人で敵う相手じゃない。

 カレンが居れば問題はなかっただろう、が……。


「頼むから来るなよ、カレン」


 レベル52の彼女の敵じゃないのはわかっている。助っ人として申し分ない。

 ただ、たとえそうだとしてもイレギュラーを見せたくなかった。

 癒える事のない過去の辛い記憶を想起させてしまうのは避けたかった。他の道から先に帰っていてくれればいい。

 どうせここで死ぬ危険はないんだし、俺の目的も討伐じゃなく最終的には全員が逃げ切る事だ。


「何してる! 逃げろダイス!」


 荒い呼吸を繰り返し、棍棒を杖代わりに体を支え立つ俺は、恐怖に呆けていた三人へ向けて一喝した。

 同時に別の自分が彼らなど放っておけと怒ったが、俺はそうせずにはいられなかった。相手が嫌な奴だろうと誰だろうと助けを欲しているのならごちゃごちゃ考えず助ける。それだけだ。しこりなく赦すなんて高尚なものは持ち合わせていない。だが俺は俺の行動に後悔はしたくなかった。

 我に返って恐怖より生存本能が勝ったのか、三人は無様な悲鳴を上げてまろつ転びつ魔犬との距離を稼いでいく。


 その間幾度かの友情交渉の呼びかけをしたが予想通り徒労に終わり、俺は赤色の魔犬と本格的に対峙した。


 突っ込んでくる魔犬の速度も利用して四肢を狙い棍棒を力一杯横に薙ぐ。

 通常種よりも防御力もあるため歯を食いしばり、両腕が痺れるように痛むも我慢する。

 魔犬はよろけただけだった。


「くそっ、やっぱ手強いな」


 少しでも彼らが逃げる時間を稼がないとならないのに、あまり芳しい成果は期待できない。

 魔物の瞬発力を見るに悠長に回復魔法やアイテムを使っている余裕はなさそうだった。

 目晦ましや麻痺毒アイテムで動きを鈍らせ鋭い爪による攻撃をぎりぎりで回避しながら、一秒でも二秒でもロックを俺へ引き付けておく。


「そろそろ、もう、大丈夫か?」


 再度の捕捉がないような十分な距離に逃げてくれただろうか。

 息が上がる。胸部が痛い。興奮で痛みが減衰されていてもこれだ。

 命の危険に陥れば敵の攻撃は寸止めの連続になるだろう。

 諦めた敵が逃走するか、俺が逃走を成功させるか、それとも上位の冒険者が通り掛かって敵を倒してくれるか、俺の結末はいずれかだ。

 念のためあと少し時間を稼ごうと腰のアイテム袋に手を突っ込んだ。


「――えっもうない!?」


 袋の中はすっからかん。朝からの度重なる使用で尽きてしまっていたらしい。

 ハッと気付けば、魔犬の顔がすぐ傍にあった。

 俺が動いている間相手だって止まってはいないのだ。


「――っ!」


 咄嗟の反射で無意識に体をくるりと反転させ頭を喰い千切らんとしていたギザギザな牙を回避する。いくら死なないように寸止めになるかもしれなくても、それに頼って甘んじて待つなんてプライド的にも精神衛生的にも真っ平だ。

 しかし死角にあった凶悪な爪に横っ腹を引っ掛けられそのまま投げられた。

 軌道に沿って鮮血が舞う。


「――――づッ、ぐうぅッ!!」


 辛うじて空中で体を丸め受け身を取り落下のダメージを最小限に抑えた。油断大敵とはこの事だ。完全にしくじったのは否めない。体力は急激に減り、満足に立っていられない。

 こんな怪我はここに来て初めてだった。

 このまま治療もせず放置すればたぶん血が流れ過ぎて命にかかわる。

 そう気付いて、慄然とした。


「え……なん、で……あり得ない……だろ」


 今までの戦闘ならもう、寸止めの対象だ。現にゴーレムの時はそうだった。なのに、これはどういう状況だ?


