ある老人の手記
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ある老人の手記、或いは遺書
死について語ろうか。
私がこの世に生を受けてから既に60年が経ってしまったが、死というのは唯一かつ絶対の救いであるように思える。というのも私は、死というものを永遠にして幸福な脱力状態であると考えているからだ。うららかな春の日の昼下がり、暖かい日差しの差す窓際でうたた寝する時、あるいは夏、フロリダのベアフットビーチが良いだろうか、遙か彼方に輝く水平線を眺めながらぼーっと浮き輪に身を任せる時、ああいう時間を思い浮かべてほしい。死を想像するとき、私はいつも真っ白なヴェールに包まれながら波間を漂い、眠っている自分をイメージする。そこには時間や苦痛といった概念は存在しない。あるのはただ、恒久的な幸福感と心地よい眠気だけだ。考えようには、母親の胎内に似ているかもしれない。幾億の生命の種から選ばれ半ば奇跡的に誕生し、そして高次の思考と身体能力を手に入れた私という生命体。そいつが生まれ出る前に還りたいと願うなんて、ダーウィンも驚きのシニカルシンキングだろうか。このイメージはもちろん、霊魂の存在を言っているわけではない。私は非科学論者でも、ロマンチストでもないからね。死んだ我々は、この世ではない何処か、次元というものを超越した何処か遠くの世界で、延々と眠り続ける。ハロウィンやイースターのように、死んだ魂が現世に干渉することなどあり得ない。私は死ぬことについて、かなり楽観的でいる。
思えば、この世界には死よりも耐え難いことが多すぎる。スラムで生まれ孤児となった私は、毎日を野良犬のように生きた。極力体力を使わないよう、路地裏でじっと身をひそめ、もはや食い物かどうかも分からないごみ溜めを漁った。時には盗みを働き罵られもした。思えば物心ついたころから、私はひとつの救済の道として死を考えていただろう。それが幸か不幸か、ギリギリで生きながらえてしまい、現在に至るというわけだ。とある新聞社の写真家となった私は、これまで数々の人間を見てきた。中でも16年前に取材したSという開業医についてはよく覚えている。当時有名な精神科医として名を馳せたSは、ロスの都市病院に勤務していた。私は撮影役として、複数の記者と共に取材に出向き、病院の小さな応接間に案内された。そこで開口一番、Sはぶくぶくと太った下あごを摩りながら、こう問いかけた。
「君たちは死についてどう考える?」
とっさの質問に呆気に取られていると、彼は教え聞かせるようにこう続けた。
「いいですか、死とは、無です。空虚そのものです。よく死後の世界を楽園だ、天国だなどと信じ込み希望を見出そうとする人がいますが、あんなのは非科学的、希望的観測に過ぎない。死んだ後には何もありません。永遠に続くかのような静寂があるだけです。確かに彼らの目はいつも虚ろで、何ひとつ目標もないままに日々を浪費しているように見えます。まるで白痴か植物人間のようだ。ああ、いえいえ、彼らというのはここに収容されている患者たちのことです。しかしそんな彼らにも生の喜びはあります。それは生物的な生への欲求です。われわれ人間、もっと言えば生物は、一体何のために生まれてきたのでしょうか? それはすなわち、この世を生きるためです。じゃないとこの生命という奇跡に説明がつかない。神の思し召しなのです。死を遠ざけ、生き続けることにこそ希望があり、救済がある。たとえ彼らのような人間でも、生きるという生物としての権利を無下にしてはいけない。別に言葉にしてくれなくてもいい。生という人類に根源的な喜びを嚙み締めてほしいのです。そのために我々がいる。私の医者としての大義はそこにあるのです。」
もう16年も前の事なのではっきりとは覚えていないが、大方こういう類のことをSは我々に向けて説いた。私は科学を扱う人間がこのように非合理的かつもはや宗教的な思想を披露したことに驚いたし、何より、自分の意見がさも普遍的なそれであるかのように語る彼の態度にひどく怒りを覚えた。
