第9話 七夕の夜に


 「はい、じゃあそういうことで予約だけ、お願いします。はい、はいありがとうございます」

 女カウンセラーの声は残酷なほとよどみない。美しい声音で私を精神科に連れていく予約を済ませて、その日付のメモを取っている。この白い無機質な部屋に生き物はたいしていない。私と女カウンセラーと、私を不気味がる男のカウンセラーだけ。金魚鉢でもあれば目のやり場に困らなくて済むのに、錯乱した誰かが壊したのであろうか、花瓶以外にこの部屋には何もない。

赤い花瓶にさされた百合の花は、死んでいるのだろうか。それとも死にゆくのだろうか。

それさえも今の私には分からない。

 華子の黒い髪がたゆたっている。毛先が少し細くて、それが壁から床からあふれ出て、毛先がまるまっている。幻覚ならどうして

こうもリアルに、華子の髪の毛の質感が分かるのであろう。華子の髪の毛は生きている。生きて私の近くにはいずり出ている。大学の授業中に、華子の髪の毛が教壇から出てきて、

思わず叫んだり、せっかく出来そうだった友達と街を連れ歩いていたら死んだはずの華子が立っていたりして、のたうちまわっていたら、大学のカウンセリング室を勧められてしまった。そして今そこにいる。

 けれど私はおかしくない。

確かに華子はここにいるんだ。そして私の手を掴んでどこかにさらおうとしている。おそらくは黄泉の国まで。確かにいるんだ。あの女はここにいる。私は病気なんかじゃない。

「じゃあ本条さん、予約とっておいたから一週間後に銀座のクリニック、一緒に行きましょう。ね? その日、暇って言っていたよね? 」

 私は言っていない。けれど否定することもうまくできず、私は頷くばかりだった。

 私はふと気が付いた。華子がドア脇に立っている。あの黒い髪の毛を垂らしながら、白いワンピース姿で。あそこに立っている。あれ? 一人じゃない。何人かいる。あっちにも、ほらあっちにもいる。白い服を着た死人たちが、私のことを睨んでいる。

「ダメです……います」

 私がおもむろに言うと、男のカウンセラーはお茶淹れてきます、と外に逃げてしまった。知っているんだな、と思った。この人はあのうわさを。いや真実を。あの日、あの七夕の夜、私のせいで、あの駅に偶然居合わせた四十二人が死んだことを。しかし声の綺麗な女のカウンセラーは気丈に、机に座す私の隣にて、私の眼を見て言った。

「本条さん、お願いがあるの」

「何でしょう」

「その七夕の夜の話、出来る?」

 私の不眠で血走っているであろう眼をそらさずに、女カウンセラーはさらに懇願した。

「私はね、あなたのその症状がどうも、その七夕の夜の事件に起因しているように思われて仕方ないの。あなたが髪の毛が出てくるとか、幽霊が見えるとか、死ねって声が聞こえるとか言うのは、全部あの七夕の夜に原因があると思う。それはね、私もニュースで見てある程度は覚えているけれど」

 あなたの口から聞きたい。あの日何があったかを。

 このカウンセラーのとび色の瞳に見つめられ、私はうつむいてこくんと顎をひいた。

「きっと信じてもらえないしょうけれど」

 それからの話は、ブログに書いた通りだった。

 

 あの夜、何があったか。それは一言で済むのなら簡単に述べられる。

 あの夜、華子の呪いで私の近くにいた四十二人が死んだ。

 ただそれだけ。

 あの日、七月七日の七夕の日。学校も終わって放課後にさしかかった時、私は冷房が壊れて蒸し暑い教室で華子と話していた。話題はもちろん、今日会う新しいお父さん候補の話。

 「どんな人なのかな。熊みたいってお母さんは言っていたけれど」

 私が苦笑しながら肩をすくめると、華子も微笑んで答えた。

「とかいって絶対イケメンなんだよね。美佳ちゃんのお母さんだもん。絶対綺麗だし、そんな人が選ぶのもイケメンに違いないよ」

 断定するような口ぶりに、私は吹き出した。

それから小声で、

「美佳でいいよ」

と付け加えた。

華子は一瞬固まっていたけれど、すぐに笑顔を見せた。

「本当? 美佳でいいの?」

私はわざとすっとぼけた。

「さあ、私同じことは言わない主義ですので」

「あー、こいつとぼけているなあ」

 私たちは声を合わせて笑った。その折、私たち以外いない教室に女の子が入ってきた。彩香だった。彩香は私たちを見ると、一度教室のドアを思い切り蹴飛ばして、足を痛そうにさすった。私たちは失笑してしまった。笑みを浮かべるその私に、彩香はすさまじい速度で近づいてきて。

「ねえ、あんたに話あるんだけど」

と言い放った。話? 私に? 私がきょとんとして首をひねる。

「いいよ。何? ここで言ってよ」

「ここでは言えない」

 彩香の顔は気のせいか青ざめていた。何か思い詰めているようだった。何か辛い一大事を決心したような悲愴な顔。

 私はその顔に負けて、頷いた。

「後で校舎裏に来て」

 彩香は口早に願うと、さっさと教室を出ていった。

「何だろう、話って。ねえ」

 華子が不審そうに声を漏らす。

「ねえ、美佳。やっぱり、あの人のこと……」

「ダメだってばそれは」

 華子はまだ私と彩香が仲よいとでも思っているのだろうか。それで嫉妬しているのだろうか。それで、殺そうと思っている?

