困り眉

 昔、猫を飼っていた。黒と白の斑模様で、目の上にハの字眉毛のような模様が入っており、そのせいで「マユ」と名付けられた雄猫であった。

 マユは鰹節が大好きで、私たち家族の目を盗んではよく鰹節を食べていた。収納場所をバッチリ把握し、器用に戸棚を開けてこっそり持っていく。お好み焼きのときなんかはテーブルに熱い視線を送り、隙あらば奪い取ろうとブラウン管テレビの上でスタンバイしていたものだった。

 しかし、人間用の鰹節が猫に有害だと知ってからは、一切家に置かなくなった。結石ができやすくなるのだそうだ。味噌汁の出汁は昆布になり、お好み焼きのトッピングもなくなった。最初のうち、マユは戸棚を漁っては不服そうにしていたが、次第に諦めた、もしくは鰹節のことなど忘れてしまったようだった。


 私が小学校に上がった年の夏、マユは死んだ。老衰だった。二十歳まで生きたのだから、大往生と言えるだろう。私は涙が枯れるほど泣き尽くして、泣き尽くして、泣き尽くして、やっと落ち着いてきたくらいで、ふと気付いた。

 スーパーから、鰹節が消えていた。

 正確にはスーパーどころか、全世界から鰹節が消えていた。売り場にない。たこ焼き屋にもお好み焼き屋にもない。テレビにも映らない。辞書からも「鰹節」の項目が消えている。母に聞いても「鰹節って何?」と、まるで取り合ってもらえない。鰹節という物について記憶しているのは、全世界でどうやら私だけのようであった。

 私としては、命日に墓前に供えるくらいはしてあげたいのだが。


「点呼とりまーす」

 午後十時。私の所属する「オカルト研究会」は山中に集まっていた。夜の空気がねっとりとまとわりつき、蛙の声がけたたましく響く、田舎の夏の夜である。

 なんともオカルティックな「鰹節消失現象」の謎が解けやしないものかと思い、このオカルト研究会に入部した。いや、正確には入会だろうか。

 会員たちは鰹節に大層興味を持ってくれたけれども結局解決には至りそうにないのが現状で、というのも、会員のほとんどが「宇宙人との交信」「未確認生物との遭遇」を夢見ているものだから、そもそもがとんだ畑違いだった。

 この集まりも「宇宙人との交信」が目的で、「これは宇宙人交信用アンテナなのではないか」という先輩のふざけた思いつきから始まったものである。

 正直ばかばかしい。目の前の「宇宙人交信用アンテナ」は、どう見ても携帯用のアンテナで、宇宙人が携帯を持っていない限り、交信はできないと思う。

しかしこんなことを考えながらもしっかり参加しているあたり、私も大概ふざけている。

「亘」

「はーい」

「よし、全員いるね」

 勿論ふざけていることは承知している。しかし少々高揚してもいる。半信半疑で一歩引きつつ、少し希望を持つくらいが楽しむコツなのかもしれない。宇宙人との交信も、鰹節の真実も。


 アンテナを取り囲んでぐるりと並ぶ。灯りはランタン一つと結構暗いが、各々が蛍光色のアイテムやメタリックのアイテムを身に着けているので闇に紛れずよく目立つ。部長曰く、宇宙人が見つけやすいようにという目的があるらしい。私は直前までそのことを知らなかったので、シルバーのサンダルを用意するので精一杯であった。一応光を反射しやすそうだと思って白いTシャツを着てくるくらいはしたのだが、他は皆蛍光色のジャンパーを羽織っているので、ぽかりと穴が開いたように私だけが沈んでいる。

「呪文はいつも通りね」

蛍光イエローのジャンパーから部長の声が聞こえ、合図とともに私たちはいつもの呪文を唱えた。

「ベントラー、ベントラー、スペースピープル、スペースピープル。こちら地球のオカルト研究会です。応答願います」

 この呪文を交信ができるまで繰り返す。まあ過去に交信ができた試しがないので、実際は飽きるまでといったところか。私は早々に飽きたので、呪文を無心で唱えつつ、頭上に広がる、プラネタリウムばりに綺麗な星空を眺めていた。


