エイプリル・ガール

閉鎖

前編

満開の、桜の木の下。

風にそよいで舞う花びらの中で、彼女は嬉しそうに笑っていた。


「だって、まるで嘘みたいじゃない?」


夜空を背に流れゆく花弁は、ぼんやりと白く光って見える。


「あの日あの時、いくつもの偶然が重なって、私はようやくキミと出会えた。今でも、信じられないくらい……本当に、嬉しかったんだよ?」


やめてくれ。僕はまだ、君に何も返せていないんだから。


「それだけで、この思い出を持っていけるだけで、私は十分に幸せ者なの」


だからそんな、これで最後みたいなこと、言わないでくれよ。


***


四月は、嫌いだ。

真新しいスーツ姿の新社会人や、大学高校の入学式。そんな、これから訪れるのであろう、夢と希望に満ちた新生活とやらに胸を膨らませている彼らの姿が、どうしようもなく恨めしくて、最高に気分が悪くなる。


否応なく、一年前の自分を、思い出してしまう。


世間は四月の一週目。厳しい冬の寒さが和らぎ、何もかもが活気に溢れる、僕にとっては最悪の季節。街にひしめくパステルカラーの人々をかわし、終電でようやく最寄り駅に着いた頃には、身も心も疲弊しきっていた。


「……何をやっているんだろう、僕は」


自嘲のように独り言つ。

去年のちょうど今頃に、僕は地元のとある写真スタジオで働くことになった。とはいっても、カメラマンとしての技術も経験もない僕には、自分で撮影する仕事なんてあるはずがなく。やることといえば、毎日の撮影におけるアシスタント業務やスタジオの整備清掃、ほとんど雑用のようなものばかりだ。


最初こそ、プロの現場を見れることに大層興奮したけれど、一年たった今でも仕事内容は変わらず、一向にステップアップしている実感がない。ましてや撮影は早朝から深夜まで及ぶことも多く、おまけに休みも給料も少ないとあっては、何のために毎日を生きているのかわからなくなってくる。


写真が好きでこの仕事を選んだのに、今ではカメラは鞄に放り込んだきり。それも自分に残ったわずかな意地のようなもので、取り出して構えることすら稀になっていた。


「辞めたい、なあ」


なんて、実行する勇気もないことを、つい口走った時だった。


さあっと、優しい風が吹いた。

それに運ばれたのか、いくつかの白い小さな何かが、僕の体を通り過ぎる。よく見ると、それは桜の花びらだった。


風が吹いてきた方に目を向ける。そこにあったのは、古い神社へと繋がる石段。そういえば小さい頃、よくこの神社で遊んでいた記憶がある。


しかし中学高校と育つにつれ、外で遊ぶことも少なくなり、大学時代に至っては、一人暮らしのためにこの地を離れていた。神社に足を運ばなくなってから、年月にしておよそ十年。


自棄にも似た、突発性の高揚感。

久しぶりに、かつての童心の名残を、見てみたいと思った。


***


「な、長いなあ、この石段……」


境内へと続く石段を、ひいひい言いながら登っていく。昔はこんなに苦労した覚えはなかったのだが、子供の元気さとは恐ろしいものだ。


薄暗い足元に、さわさわと木々のそよぐ音だけが響いている。じわりと汗ばんできた額も気にせず、一歩、また一歩と足を進め、ようやく視界が開けた。


「――ッ」


美しい、ただそう思った。


月明かりだけが差し込む空間。人気のない境内。およそ管理の行き届いていないであろう、年季の籠もった社のそばに、一本の大きな桜の木。


満開近く咲き誇った花が、暗がりの中で月光に照らされ、薄白く光を放っているように錯覚する。


幽玄。美しくもありどこか恐ろしい、この世のものではないかのような。


「……こんなに、綺麗だったっけ」


気付けば口から漏れていた。

遠い記憶でも、確かにここに桜の木はあった。でもあの頃の僕は、きっとそんなことなど眼中になく、友達と遊ぶことに夢中だったのだろう。


大人になって、背も伸びて、見えるものも感じることも、昔とはすっかり変わってしまった。

ここで一緒に遊んでくれたあの子も、僕と同じように、つまらない大人に変わってしまったのだろうか。


「……そうだ」


思い出したように鞄をまさぐる。こんな時こそ、こんなものこそ、フィルムに切り取って収めるべきじゃないか。

およそ数カ月ぶりに愛機を取り出す。金属ゆえの冷たさと、見た目以上の重みが手に伝わってくる。


右手でボディを、左手でレンズを支えながら、ゆっくりと桜の木に近づいていく。ファインダーを覗きながら、どう撮れば綺麗だろう、どんな構図なら映えるだろうと思案する。

枯れ地に水が染み込むように、長らく忘れかけていた、被写体と対峙する胸の高鳴りが、じんわりと体に熱を与えた。


そう。この時の僕は、少しばかりの希望を見出した気になって、すっかり浮かれていたのだ。


だから、すぐにはそれに気付けなかった。


「――久しぶり、だね?」


耳に届いた、女の子の声。


「……え?」


高揚感が一転し、驚きへと変わる。

幻聴かと辺りを見渡しても、誰の影も形もない。


「ねえ、今度は何して遊ぶ? ……ちょっと、なんで無視するの?」


再び聞こえる誰かの言葉。

勘違いでなければ、声の主は、どうやら僕に話しかけている。


「……だ、誰?」


我ながら血迷った真似だと思うけれど、万が一にも知り合いだったら申し訳ないと、おそるおそる答えてみる。


「ひっどい! まさか私を忘れたっていうの? この薄情者っ」


「ご、ごめん……」


状況の不気味さと、彼女の親しげな様子が、これでもかとミスマッチで、もはや滑稽にすら思える。どうやらひどくご立腹のようだった。でも名前はおろか、姿さえ見えない相手をどうやって判別しろというのだろう。


「ほんとに、忘れちゃったの? ……私の事、覚えてない?」


彼女の声色に、わずかばかりの戸惑いが滲む。


再び、穏やかな風が吹いた。宙に舞った桜の花弁が、僕の目の前でくるくると弧を描き踊る。


まるでそこにいる誰かを、優しく包み込むように。


「……!」


どうしてそれが正しいと思ったのかは、はっきりとはわからない。ただ直感にも等しい何かで、未だ漂い続ける花びらへ、僕はゆっくりとカメラを向ける。


「……これで、思い出した?」


風になびく長い髪が、暗がりの中で月光に照らされ、薄白く光を放っているように錯覚する。


幽玄。美しくもありどこか恐ろしい、この世のものではないかのような。


ファインダーの中には、僕の方へとふくれっ面を向ける、涙目の女の子が写っていた。

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