第37話

 坂道を叩く激しい雨は、僕を正面から鞭打った。一瞬でも気を抜くと滑り落ちそうで、自転車のペダルを懸命に踏み続ける。

 駅の近くで、ようやく来た道を振り返った。視界を遮る冷たいカーテンの先に、誰もいないことを確かめる。歯の透き間から漏れる呻き声も、今なら雨音に掻き消されるはずだ。

 僕は、逃げてきた。難問に答えられずに。



「どうしたの、ずぶ濡れじゃない」

 玄関に飛び込んだ僕は、呆れる母さんを押し退けて、着衣のまま浴室に駆け込んだ。小言を呟きながら水浸しの床を拭く母さんに、吐息さえも聞こえることのないようにと、強く蛇口をひねる。

 湯気で曇った鏡を拭うと、顔の一部分だけが映り込んだ。手を伸ばし、くちびるの形をなぞってみる。指に絡む髪の毛のような不快感を洗い流すために、熱いシャワーを頭から浴びる。じっとり纏わりついた服を脱ぎ、浴槽の縁に力無くへたり込んだ。

 僕は、海雪にくちづけたことを後悔していた。





 講師の声が遠くに聞こえていた。僕だけをはじいて教室中に反響していた。

 哀れむような鳶色の瞳が、脳裡に焼き付いて離れなかったからだ。

「のんちゃん、疲れてんの?」

「へ?」

 僕を現実に戻す声が聞こえた。

「ゾンビみたいだよ」

 華絵は、てのひらを温めるように、抹茶ミルクのカップを両手で包んでいた。

「俺、そんなひどい顔してんの?」

「うん……ひどいとか、顔色が悪いっていうより……魂が旅に出ちゃってる」

「はあ……」

「抜け殻っていうのかな……らしくない」

 予備校帰りに駅中のカフェへ誘ってくれたのは、きっと、呆けた僕を見かねたのだろう。

「そっか……慣れないことをしたから……」

「昨日はお疲れ様でした」

「本当、目立ちすぎて気疲れした。あ、でも華ちゃんほどじゃないか」

「あたしは楽しかったよお。まだ、反省会が残っているけどね。これで、思い残すことなく次に進めるっていうかね、やり切った感があるよ」

 華絵は、カップをこすり、息を吹きかける。甘い香りが小さなカフェテーブルを越えて漂う。

「今日の打ち上げに来なかったから、予備校も休むのかと思っちゃったけど、のんちゃん、調子悪いの? 元気なさすぎ、授業中もぼうっとしてるし……」

 くちをつけたカップに、小さく「あちっ」と叫ぶ。

「疲れただけ。昼間は気分転換に、のんびりサイクリングでもしようと思っていたんだけど、途中で雷雨に遭っちゃって、ずぶ濡れでさ。はは……逆に気分が下がっちゃったのかな……。授業内容がちっとも頭に入らなかったよ」

 無理に笑うと不自然に顔が歪んだ。熱いカプッチーノで隠したつもりの僕を窺うように、華絵は抹茶ミルクをくちに運んでいる。

 やがて華絵は、もったいつけるように言った。

「知っていたの? 屋上の鍵が壊れていたこと」

「……鍵?」

「立ち入り禁止……だよね」

 僕の額の内を透視するようだった。

「あ……鳥、鳥だよ……野鳥観察してたんだ」

「野鳥観察?」

「そ、そう……鍵は……壊れてなんかなかった。最初から掛かっていなかったんだ。俺、鍵を壊したりしていないから……」

「いやだ、のんちゃんが、そんなことするなんて思ってないよ。たださ……」

 早口で飛び出す言いわけが可笑しいのか、華絵は笑って言う。

「……ただ、無事でよかったなって……」

「な、何か問題でも……?」

「違う、違う。あたし、そんなにおしゃべりじゃないよ」

「……ごめん……立ち入り禁止なのは知ってた……でも、鍵は開いていたから……。悪戯をするつもりもなかったし……」

「わかってる」

 鼻でふんっと息を吐き出した華絵をちらりと見て、僕は顔を伏せたまま熱いカップに手を掛けた。

「あたしさあ、例の失敗作を持って屋上に上がったんだよね」

「え? あ……ああ、あの黒焦げの……」

「黒焦げ、言うな。とにかく、屋上に行ったのよ、昨日。そうしたら、写真撮影をしていた広報委員が大騒ぎでさあ……」

「鍵……が、壊れていたから?」

「ううん……もっと大変な事。先生たち、すごく青くなっててね……」

 何かマズイことでもしただろうか。短い時間にこれまでのことを思い出そうとしていたら、身を乗り出した華絵は、声をひそめた。

「フェンスが……壊れていたから」

「フェンス?」

「錆びて、根元がぐらついていたみたい」

 すぐには想像できなかった。

「じゃあ、知らないで寄り掛かっていたら……」

 華絵は乗り出した体で更に顔を寄せると、

「真っ逆さま……だったかも……」

 眼を見開いて言った。冷たいものが背中を伝った。

「こ、怖えぇ……」

 初めて屋上に上がったとき、海雪は、下を覗き込んだ僕を力ずくでフェンスから遠ざけた。けれども、それは、大人から身を隠すためだった。僕らは〝立ち入り禁止〟の本当の意味を知らなかったのだ。

「……でしょう? 早速、屋上の鍵だけは修理するって聞いたよ」

 カプッチーノがみぞおちを焼いた。苦い。僕は、まだ、大人にはなれない。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る