「石井先輩、提案なんですけど」

 いきなりどこからか声が上がり、呪文が途切れた。声の主は同級生の土屋だった。

「この呪文って、色んなとこで使われてるんだと思うんですけど、もしかして聞き飽きてるんじゃないんですかね?」

 だから交信できないのかも、と小さく付け足して、

「何かインパクトのある、宇宙人の気を引けるような言葉に変えてみませんか?」

と、少々自信なさげに提案した。

 石井先輩こと部長は、名案だと思ったのか、なるほど、と弾んだ声で返し、

「例えば?」

と、その先を促した。

「そうですね」

 土屋は声を上ずらせて言い淀んだ。提案しておきながら、具体的には何も考えてなかったらしい。蛍光グリーンのジャンパーが星空の下でカサカサ揺れている。土屋が何か思いつくまで知ってる星座でも探してみようかと、私は意識を空に戻した。


「例えば、亘が探してる、何だっけ」

 星座が全く分からなかったので適当に星座を作っていると、不意に名前を呼ばれて、私の意識はオカルト研究会に引き戻された。


 私が探しているもので、インパクトがあるもの。変わったもの。

「鰹節?」

「そう、カツオブシとか」

 私にとっては変わったものでも何でもないのだけれど、今この世界においては存在しないも同然、ツチノコのようなものなので、釈然としないけれどもこれが正解だろう。

 しかし鰹節なんかで宇宙人が釣れるのだろうか。甚だ疑問である。

「じゃあ、そうだね、『ベントラー、ベントラー、スペースピープル、スペースピープル、カツオブシ、カツオブシ。こちらカツオブシ研究会、応答願います』これでどうだろう」

 オカルト研究会ではなくなっているのだけれど、本当に部長はそれでいいのだろうか。

「先輩、カツオブシ研究会でいいんですか?」

 私と同じ疑問が各所から湧いた。

「あくまで交信することが目的なんだし、いいでしょ」

 しかし部長はそう言って、「じゃあまずはやってみよう」と、有無を言わさず部員をアンテナに向かわせた。


「ベントラー、ベントラー、スペースピープル、スペースピープル、カツオブシ、カツオブシ。こちらカツオブシ研究会、応答願います」


 呪文を唱えた、その時。私の視線の先で、一筋の光が夜空を走った。

 流れ星だ。

 あ、と思った次の瞬間、次から次へと星が流れて、光の筋が夜空を照らした。きらり、きらりと、流れては消え、流れては消え。

「流れ星だ!」

「すごーい!」

「やっぱりカツオブシだったんだよ!」

 部員たちが口々に思ったことを口にしている。

 鰹節に関しては、単にすごくタイミングが良かっただけだと思うのだけれど、皆が嬉しそうなので、何も言わないことにした。


 あれから一週間。宇宙との交信の会を経てから、不思議な声が聞こえるようになった。空から、背後から、耳元から。男性の声が聞こえるのだ。何を言っているのかはっきりとはわからないが、しかし低く穏やかな男性の声が耳の奥に張り付いて離れない。