 そもそもこの浅い階層に異常種イレギュラーが出現しているのが解せない。


 地下11階から下の階にしか出ないはずなのに……。


 ――この戦闘は、どこかがおかしい。


 異常種イレギュラーだとわかった時点でもっと早く疑うべきだった。


 俺はよろよろと立ち上がり、それだけでも体中の筋肉組織が悲鳴を上げる。

 ただ、不審を抱いたところでこの怪我ではアイテムを使っても戦闘離脱は既に難しい。

 息は激しく切れ、全身から冷や汗と脂汗が絶えず滲みパタパタと額から顎から滴り落ちじっとりと背中をも蒸らす。

 きっとまだほんの数分にも満たない戦闘時間。

 情けなくも俺はもうボロボロだ。

 意識さえ疲弊して現実味が薄れてくる。


 もしかして、このまま、負けるのか、俺……。


 込み上げる感情に任せ知らず棍棒を強く握り締めていた。

 とんだ愚か者と揶揄されてもおかしくなかった。だって俺は命を落とすかもしれない現実よりも、負けて終わるという未来に意識が向いていた。

 親父との鍛練と一緒で、打ち負かされるのは心底悔しい。

 結局一度だって親父には勝てなかった。

 俺はこの魔犬にも無様に負けるのか?


「…………――嫌だ」


 痛みなんて忘れたように棍棒を構えた。


「俺は絶対倒れない!」


 自らを鼓舞するように叫んで地を蹴った。


 殺したいって気持ちはない。


 だがライバルと切磋琢磨する高揚にも似た感情が、この戦闘で初めて俺を明確な害意で以て攻撃へと駆り立てた。


 低い唸りを上げ正面から突っ込んでくる大きな魔犬に親父の姿が重なった。

 どちらも俺には過ぎる程の強敵だ。

 変な話だが最早魔物が相手だなんて感覚じゃなかった。

 純粋にただ、友情交渉も制約も何も関係なく、好敵手に打ち勝ちたい打ち負かしたい、それだけだったんだ。


「ああああああああああーーーーッッ!」


 その時、一体何を考えていたんだろう。

 カレンの舞うように華麗な剣技が過ぎって、棍棒を握る手に力が入った。


 かつて、親父は俺に剣の才能はないと断じた。


 なのに心は訴える。彼女みたいにできればどれ程痛快か、と。

 甘美な誘惑が忍び寄る。


 これが剣だったなら俺は――――負けない。


 ノイズが走った映像のように、一瞬だけ棍棒が揺らいだ。

 そう、これは俺の剣なんだと思ったら染み付いた動作のように体が動いて、いつもよりも軽々と武器を振り切ろうとしていた。

 下から上へとまるで斬り上げるように。

 刹那。


 ――――駄目っ……!


 まるで空気から溶け出るように、大きく両手を広げた白髪長髪の少女が俺と魔物との間に現れた。

 その懸命な赤の瞳にハッとした俺は、あらん限りの力で棍棒の軌道を逸らす。

 ほぼ同時。


「――ったしの相棒に何してんのよおおおーーーーッ!」


 気付けば背後から疾風のように飛び込んで来た裂帛れっぱくのツインテールが眼前の敵を屠っていた。


 一撃必殺。


 赤い魔犬の体が魔宝石だけを残し塵と消えた。

 その一連は、一秒にも満たなかっただろう。

 直後、


 ――ゴッッッガアアアアン! ドドドドドドドドオオオン!


