第38話

 「……ねえ、屋上での野鳥観察って……誰と? ひとりじゃないよね……海雪ちゃんと?」

 おしゃべりじゃない、と言った華絵の眼は、空々し気にカップをくちにする僕に、べらべらと話しかける。

「大丈夫だって、誰にも言わないから」

 その言葉に嘘はないだろう。けれども華絵は、背の高いカップを両手でこすりながら悪戯っ子のような笑みを浮かべている。

「今だから言えるけど、あたし、海雪ちゃんのことが苦手だったんだよね。いつも無口で無表情だから、何を考えているのか、ちっとも解らなかったんだもん。気を遣うのよ」

 そういえば……そんな奴だったよな……。

「見た目だけの男だと思ってたんだ。璃央や詩穂ちゃんも、見てくれに騙されているんだって思ってた。つまんない奴だなって……でも、そういう気持ちって相手にも伝わっちゃうんだよね。海雪ちゃんも、あたしのこと嫌いだったと思う」

「そんなこと……」

「絶対そうだって。璃央と付き合っている頃の海雪ちゃんって、本当に感じ悪かったんだから。璃央のすぐ傍にいるあたしに、ろくな挨拶もできない奴だった」

「……人見知りかな」

「うん……まあ、璃央にもそう言われたけど……」

 僕にとって、いいことだったのか悪いことだったのか判断はつかない。それなのに気づいたら当たり前のように隣にいた海雪は、他人との関わり合い方をよく知らなかったのじゃないだろうか。

「だけどさ……」

 華絵は首を傾げて僕をじっと見た。それから、何か思い巡らせるように、しばらくの間、眉を寄せていた。「何?」と訊くと、首を傾げたままで言う。

「変わったよね、海雪ちゃんは」

「……変わった?」

「のんちゃんと話すようになってから……のんちゃんと友達になってから、海雪ちゃんは変わったと思う」

「……そう……かな」

「苦手だったあたしが言ってるのよ。海雪ちゃんのこと、今なら友達だって言えるの。ねえ、どんな魔法を使ったの」

「何だ、それ?」

 カタカタ笑ってみたけれど、華絵の眼は真剣だ。

「あのね、文化祭の演奏、みんなびっくりしていたの。あんなに楽しそうに……何ていうのかな……表情豊かっていうのかな。あんな海雪ちゃん見たことないって……だから、海雪ちゃんは、いつもあんなだといいと思うの。そうしたら、もっと友達が増えると思うから」

 華絵は、「もったいない」と言った。そうかもしれない。だけど僕は、こんなに近くにいながら、海雪の変化など何ひとつ気づかなかった。華絵の視線を外すようにうつむくと、足下に置いたリュックサックの開いたファスナーポケットから、小さな光が点滅しているのが見えた。

 カップと皿のぶつかる音が、五十センチほどの沈黙をカチャリと行き来する。リュックサックに手を伸ばした僕は、テーブルの下で携帯画面を覗いた。返信はせずに、テーブル上に画面を伏せて置いた。

「ねえ、華ちゃん、カルボナーラ作れる?」

「へ? カルボナーラ?」

 何の脈絡もない質問に、華絵は大きな眼をぱちぱちと瞬いた。

「あいつの作るカルボナーラ、すっげえ美味いんだ」

「うそ、海雪ちゃんって、そんなの作れんの? シンプルだけど難しいんだよ、カルボナーラって。熱が通り過ぎて、すぐに卵が固まったりするんだから。レトルトのパスタソースなんじゃないの?」

「違うよ、ちゃんと眼の前で作ってくれた。白ワインとか、聞いたことのない名前のチーズを何種類も使って、本格的なソースを作ってくれた」

 両手を広げ「こんなでっかい鍋でパスタを茹でる」と言うと、華絵は「すごいのね」と、また瞬きを繰り返した。僕が褒められているわけでもないのに、くすぐったくてこぼれそうな笑みを堪える。

「料理だけじゃないよ。家のこと、ほとんどひとりでできるんだ。ピアノもそうだけど……見た目とか、それ以外のこととか……俺、何ひとつ、あいつには勝てないんだぜ」

 我慢できなくて頬がゆるむ。

「羨ましかったんじゃないの、本当は……華ちゃんのこと」

 けれど華絵は、そんな僕をちょっと困ったような顔をして見た。

「……どういうこと?」

「華ちゃんみたいに明るくて、誰とでも打ち解ける人がさ、羨ましかっただけじゃないかな」

「あたしが……?」

「変わってないよ、海雪は、変わってなんかいないよ。俺たちが、別の角度から見ただけなんだよ。だいたいが自分以外の人間に見せる自分なんて、ほんの一部分でしかないだろ?」

 僕の知っている海雪も、海雪のひとつまみでしかないのだろう。

「そうなのかなあ……確実にこっち側の印象は変わっているのに……」

「だって華ちゃん、俺だって、華ちゃんが思っているような人間じゃないかもしれないよ」

「何よ、それ。例えば……羊の着ぐるみを着た狼、とか?」

 華絵は鼻にしわを寄せて言った。

「そうそう、背中にファスナーがあってさ……」

「あはっ……のんちゃんが? それは、ちょっと見てみたいかも」

 笑った華絵の前に置かれたカップには、緑がかった白い泡だけが残っていた。



 混み合う帰宅客の間を縫って、僕と華絵は逆方向へと分かれた。ホームへの階段を下りながら、僕は邪魔にならないように左端の手すりにすり寄った。

 携帯電話に残された短い文章に、どう返信しようかと、指が迷っていた。ぐるぐると帯状に並んだ文字に取り巻かれ、悩んだ末に拾っては、いや違う、と捨てる。そんなことをのろのろ繰り返しているうちに、うっかり階段下で人とぶつかった。

「すみませ……ん……」

 顔を上げると華絵がいた。

「あのさ、のんちゃんは……自分で思っているより、ずっとイケてるよ。中身が空っぽなのを隠すために、ピエロの衣装を着ている、あたしと違ってね」

 華絵は、僕の眼を真っ直ぐ見て言うと、歯を見せて、にっ、と笑った。そして、「危ないよ、歩きスマホ」と、ちょっとだけくちを尖らせると、ショートパンツから飛び出した脚を雑踏に覗かせながら階段を駆け上がって行った。



 真っ黒い電車の窓は、腑抜けた僕の真の姿と、無数の人生を照らす家々の明かりを映していた。僕のいるこの車両にも、パンクしそうな想いを抱えた人々が、くちをつぐんで乗っているのだろう。体を寄せ合いおとなしくしている僕たちは、きっと、どうかしているのだ。

 僕は返信することをやめた。

  

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