第8話 ハナコさんと私

 それからは自然、学校でも華子と話す機会が増えていった。学年一の淫乱と学年一の根暗が話す光景は異様だったらしく、すぐに学校の裏サイトに書かれたりしたけれど、私はさして気に留めなかった。華子はまっすぐで、優しかった。今まで私が仲良くした誰より。けれどそのかわり、嫉妬心も強かった。私があの性悪と忌まれた彩香と離れたことで、話しかけてくる子は多かった。その誰にも華子は嫉妬した。

「今の子と仲良くするの?」

とあの黒い目で問われると、私はいつしか首を振るしかなくなっていた。私は内心、華子の方がヒエラルキーが上になっているような気さえした。いつしか、私は華子のことが好きになり、そして怖くなったんだと思う。怒らせたら、何をされるか分からない。だけれど仲良くしていれば、気は優しいし、親切。

 私と華子が話しているのに、太一が混ざる時もあった。驚いたのは、そのうちに太一が私抜きで華子と話すことも増えてきたことだった。太一と、おそらく人生で初めて男子としゃべる華子の様子は微笑ましかった。

「太一君はいい人ね」

 華子がある放課後の折、私に言った。これは、と思った。二人きりの教室で、華子が箒をかける手をとめて言ったのだ。

その日はちょうどある事件が起きた日だった。

授業も小休止の昼休み、私は華子と太一と三人で楽しく話に興じていた。といっても、私たちみんなが興じられる話はオカルトしかなかった。太一は信じられないくらい楽しそうに話していた。太一は華子みたいな暗い子のことを見下しているのかと思っていたから、意外だった。

「なあ、丑の刻参りってまだやってんの。華子んち」

「……うん。たまにカンカン、聞こえるもんね」

「マジか。ちょっと興味ある」

「今度聞きにきたら?」

「でも夜中の二時だろ~?」

 そう太一が言うと、華子は少し顔を赤らめた。自分で言って自分で意味に気が付いたらしい。夜中に泊まりに来いと言ってしまったようなものだ。私は報われぬ恋だと知っていたけれど、なんとはなしに優しい瞳で紅顔の華子を見つめていた。

その時。

「いい加減うるせーんだよ、このオカルト変人ども」

 と、声が聞こえた。あれだけ騒がしかった教室が一斉に静まり返る。声を発したのは一人ぼっちの女の子だった。彩香だった。彩香は一人で窓側の席に座して、二列向こうの私たちを睨みながら次々言い放った。うるせーしくせーんだよ、オカルトばっかりしゃべってて、馬鹿じゃねえの。こっちまで陰気なのうつるわ。私たちはこれに怒るどころか、哀れに思って苦笑してしまった。

「嫌いなわりには、全部話聞いてんじゃん」

 と、別なグループのギャルが思わず口走って、みんなの笑いを買ってしまった。クラスがどっと沸きたつ。彩香はいきり立って、叫んだ。

「お前、今何つったよ!!」

「いや、ごめん。ちょっと笑っちゃって」

 あのギャルも喧嘩を買う気だ。諍いが始まる。笑っていた私たちも内心少しの恐怖を感じた。彩香の情緒不安定は並みじゃない。何が起こるか分からない。それでもギャルは挑発を続けた。しまいには。

「お前みたいなぼっちに言われたって、何も怖くねーんだよ。この、ぼっち女」

とまではっきり断じてしまって、彩香がキレてしまった。

「うわああああ殺してやるううう」

 そう叫びながら、彩香は鞄に入れていたハサミを振り回し始めた。これには私たちも驚いた。ギャルの小麦色の肌に、幾筋もハサミの痕が残る。

「きゃああああ」

「誰か、先生呼んでっ」

 大騒ぎになった頃には、彩香は先生たちに囲まれ、ハサミを手から離されていた。よほど強くハサミを握っていたらしく、掌にハサミの柄のあとがありありと残っていた。彩香は泣きわめきながらいずこへか先生たちに連れていかれた。

「殺しちゃおうか、あの子のこと」

 華子は、机に映る夕映えを受けて、放課後の教室でこんなことを言った。私たちは蝉の声を聞きながら、それきり黙していた。

「太一君はいい人ね」

 その台詞から二分と経っていなかったと思う。華子は淡々と述べた。

「あの子、殺してもいいと思うの。だって、人に害悪しか与えないでしょう。生きていたってかわいそうだよ。あいつに迷惑を与えられる人間のことも考えなきゃ」

 華子は優しくまっすぐで誠実な心根ながら、悪行にも誠実に取り組もうとするので、そういう発想になったらしかった。私は黙っていた。確かに、彩香は目障りではある。このまま放置していたら、私たちを殺しそうな気配さえある。あの、完全におかしくなった目つきを見ていたら、誰しも恐怖を感じるはずだ。だけれど、

