第36話

 ココアは子供の飲み物だと思っていたけれど、置かれたカップからはブランデーの香りが立ち昇っていた。

「フォーク忘れた、取って来る」

「いいよ、手づかみで」

 椅子から腰を浮かせた海雪の腕を抑え、僕はピラミッド型のモンブランタルトを手に取った。

「……すぐに帰るから」

 崩れそうなクリームを頭からくちに入れる。

「予定でもあるの?」

「だから、サイクリングの途中なんだって……」

「RENOIRのケーキ持って?」

 逸らせた視線を先回りした海雪は、学習机に頬杖をつき、僕の横顔を覗き込むように笑った。

「それに、予備校もあるし……そんなに時間がない」

「何時から?」

 ケーキを頬張ったせいで答えられないふりをする。海雪は僕の真似をして手づかみでケーキをくちに運んだ。そして、「受験か……」と呟いた。

 背景に構えるピアノが、強烈な存在感を見せつけていた。写真の中でしか知らない大柄な男は、リストやラフマニノフの難曲も弾いただろうか。老いた夫婦が寄り添い眠るはずだったベッドで、その人も眠りについただろうか。

 モンブランタルトを食べ終えると、窓を叩く雨の音だけが聞こえた。長い沈黙に耐え切れない僕は、何気なく机の引き出しに手を掛けた。海雪は、蜂に刺された僕の指に、ここから出した絆創膏を貼ってくれたっけな。

 つっと引き出しを開けた。瞬間、指を挟みそうな勢いでパタンと閉められた。僕は素早く手を放した。閉まる寸前、ドラッグストアーで見かけたことのある避妊具の箱が眼に映った。

「……ごめん」

 立ち入ったことを謝った。ああ、そうだ。僕が腰掛けているこのベッドで、璃央は何を見たのだろう。

「のんちゃんは……昨日から、ちょっと変だ。急にいなくなって片付けはサボるし、打ち上げだって……。本当は好きなんでしょ? みんなで騒ぐの。それに、今日だって……」

「俺、そんなに真面目でもないし、騒ぐのが好きなわけでもない」

「……今日だって……さっきから、溜め息ばっかりだよ……どうしたの」

 そう言う海雪だって、寝起きのハーフパンツにTシャツ姿だった。撫でつけただけの癖のついた髪が、気だるそうじゃないか。

「……夏が……きっと、夏が終わったから……じゃないかな……」

 うつむいた僕はぽそりと呟く。

 胸の中から大きな塊を取り出して海にでも投げ捨てたら、気が晴れるかもしれない。今年の夏は暑過ぎたんだ。

 海雪は、そんな僕を眼の前にして、溜め息をついた後で、

「ひとりでさあ……ひとりで連弾の練習をしていると、何が何だか解らなくなるときがあるんだよ。それがさ、のんちゃんと一緒に練習すると、きちんとした曲になって、ああ、こういうことなんだな、って解るんだ。俺、それにスッゲー感動したんだよ」

 一所懸命に明るく、こしらえた声で言ったのが分かった。

 それから、片手の人差し指をくるくると回しながら、ずいっと近づいて、僕の肩の上でトンボを捕るような仕種をする。

「だから……この辺に……のんちゃんの……この辺にさ……居られたらいいな、って思ったんだ。空気とか、風とか……そんな物になってさ……そうだよ……のんちゃんも一緒になって、それで交じり合えたら……そうしたら、寂しくないよな、って」

 寂しい? 海雪は寂しいの? 僕は寂しいの? 胸を掻きむしり走り出したい衝動は、寂しさからだと言うの?

「……おまえ……自分で言ってること、解ってんの?」

 僕は冷たく言い放ち、まるで「ひとつになりたい」と言うような、曇りない鳶色の眼から顔を背けた。ぽりぽりと前髪を掻きむしる音がする。

 冷めた液体を飲み干すと、溶けきれない黒い沈殿物が、ねっとりとカップの底に張り付いていた。一滴のブランデーはココアの味を変えることは無く、芳醇な香りだけを放ち、僕には不似合いな大人のイメージだけを植え付ける。僕はカップを置いた。

「帰る」

「え、もう? 来たばっかりじゃん。雨、まだ降ってるよ。あ、ピアノ、ピアノ弾く時間くらいないの?」

「海雪……もう、文化祭は終わっちゃったんだよ」

「でも……」

「何のために弾くんだよ」

「そんなの……」

 海雪の指はゆらゆらと彷徨うと、僕のくちびるを押し当てた。

「……のために……弾いては……」

 呪文でも唱えるような小さな声は、少しも聞こえなかった。

 胸の中の塊は増幅していくばかりで、どうにも自分では止められなかった。途中まではめ込まれたジグソーパズルは、押し出されてパラパラと剥がれ落ちる。

 嫉妬、羨望、焦燥、思慕……全てのピースは宙に舞い、僕はもう集めることができない。どこにも持って行きようのない感情が、眼の前の海雪に向かって爆発した。

 押し当てられた手を払い退け、いきり立った僕は、わしづかみにした海雪の両肩をゆさぶった。ゆさぶって、ゆさぶって、首が落ちそうなほどゆさぶって、ベッドに押し倒す。

 腹の上に馬乗りになり右手の拳を振り上げた。海雪を殴りつける理由などどこにもないと、頭の上から飛び出した別の僕が言う。海雪の頬を掠めた拳は、何度もベッドを叩いた。

 そうして、甘酸っぱくもなければ、溜め息が出るようなものでもない、やり場のない幼稚な好奇心のひとつが、抗うことをしない海雪の上に堕ちた。

 眉間がつんと痛む。熱い雫が海雪の頬に落ちた。伸ばしかけた海雪の手を避けると、僕は体を翻して窓を開けた。

 キスの仕方なんて、知らなかったのに……

 濡れそぼる僕を見下げた青銅色の妖精は、門を出て行く僕を嘲笑っていた。

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