 轟音と共にダンジョンの天井が崩落した。


「なあああッ!? うぐっ……!」


 反射的に両腕を交差させる俺の腹に何かが体当たりしてきて、俺はそのまま後ろに吹っ飛んで仰向けに倒れ込む。痛みで気が遠くなりそうだが、直前までいた所に大きな瓦礫が転がって来たのを見てゾッとした。さすがにあれは寸止めにはならないだろう。

 俺の逸らした攻撃は、どういうわけか天井をぶち抜いてしまったらしく、崩れ落ちた天井の向こうから地上1階の管理施設の明かりが射し込んだ。






 立ちこめる土煙りの中、顔をしかめ荒い呼吸を繰り返す俺はその場に倒れ込んだまま耳をそばだてていた。疲弊した全身や肋骨、裂かれた脇腹が酷く痛む。

 ああ、本格的に、回復手段を取らないと立てないよなこれ……。

 小さな瓦礫でも乗っかっているのか体は重い。

 瓦礫……?

 いや違う。だって柔らか、で……。

 苦労して視線を下げた俺は意味ある言葉を失ったように絶句した。


 俺の無言の視線に応えるように身じろぎして体を起こしたその少女は、不純物の一切ない至高の宝石のような赤い瞳でじっと俺を見つめた。


 俺と異常種イレギュラーとの間に現れた白髪の少女だった。


 年は同じくらいに見える。

 どこか既視感のある強烈な程の清廉な容貌に、息を呑む。

 痛みも忘れ目を瞠る俺へと、少女が小さく呟いた。


「イド、ごめん……です」


 え……?

 俺を知っている?

 一体誰……って、白い髪に赤い目の女の子?

 脳裏に過ぎったのはたった一人。

 しばらく会っていなかったから正直自信はないが、昔ダンジョンで出逢って友達になった女の子、記憶の中の少女と重なるこの姿はあの子かもしれない。


「まさか、――カヤ?」


 すると彼女は嬉しそうに、そしてどこか悲しそうに微笑んで首肯した。

 やっぱりカヤなんだ。


「イド、お願いだから、魔物を殺さないでです」


 しかし懐かしさと安堵に言葉を交わす間もなく、彼女はそれだけを告げると霞のように姿を消した。


「え、カヤ……?」


 再会は刹那の幻のようで、俺は瞬きさえ忘れて彼女がいた空間を見つめた。


「イドッ大丈夫!?」


 異常種の魔石は高値で売れる。

 そんなレアな石の存在を失念しているのか、駆け寄って来たカレンは俺のすぐ傍に躊躇いもなく膝をついた。カヤの姿は見ていなかったのか、気にした様子はない。

 因みに魔石はざっくり魔結晶と魔宝石に分けられるが後者の方が価値は高く物によっては希少価値があったりする。

 そして今回の魔石はその部類に入るだろう。


「ん? イド、あなたそれレベルアップじゃない?」

「え……? あ――」


 自分の手を翳せば、薄ら光っている。

 カレンの活躍で戦闘が終了し、経験値の多い異常種を倒してレベルが上がったのだ。


「あたしのお零れでもレベル1でイレギュラー倒しちゃったら、そりゃ気前よく上がるってものよね」


 珍しくもないレベルアップに大した興味もなさそうなカレンとは裏腹に、俺はちょっと感動していた。

 たったの一つのレベルアップでも、今の俺には人並み以上の感慨深さがあった。

 この自分の体のギアが一段軽くなるような独特の感覚も久しぶりだった。身体能力の基礎値が上がっている証拠だ。


「レベル2……!」


 拳を握り打ち震える俺の度を超した歓喜に明らかに引いていたカレンだったものの、俺を見る眼差しの奥は態度ほど冷たくはなかった。

 経験値の法則で多くはカレンに振り分けられたとは言え、残りの分だけでも俺のレベルが上がるくらいには経験値量の豊富な相手だったらしい。

 ただ、レベル上昇が嬉しい反面複雑ではある。友情交渉はついぞ試せもしなかったからな。


 しかも俺はハッキリ言って経験値の法則が全く好きじゃない。


 連綿と続いてきた魔物の存在の妙だが、皮肉にもより攻撃し命を削り取った者に多くを捧げ、当然トドメを刺した者が最も経験値を得る。


 だが命を一番奪った相手に多くを捧げるなんて、献身的というか下僕的というか。人には思いも及ばない深遠なる慈悲と言えばそうかもしれないが、心がもやもやする。要は納得したくないんだ。