【ねえー美佳】

あの甘ったるい声で私に寄り添ってきた声を、ブログで私に同情してくれた優しさを、忘れていいものであろうか。

いや、違う。

 あの子のことは気味悪くさえ思う。

 だけれど殺すまで至ってはいけない。

「ダメだよ、華子」

「どうして?」

 華子は不思議そうに問うてくる。

「あの人は生かしても私たちにいいことないよ。きっと何かしら恨みをぶつけてくるに決まっているよ。殺した方がいい」

「だけど、あの子は友達だったんだよ。殺しちゃダメだよ。そんなことしたら、私は華子のことを嫌いになる」

 そうかあ、ダメかあ。

 華子が嘆息して、再び机に眼を転ずる。机の夕映えはニスの光の中に、赤く燃え盛る雲を映していた。

「どうしても?」

「どうしても」

 私が言うと、華子の顔はまた暗い表情に変じた。そのまま私たちは散会となった。

 彩香とああいうことがあってから、私はブログをほとんど見なくなっていた。万が一、ブログに彩香からのコメントが来ていたら厭だったのである。そのコメントもどうせ文句を書き連ねたものであろう。だからブログを見ていなかった。

帰宅して、久しぶりに開いたブログには、しばらく更新がない時のバナーが貼られているほかは、目だった変化はなかった。ただ異常にアクセス数が伸びているのが気になった。アクセス数が一日で四百は数えられる。異様なおかしな数だった。

【殺しちゃおうか】

 ふと華子の低い声音が蘇って、私は怖気を覚えた。怖い、あの子はやっぱり怖いと、強く思った。

「殺しちゃおうか」

ああ言ったのも嫉妬心からであろう。かつて私と仲がよかった彩香を妬んで。あるいは太一と仲良かったからかもしれない。なんにせよ、その憶測は寒気を覚えるものだった。

「美佳、いる?」

 そこで突然、お母さんがドアから顔をのぞかせた。私はいるけど、と目をぱちくりさせる。

「お母さん。帰ってきたんだね」

「うん、彩香。今日夜は外食にしようか」

「ほんと? 嬉しい」

 私が嬉しがると、お母さんも笑顔で頷いた。お母さんと外食なんて久しぶりだ。きっとまた近所の安いイタリアンだろうけど、それでも嬉しかった。外食も、お母さんとごはんを食べられるのも。

「今日は贅沢していいからね」

 近所のイタリア風の店に入って、ドリアを注文したあと、お母さんが奮発してくれて、私はデザートも食べられることになった。お母さんは笑顔で私のドリアをさます唇を見つめてくる。

「なに?」

「いや、美佳の口元は私に似ちゃったな、と思って。死んだお父さんと目元なんかはそっくりなんだけどね」

 お母さんが、死んだお父さんの話をするなんて。

 私は驚いてしまって、しばらくお母さんの顔も見られずにただ頷いた。何か話題を変えたくて、私は思わず口走ってしまう。

「お母さんは、新しいお父さんのこと、好きなの?」

 尋ねた先から私は顔を赤らめた。何でこんなこと言っちゃったんだろう。恥ずかしい、くすぐったい。お母さん気を悪くしてないかしら。

「好きよ」

 お母さんの一言に、私はすぐさま顔をもたげた。お母さんも照れくさそうに笑っている。

「死んだお父さんの次に好きよ。とってもいい人なの。美佳も気に入ってくれたらいいけど」

お母さんがそうまで言うなんて。

「どんな人? イケメン?」

「イケメンではないかな。熊に似ているかも」

「あはは、なにそれ」

「いやいや本当なの。でもあたたかくて、とっても優しい人よ」

 そう語るお母さんの声もとっても柔らかで温かくて、私はほんのりと寂しさ、そして喜びを感じた。お母さんは今まで一人きりで世の中と闘ってきた。私と苦悩という荷物を背負って。それを今、安心して預けられる人が出来た。それは喜ばしいことだと感じた。

「じゃあ、私も好きになれるかな」

「なれると思うわ」

 お母さんはその後で話題をかえた。

「美佳は学校、どうなの?」

「そこそこ楽しいよ」

 変な友達も出来たし。ドリアを口に運びながら、咀嚼して私は言葉を継いだ。

「すごく綺麗だけど、変な子。結構、長く付き合っていけそう」

「そんなに変な子なの?」

「呪いのビデオに出てきそうなの。櫛で黒髪を削ってそう」

「でも、いい子なんでしょう?」

 お母さんがパスタを咀嚼してから私に訊いた。私は思い切り頷く。

「そうだね。メダカに忘れずに餌をやったり、道端のカタツムリを草木に逃してやったりするの」

 あはは、とお母さんの顔がほころぶ。

「じゃあ、大丈夫。呪いなんてかけないよ」

 私も破顔して、そうだね、と告げる。

「今度その子に会わせて頂戴ね」

「うん。新しいお父さんに会った後にでも」

「うん」

 その日の夕食は楽しく和やかな雰囲気で終わった。

その日はお母さんと一緒に布団で眠った。お母さんの背に頭をのせる。柔らかなぬくもりが伝わる。息をしている。ああ、生きていてよかったと思った。布団から出た寝顔だけ見ていたら、まるで生首のようで、死んでしまったかとよぎったから。


 思えばあの夜から、私は母に死に別れることを予期していたのかもしれない。

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