生きることが幸福? あり得ない。私には理解しがたいね。生きるうちに享受できる幸福と、死後に訪れる静寂と、どちらに価値があるか。明らかに天秤は後者に傾くだろう。もっとも、幸福の価値基準など人それぞれだという考え方もあるが、私のそれはあまりにも高く、手の届かない場所にあるようだ。それに金が無ければ物が食えないように、幸福を得るには相応の努力が必要だ。年老いた私にはその対価を払う体力もなければ、幸福に向かって努力するほどの向上心もない。幸せを得るには、その時点である程度は幸せでいなければならないのだ。
こんな私がなぜ今日までのうのうと生き永らえているかというと、臆病だからだ。答えは簡単明瞭。私はこれほどまでに死を渇望しながら、自ら命を絶つほどの勇気を持ち合わせていないのだ。笑うがいいさ。放っておけばそのうち死ぬものの、自らその永遠の静寂に手を延ばして足掻く私を。にもかかわらず最後の一歩を踏み出せない、哀れな老人の喜劇を。ああ、何処かにきっかけがないものか。私を静寂たる幸福の世界へと導く門の鍵が…。今日もこうして、眼下に広がる国道の風景を眺めながら、想像を膨らます。この交通の波に身を投げ微笑む、ある老人の姿を…。
(20XX/7/23/16:45:53)
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これはとある老人の手記、或いは遺書とも言えるであろうか。この地区を管轄する警察署に努める俺は、ある怪死事件の通報を受け、件の老人宅に駆け付けた。小さなアパルトメントの一室には、胸の数か所を刃物で刺された無惨な老人と、ぐったりと横たわって死んでいる一人娘の姿があった。娘の首には手形のような痣がくっきりと貼り付いていた。事件後の調査で、2年前に肺病を患い病床に臥した老人は写真家の職を失い、銀行に勤務する一人娘に看病される身であったことが判明した。妻は20年前に他界し、一人娘の少ない収入でどうにか2人分食いつなぐ生活であったという。そして我々を最も混乱せしめたのが、無惨に横たわる老人の手に握られた、リンドウの花である。ただの偶然か、何かのメッセージか…。上層部は「介護関係による何らかのトラブル、または経済的困窮による父娘の心中」として処理しようとしているが、俺には何だかこう、もっと深い、形容しがたい何かが、一筋縄では理解できない何かが、老人の死に隠されているように感じる。
事件から2日、俺は老人宅で先ほどの手記を読んでいる。読めば読むほど「心中」に考えついてしまうが、どうにも煮え切らないのだ。それに、心中だとしたらあの老人の殺され方は甚だ妙である。穏やかに命を絶つ手段など他にいくらでもあるというのに…。老人の死について考えを巡らせる度に、俺の脳裏にあのリンドウの花がよぎる。青く、深く、底知れない静謐さをたたえたあの花を。見るものを魅了する美しさを持ちながら、どこかこの世のものとは思えない不気味さを放つ花…。老人の手に固く握られたそれは、さながら冥界の暗闇を青く照らす松明のようであった。
ふと部屋の隅に置かれた本棚に視線を移すと、ある1冊の詩集が目に留まった。20世紀前半イギリスの詩人、D.H.ローレンスの詩集である。表紙はぼろぼろ、所々が破け、湿気と光の照りつけのせいで紙は色褪せていた。他の本の状態と比較しても、長年に渡って愛読されてきたものと窺える。何の根拠もない。俺はただ直観的に、老人の死を裏付ける何かが、その詩集に隠されているような気がした。そっと詩集を手に取り、恐る恐るページを捲る。あるページに差し掛かった途端、俺は暗闇の中で、青く、青く、何処までも青い炎に、身を包まれた。
ある老人の手記 ──── @bnbn_magus
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