 それでも冒険者である以上、俺は嫌でもその法則下に置かれるほかない。


「レベルが上がったのはいいけど、その怪我は回復薬飲まないと駄目ね」


 レベルの上昇。しかしそれは身体能力基礎値の強化だけであって体力や怪我の回復とは別ものだ。

 怪我の治癒には別途魔法なりアイテムが必要なので、痛いものは痛い。うぅー、はしゃぎ終わったら痛みが増してきたー。

 加えて、たとえ体力を全回復しても怪我という元凶を癒さなければ、絶えず体力は減り続けるのでじり貧でしかない。

 その二度手間を省くために、一般的な回復薬は治癒効果プラス体力だったり魔力の回復効果が一緒になっている。ランクは言うまでもなくピンからキリまである。

 なんて余談になったが、俺の表情や顔色を見てカレンは自分の荷物から治癒回復薬ポーションの小瓶を取り出して俺の口に突っ込んだ。

 体がほんのりと優しい温かさに包まれ平常状態に戻っていく。


「ふう。ありがとなカレン。助かった」


 すっかり痛みの引いた体をゆっくりと起こして状態を確かめ天井を見上げた俺は、思わず思考停止したくなった。


「良かったもう大丈夫そうね。ところであなた全くホントに何てことしてくれたのよ」

「…………ハハハハ何が?」


 わかっていて空とぼける俺に、ゴゴゴゴ……と地鳴りが聞こえそうなくらいにお冠のカレンは唾を飛ばして怒鳴った。


「あれッ! あの天井ッ! ダンジョン壊すなんてあなたホント一体何考えてんのッ!!」

「……何も考えてなかったと思う」


 カレンが指差すその先にはぽっかりと見事な大穴が。


「ええそうよね。そんな事だろうと思ってたけど、どうするのよ!」

「あ……はは、どうしようなー……?」

「とにかく目立つのは困るから、誰かに見られる前にトンズラするわよ。まずは帰ってマスターの指示を仰ぎたいわ」


 トンズラ……。

 可憐な唇に似合わずな発言をする相棒の声を聞きながら、俺はダンジョンを壊すという前代未聞の所業をどう償ったらいいのか全く見当がつかず、途方に暮れるしかない。


「えーと、そもそも逃げてもいいのか?」

「仕方ないでしょ。新聞の一面を飾りたい? ダンジョンの裏方仕事の少年、国の財産のダンジョンを破壊する、なんて報じられたらあたしたちの仕事が皆に知られて業務にも支障が出ちゃうわよ。ここで顔を知られるよりは、後で内々に処理なり何なりしてもらう方向で動いた方が得策だと思うわ。そこら辺はマスターが何とかしてくれるわよ」

「そ、そうなのか」


 上部からはガヤガヤとした声が大きくなるばかり。幸い怪我人がいるような喧騒じゃない。まあそこは後で詳細を確認してみないと正確にはわからないが。

 恐る恐る覗き込む職員らしき人影が射した時点で俺たちは慌ててその場を離れた。






 底無しの沼のように深く、どこまでも肌に纏い付く暗闇の奥で、それらは行われている。

 新たに誕生したての魔物がまた一体、虐殺の檻に囚われる。

 そこにいる魔物たちはどれも長い魔法の鎖に四肢を或いは胴を繋がれ身動きが取れない状態だった。甲高い苦痛の叫びと苦悶の鳴き声、ヒューヒューと喘ぐ呼吸音があちらこちらで上がっていて切れ間もない。


 冷暗所たる寒々しさの中、時々何かが焼かれる炎の熱が広がるそこの光景は、ゾッとする程整然としていた。


 まるで何かの製造工場のように列を成した魔物たちの檻。その一つ一つには拷問と称せる器具が用意され、それらを使い魔物を斬り刻み突き潰し鞭打つなど暴虐の限りを尽くす人間たちの姿がある。互いの身元が露見しないように皆が皆仮面を装着し、フードローブを身に纏っている。