 私は何度も華子を諭した。いくら今は仲が悪くても、優しいところもある子だから。許してあげて。

 華子はずっと厭そうな顔になっていたけれど、私が不機嫌そうに黙ると一転して笑顔を見せた。

「それより今日、不安半分、楽しみ半分だね。お父さん、いい人だといいね」

 華子の明るい声に、私もつられて微笑んでしまう。

「そうね。じゃあ、いいことの前に、悪いことから済ませてきますか。ちょっと、校舎裏行ってきます」

 私が机から立ち上がると、華子がん、と拳を突き出した。私に向けて。

「え? なにこれ」

「悪いことの前にもらって。美佳へのお守り」

  華子が突き出した拳の中には、小さな糸で編んだ人形が入っていた。青い糸で編まれた、可愛い小さな人形。

「美佳に悪いことが続かないように祈って編んだんだ。つまらないものだけど、もらってってよ」

「あのさ、華子重いんですけど」

 私が思わず口走ってしまう。華子の顔がひきつる。それからしょぼんとして。

「重くて悪かったですね」

と言い放つ華子の髪を、私は撫でた。

「ったく。冗談くらい受け流してよ! ほんと、華子って重い! そんなところも嫌いじゃないけどねっ」

 あはは、と声を漏らす私へ、華子が美佳の馬鹿っと顔を赤らめる。

「行ってらっしゃい。気を付けてね。連絡、待ってるから。いい時も悪い時も連絡して。待ってる」

 華子の厚情と友情に、私は深く感謝した。

本当にこの子を友達にしてよかった。そう、本気で思った。廊下を蹴って校舎裏へ急ぐ。


 校舎裏には手持無沙汰にしている彩香が立っていた。彼女は私を見るなり、手を握ってこう述べた。


「あのさ、あんたにお願いがあるんだけど」

話を聞く。彩香のお願いを縷々と述べられる。

そのお願いを、私は断った。



 お願いを聞けなかった私には罪悪感だけが残った。だけど無理だよ、うちんちだって苦しいんだもの。そんな大金、しかも勝手に持ちだせる大金なんか、ないよ……。

 私はずっとそんな言葉を並べていた。

バスに乗って、駅前には六時半前には着いた。少しウィンドーショッピングを楽しむ。橙色の壁がめぐらされた服屋の店員さんにいきなり話しかけられた。

「超美人なお客さん、今日は何をお探しですか」

あはは、と私がはにかむ。

「褒めてもらっておいてごめんなさい。今日は見に来ただけなんです」

「あ、全然。いっぱい見ていってください。何かお気に召したものがあれば言ってくださいね」

 それから店員さんは朗らかに訊いてきた。

「もしかして今日、デートですか?」

「いやいや、全然。今日は母とデートです」

「そっかーいいですねー!! 楽しんで下さいね」

 今度買いに来ますから。

 言い残して私は服屋を去った。栗毛のショートヘアをした店員さんはまだ手を振ってくれている。なんだか心が温もった。華子や店員さんに優しくしてもらって、母の恋人にも会えて、何もかもが満たされた気がした。ただ、彩香の件をのぞいては。

 不幸は幸運な時を突いてやってくるんだとは、この時得た教訓である。

 駅前の真新しい歩道橋にて、携帯で時間を見る。今は六時四十分。あたりはさすがに夏場だけれど薄暗い。闇が静かに忍び寄っている感じ。少し寒気がした。夕暮れで冷えてきているのだろうか。

「美佳―!!」

 向こうから、温かそうなカーディガンを手に持ったお母さんが走ってきた。ランプの明るいカフェの中から。あの中に、お父さんもいるんだ。新しい、私のお父さん。あ、お母さんの後ろから走ってきた。あはは、華子のはずれ。熊みたいな人だ。明日会ったら言ってやろう。あはは。

時計は六時四十四分をさした。その刹那だった。

「うっうぐううううう」

突然、私のそばに立っていた男の人が、喉を抑えて倒れた。

「だ、大丈夫ですかっ」

 思わず駆け寄る。目が点滅している。白に黒に、ああ、死んだ魚みたいに膜がはっていく。指がひたすらに宙を切っていく。私はぞっとした。

呪い、と書いているみたいだ。

「大丈夫ですかっしっかりしてくださいっ」

 ああ、ダメだ。目が完全に膜で覆われちゃった。いけない! こういう時は救急車を呼ばなきゃ。

「誰か、救急車をっ」

 この異常な事態に気が付いたのか、さらに隣にいたOL風の女性が駆け寄ってきて、男の人を揺さぶる。

「しっかりっ今救急車を呼びますから。うぐっ」

 次にはその人が倒れた。喉をおさえている。苦しそうだ。別な人も、さらに別な人も。この駅前の歩道橋に立っていた人がみんな喉をおさえてのたうちまわっていく。みんな指で宙を切る。これは呪いだ――。

お母さんが真っ白な顔をして私の肩を掴む。

「はやく、誰か助けを……うぐうううう」

 ついにはお母さんも喉をおさえて倒れた。

「お母さんっしっかり、お母さん!!」

 ああ、顔色が紫に、白に変じていく。近くにいた最後の男の人も倒れた。ああ、もう駄目だ。震える手で携帯を取り出し、救急車を呼ぶ。ああ、声が声にならない。恐怖と焦りとパニックで、

「あの、あのあの」

にしかまとまらない。電話をかけている間も、あたりは人の悲鳴と呻きが響き渡っていた。私は電話をし終えてあたりを恐る恐る見回した。あたりには死体ばかりが並んでいた。

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