 他の部員からはそのような話を聞いていない。私だけなのだろうか。おかしくなったと思われるのが怖いので、言うのはなんだか憚られる。私自身、幻聴を疑っているくらいだ。

 マユの墓前に供える煮干しを用意しながら、声について考えてみる。もしこれが本当に宇宙人の声だとして、私に呼びかける理由は何なのだろう。

 鰹節を本当に探しているから。

 実は蛍光色が嫌いだから。

 単なる気まぐれ。

 考えても答えは出てこない。


「豚のところで待ってる」

 墓参りに向かおうとした、その時だった。初めて、はっきりと声が聞こえた。

 豚のところ。心当たりは一か所ある。

 近所の寂れた公園の一角、マユの亡骸を埋葬した場所。そこには煉瓦造りの豚の像がある。毎年マユの命日には、煮干しや猫缶、カリカリを供えている。そして今日がその命日。

 宇宙人に会えるとでも言うのだろうか。一緒に墓参りをしてくれるのだろうか。

「宇宙人との墓参りか」

 思わず独りごちて、失笑してしまう。聞き間違いかもしれないが、ほんの少しの期待感を胸に、私は墓参りに向かった。


 太陽がじりじりと肌を焼く。遊具が豊富であるにも関わらず公園に誰もいないのは、真夏日だからか、古いからか。

 すっかり老朽化した公園の奥に、その像はある。なぜ銅ではなく煉瓦なのかわからないが、目印としては優秀だ。

 いつも通り、煮干しを供えて手を合わせる。周囲に宇宙人はいない。やはりあれは聞き間違いだったようだ。それか、別の豚を指しているのだろう。

 黙祷をささげて目を開けると、豚の像の横に、階段ができていた。階段は地中に伸びており、その先には明かりが灯っている。

 どくりと心臓が跳ねた。

 これ、なのだろうか。

 いきなり出現した階段に、動揺が抑えられない。

「おいで」

 先程よりもはっきりと声が聞こえた。この先にいる。私は確信した。

 何が起こるかわからない。しかし、声の主が気になる。危機感に好奇心が勝り、私は階段を下りて行った。


 階段を下りきると、土の匂いに混じって、香ばしい香りが鼻をくすぐった。十年以上ぶりの懐かしい香り。どこか乾いたような魚の香り。鰹節だ。十畳程度の狭いスペースに所狭しと並ぶ、鰹節、鰹節、鰹節。削られる前のごろっとしたもの、削られた後のもの、様々。

 やはり、鰹節は存在したのだ。


「やあ、待ってたよ」

 背後から耳馴染みの良い声が聞こえた。先程まで聞いていた声。振り向くと、そこには初老の男性が立っていた。黒入り混じる白髪頭の、物腰柔らかな男性。生成りのシャツにループタイを合わせ、ダークブラウンのゆったりとしたパンツを履いている。ダンディ、というよりはお洒落なおじいちゃん、といった印象で、宇宙人には見えない。

「これでも飲むかい」

 そう言って彼は透明なガラスのティーポットとカップを差し出した。ポットの中身は薄っすらと色づいた黄金色の液体。カップに注ぐと上品な香りが立ち上った。

「鰹出汁だよ」

 少々得意げに、いたずらっぽく彼は笑った。


 知らない人からものを貰ってはいけない。口にするなど言語道断。しかしこの人は、不思議と初めて会う気がしない。私はカップを受け取ると、躊躇うことなく口にした。

 少々塩気を感じるものの、味はほとんどない。しかし香りがすうっと通り抜けて心地がよい、気がする。

 懐かしい。昔の味噌汁を思い出す。

 そして、マユのことも。

「鰹節って、やっぱり存在してたんですね。世界中から消えたと思ってたんですが」

 黄金色を眺めながらしみじみと言うと、彼は困ったように笑って言った。

「君がくれるって言ったんじゃないか。世界中の鰹節を」

 そう言うと彼の眉尻がきゅうと下がり、ハの字のを描いた形になった。その姿はまるで、幼少期に共に育った愛猫の顔そのもの。

「マユ?」

 思わず名前が口をついて出た。ハの字眉毛が、マユにそっくりなのだ。

「でも、お母さんの味なら返さないとね。梓、ありがとう。僕の分まで、鰹節を楽しんで」

 聞き返すことも、否定も肯定することもせず、男はそう言い微笑んだ。


 気が付くと、男は猫になっていた。白地に黒の斑模様。眉毛のような模様もある。私の足元に擦り寄ると、撫でろとばかりに私を見上げた。にゃあん、と不器用に鳴くその姿、声は、まさしくマユである。

 そうっと撫でると、マユは気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らし、いつしか空気に溶けていった。


 夜。蝉の声が空気に混ざり、うだるような熱に襲われる。

 私は夢を見ている。

 マユが死んだ日の夢だ。

 私の意思にかかわらず、涙が無尽蔵に流れ、嗚咽が漏れる。涙声は幼く、涙を拭う手も小さい。今の私は紛れもなく、あの日の私である。

「世界中の鰹節、全部あげるから」

 幼い私は、枯れた喉から切れ切れに声を発する。

「戻ってきてよ、マユ」

 鰹節の真実。それは、幼く拙い願いが届いた結果だったのだ。




お題:手に入らない鰹節、宇宙人交信用アンテナ、煉瓦造りの豚


煉瓦造りの豚って何だよ。何なんだよ。もう。

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