 仮面の隙間からは唸りのようにくぐもった声と、ヒタヒタと滴るものがあった。

 かつて愛する者を魔物に殺された彼らは復讐を果たして一様に歓喜に泣いていたのだ。


 異様。


 この狂気の空間を一言で表現するならこれしかないだろう。

 自らの血溜まりの中、息も絶え絶えに、人間という生き物に痛め付けられた魔物たちはその本能に憎悪を刻む。人間は敵、人間は殺すべき相手。そうでなければ我が身は痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛みを永遠に味わうだけなのだと。


 と、散々に傷付けられ死に瀕していた彼らは突如として救済される。


 立ちどころにすべての傷が治り、鎖が消え失せ、自由を得た身は堅固な檻からも解き放たれた。

 人間たちの断末魔が上がった。

 辺りが程なく闇特有の重々しさと静寂に満たされると、血に濡れた魔物たちの体が次々とテレポート魔法に包まれ始めた。


 瞬時にして別空間へ。


 コーデルダンジョンの各所へ。


 ここは魔物の供給源の一つ。文字通り生物が全くいなくなった闇は、また次の生贄たちを待つ。先と同じようにして好戦的な固体を生み出すために。

 その固体から直接ダンジョン内部で生じる他の固体にも伝染するのだ。人間への憎悪と敵意が。


 幾許か、時が経った感覚もなく時が過ぎた頃、くすくすくすくすと小さな笑い声が聞こえてきた。


 シャラリシャラリと、鎖の擦れぶつかり合う音も。


「くくく相変わらず悪趣味なことじゃのぅ。人間と魔物と一体どちらが醜悪かわからなくなるではないか。まあ良い、しかしあの程度のイレギュラーではまだまだ華々しさが足りぬ」


 鈴を転がしたような女の声は女がこの闇の主かのようにわんわんと響いている。実際に女の力はこの暗闇の空間を支配していた。砂漠の民のような白布を身に纏い、今は頭までをすっぽりと覆っている。

 ふと、女は顎を上げ、遠くを見つめるようにして呟く。横顔で白いまつげが上下した。


「最近ちょろちょろと煩わしく、懐かしいとは感じていたが……ふふっくははははっあははははっ、とうとうハッキリしたわ。まさかあの、堅物が愚かな選択をしていたとは、くはははは、滑稽滑稽。あの頃の誰がこのような現在を想像していたか、くくくっ、土台誰も無理じゃ、あははははははは!」


 暫く大哄笑が続いたが、ふつりと途切れる。


「あの人間の少年は道理で気配がおかしなわけか。……面白い。どうせならわらわの最後の余興としてくれよう。そなたは喜んでくれるかのぅ? ――アーネスト?」


 終いの声に微かな揺らぎが生じた。

 鎖の音が遠退き、それきり闇は意味もなくただそこに横たわるのだった。






「どうする、カレン……?」

「それはあたしの方が聞きたいわ」


 ゆらゆら揺れる二つの金色の尻尾を追いかける俺は、さっきから何度同じ問いを重ねただろう。

 とは言えどんどんダンジョンの深部に戻る相方に従う他ない。

 地上へ通じる道を進もうとした俺たちの行く手から複数の足音がして、地下1階だからなのかギルド職員が早々と下りて来ていたのを見たカレンが珍しく泡を食った顔で引き返し、別の道を遠回りしようとしたものの、そっちには別の冒険者たちが轟音を聞きつけ駆け付けてきていたので取って返し、残るは幸い誰もいなかった下階層への道だけになった。


