第34話
風が吹いて砂塵が舞った。こめかみに掛かる短い髪を指で梳きながら、「中庭はあっちね」と、並んで歩き出す。
「今日は風が強いわね」と言う彼女の隣で、「そうですね」と、平静を装う。
なぜ僕は、こんなにも道理が解らない感情に囚われているのだろう。
「夫が初めて倒れたのは、まだ、息子が十歳になるかならないかの頃だったの。突然のことで慌てたわ。夫の両親を相次いで亡くしたばかりだったから……」
「そうなんですか……」
「体育教師だったの。なのに、音楽を教えている私よりもピアノが上手かったのよ。おかしいでしょう。亡くなった自分の両親に聴かせるように、あの部屋で……よく弾いていたわね」
「今の……海雪の部屋ですか」
「ええ、そう。息子は、傍でよく聴いていたわね……でも……」
一層大きな砂塵が巻き上がった。彼女は両手で眼鏡を覆い下を向くと、暫く立ち止まり、風が治まるのを待った。
「……でも、頑丈な体をしている人でも病気にはなるのよ。なんとか命はとりとめたけれどね。リハビリの一環としてピアノは役には立ったけれど、前のようには弾けないわ。後遺症で、仕事復帰もままならなくて……。海雪には……息子には、本当に迷惑をかけたの。遠方に嫁いだ娘に頼ることはできないし。忙しい私に代わって、よく頑張ってくれたのよ」
僕は何も言えず、足下に眼を落とし、彼女の歩調に合わせて歩くよりなかった。
「感謝しているの。お友達と遊ぶ時間だって、ずいぶん削ってしまったんだわ……。でもねえ……いくらあの子が頑張っても……二度目に倒れたときは……眼を覚まさなかったのよねえ……」
「形見……」
僕がぽそりと呟くと、彼女は、「あのピアノは、そうね」と答え、ベンチの砂を軽く掃った。
「座りましょう」
中庭の花壇に向かって腰を下ろす。僕と彼女は誰からも振り向かれることはなく、きっと親子に見えるのだろう。
「私とふたりのときはね、とても無口なのよ。学校のことなんて、何も教えてくれないの。掃除も洗濯も料理も、何でもひとりでやってしまうし、高校受験のときだって、自分で勝手に手続きして……はい、受験料、はい、入学金でしょ。もう、びっくりよ。もっと甘えてくれてもいいのにね」
「……僕には……お母さんを護ろうとしているように見えます……海雪は、お母さんに手間も心配もかけたくなくて……」
ほほほ……と小さな笑いが遮る。
「親っていうのはね、子供に心配をかけられるのが仕事なのよ。甘えられると嬉しいの。でも……あの子は、私よりも鮎川君に甘えているみたいだけどね」
「……僕?」
「あなたとお友達になってから、子供らしいっていうか、若者らしい表情をするようになったみたい。よく笑うようになったの。なんだか、ほっとしたのよ。本当に、ありがとう」
僕は、完成図の分からないジグソーパズルが、断片的にはめ込まれていく感覚に陥った。ちくりと胸が痛む。
「あの子には、ずっと……悪いことをしたと思っていたの。でも、あなたと知り合ったことで、抜けてしまった〝何か〟を取り戻してくれそうな気がしたわ。だから……あの子の……何て言えばいいかしら……支えに……心の支えになってもらえれば、とても嬉しいの。お願いできるかしら?」
「僕が?」
「あなたしかいないのよ」
眼鏡の奥から覗く、垂れた瞼の瞳が懇願する。僕は「はい」と言うしかなかった。
らせん状に火の粉を撒き散らし、セルリアンブルーの空に舞い上がったロケット花火は、バンドの音を背景にして、祭りの終わりを告げようとしていた。
投票で選ばれた喜びの中、バックバンドに負けまいと、ヴォーカルはすっかりしゃがれた声で喚いている。
時折起こる歓声と火薬の臭いが、中庭で鳴き出した秋の虫と、ほのかに漂っていたバラの香りを巻き込んだ。
僕は、ベンチに寝転び、眼を閉じた。
「うちの学校って、女子高だったっけ?」
璃央は言った。
文化祭、二日目。なぜか、三年一組の教室には女の子があふれていた。
「大盛況だよ。のんちゃんと海雪ちゃんのおかげかな」
この企画は大成功だった、と華絵は言った。前日の体育館での演奏が、結果的に良い宣伝になったらしい。
「昨日の演奏の後、体育館の前でチラシ配りした甲斐もあったな」
まったく、手抜かり無い女子たちだ。
「だから言っただろう。海雪は五割増しなんだって」
「詩穂ちゃん、感動してたな」
「うん、星野のやつ、今日もちょこちょこ来てんな……俺、邪魔かな」
「邪魔?」
「オマケだろ、俺って。海雪ひとりの演奏でよくねえ?」
「オマケ?」
華絵は、廊下の隅にしゃがんで、冷めたタコ焼きを頬張る僕の顔を覗き込んだ。
「のんちゃんがオマケ? どうして、そう思うの? 海雪ちゃんが五割増しなら、のんちゃんだって……」
「三割増しくらい?」
「相乗効果よ。ほら、アイドルグループだって、ひとりずつでいるよりグループでいる方がカッコよく見えたりするじゃない。あれよ、あれ」
楊枝に刺したタコ焼きを鼻先にぶらさげると、華絵はぱっくりとくちに入れた。
「抱き合わせ、ってやつか?」
「違うよ。あたしは、のんちゃんがピアノを弾けるなんて知らなかったから、初めて聴いたときは、すごくカッコいいって思ったもん。それをさ、海雪ちゃんとふたりで、だよ。カッコよすぎる、ズルいよ」
「本当に?」
「本当」
華絵は、上目遣いで睨むように僕を見た。
「何の相談してんの?」
頭を突き合わせてしゃがんでいた僕と華絵の間を裂くように、突然、海雪が頭を突っ込んできた。
「あのね、のんちゃんと海雪ちゃんは、1+1=2じゃないよね、っていう話をしてたんだよ」
青海苔とソースがついたくちびるを舌先で舐めた華絵は、片方の頬を膨らませて、もぐもぐと言った。海雪は「ふうん」と返すと、僕の手から楊枝を奪い、タコ焼きをばくりと頬張った。
「冷てえタコ焼き」
そして、僕らは、僕らの教室で、最後の演奏を披露した。
黄昏時の校庭で行われた〝後夕祭〟では、生徒会の面々が威勢よく花火を打ち上げていた。華絵は、小さな体でちょこまかと動き回っている。
「綾瀬んちの、あのでっかい赤茶色のピアノ……あれって、ただの飾りじゃなかったんだね」
炎の尻尾を追いかけて空を見上げる海雪の傍に、寄り添うようでいて、そうではないような、璃央の影が映った。
「……でっかい置物だと思ってた?」
「まあ……ね。だって、あんたんちには何度も行ったのに、弾いて聴かせてくれたことなんて、一度もなかったじゃない」
「弾いてくれ、なんて言ったっけ?」
「言った」
耳の奥で、ふたりの会話がリフレインする。同じように腕組みをして、同じように脚を広げたふたりが、同じ方向を見て立っていた。
僕はそろりと後退り、ふたりの側から離れた。
生徒たちから掻き集めた夏休みの余り物の処分が、中庭のベンチに寝転ぶ僕の胸に、理由のない物哀しさを溢れさせた。
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