 補充業を知らない面々からの現行犯逮捕を避けたかった俺たちには、下の階への道を選択する以外になかった。


 逃げるように下階へと下がり、余裕を持って地下4階で休憩にした。さすがにここに居れば犯人とすぐには結び付けられないだろう。

 索敵は止めないままに息を整える。


「まるで逃げ隠れする犯罪者の気分だ」

「現状ほとんどそれでしょうに」

「だ、だよなあ~……うわあ真面目にどうするよこれ。何か巻き込んで悪い」

「トンズラを促したのはあたしなんだからもう共犯よ。気にしないでいいわよ」

「カレン……」


 気に病まないよう配慮してくれたのかけろりとしてそう言ったものの、壁に背を預けるカレンは何か大きな憂慮でもあるのか、いやあるに決まっているか、彼女にしてはやけに思い詰めたような溜息を繰り返した。

 しばらく上階は落ち着かないだろう。


「なあカレン、管理施設大丈夫だと思うか? 穴から魔物が這い出したりとかは……」

「大丈夫だと思うわよ。あそこの職員たち強いもの。もう穴の部分に魔法障壁くらいは張ったと思う」

「そ、そうか。良かった。その点だけでも幸いだ」

「ねえそれより説明して。さっきの攻撃は何? あれは上級冒険者にならないと使えない攻撃剣魔法の真空刃よね。カマイタチとも言うけど。あなたあんな破格な攻撃できるなら下層でも苦労しないじゃない。ゴーレムでもサラマンダーでも一発でしょ」

「カマイタチって、俺が? ハハハまさか。習得してないし」


 俺は何の冗談かと笑い飛ばした。

 だってそうでもしないと俺の方の混乱が治まらない。

 レベル1の俺にそんな力がない事は俺自身が一番よく知っている。

 カレンは神妙な顔付きで俺を見つめた。


「そうよね。ええそうなのよね。レベル的にもそうなのよね。でもイドはちょっとやそっとの衝撃じゃ崩れないはずの頑丈なダンジョンを破壊したのよ。あたしでさえヒビだって入れたことないのに。まあ、そもそも真空刃でも穴なんて開けられるかもわからないけど、何であれそれとかそれ以上のミラクル技じゃなければ何なのよ?」

「だから俺にもわかんないって。きっとおそらくそこだけ天井脆かったとか老朽化してたとか……」

「それはまあ、可能性は否定できないけど……」


 納得いかない様子のカレンは俺をまるで睨むように凝視する。


「なあところでさ、カレンはイレギュラー倒した時に白髪の女の子を見たか?」

「女の子? さあ……。夢中だったし周りまではよく見てなかったから……ってあなたまさかそれが目的で助けに走ったの?」

「は? いや助けたのは男三人だし、そもそも誰がいるとかわからなかったって」

「まあ、普通に考えてそうよね。ねえイド、確認するけどあれってイレギュラーだったわよね」

「ああ、イレギュラーだった」

「やっぱそうよね。見た目もだけど、手応えも多少あったからそうなのよね」


 カレンは首の凝りでも解すように左右に動かした。


「もう何なのかしら。今日は踏んだり蹴ったりね。ダンジョン破壊にイレギュラーに、挙句にこの調子じゃ閉場間に合わなくてペナルティーだわ」


 俺は同意を示して苦笑するしかない。

 案の定カレンはカヤを見ていなかった。

 俺の中では天井破壊や異常種の他にも、もう一つの疑問が生まれていた。


 ――カヤだ。


 彼女が五年ぶりに突然目の前に現れた理由はわからない。


 あの時、彼女は身を挺していたが、俺じゃなく――魔物を庇っていたように見えた。


 魔物が俺に殺されないように。


 それに加えて彼女のああいう必死な顔を俺はどこかで見た気がするが、それが思い出せない。


 ――イド、ごめんね、です。ごめん、イド……っ。


 一瞬、断片的な台詞と共に幼い泣き顔が過ぎった。

 何だ今の……? いつのだ……?


 俺には少なくともカヤが泣いた所を見た記憶はないってのにさ。

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