第33話

 ピアノを取り囲む打楽器のせいで、狭い舞台は動きづらい。グロッケンシュピールに足を引っ掛けないよう、気をつけながら観客に向かって頭を下げたら、眼の前に現れた司会者に気づかず、背中に頭をぶつけた。

「あ、ごめん」

 しっかりマイクに拾われた声に、体育館には笑いが起こる。

 前列を陣取る坊主頭たちを睨みつけた司会者は、迷惑そうな視線を僕に寄こし、マイクを握り直す。僕が舞台袖に下りてから次の曲を紹介する予定が、動揺したのか、段取りを間違えた彼女は、そのまま喋り続けた。

「曲は、ディズニー映画より、美女と野獣。そして、ラヴェル作曲、マ・メール・ロワより、妖精の園……」

 スポットライトに照らされた彼女の後ろで、ただ突っ立っている僕が間抜けで情けなく、なんとも収まり悪く思っているところに、ピアノ椅子を抱えた海雪が現れ、僕は心から、ほっ、とした。

 僕らは、ふたつ並んだ椅子を軋ませた。片側からじんわり漂う息づかいがカウントを促す。スウィングのリズムに乗り、安定した和音の間に緊張した和音を潜り込ませ、ひと通り聴き憶えのあるメロディを流すと、指の踊るままに任せる。

 手が重なり、腕が交差する。互いの指を叩かぬように、肘をぶつけぬように、タイミングよく鍵盤を放す。

 〝僕〟よりも〝僕ら〟でいた方が上手くいくことは山ほどあって、だからこそ僕のアドリブは、小波にゆれる木の葉と同じに、ひっくり返ることもない。

「ここは、派手な和音より、アルペジオでいきたい」なんて、甘ったるいのが好きな海雪は言ったけれど、僕はきちんと君の元に戻れる根拠のない自信があった。それがきっと、信頼というのだ。僕が海雪を頼るように、もっと僕を頼ってくれ。

 美女と野獣はハッピーエンディングだった。ぱらぱらと拍手が聞こえたけれど、僕らには、それ以上の時間を与えるつもりはなかった。妖精が待ち構えているから。

 稀薄な靄の僅かな透き間に棲む彼らが、鳴り続ける韻律から飛び出してくる。それだって、海雪が息を吸った瞬間に、僕は判るのだ。

 夏休みが始まった頃、妖精はサナギから羽化したばかりだった。濡れた翅で飛ぶこともできず、行列を成して歩いていた。どうにかスキップができるようになったのは、夏休みの真ん中頃で、僕らは、それでも、まずまずだと思っていたのだ。

 そんなときに、山奥のモーテルで、狸の親子が奏でるノクターンを聴いた。まさかあそこが妖精の園だとは思わないけれど、次にピアノを前にしたときは、蜘蛛の糸と同じくらい軽やかに、僕らの指は遊び回っていた。

 未熟で、けれども、僕らにできる精いっぱいは、終盤のグリッサンドに開放された。

 上手いからではなく、練習を重ねたことに対する賛辞の拍手を後に、興奮を抑えきれない僕が震える膝で舞台袖に下がると、海雪は、思いもよらぬ面白いことに遭遇したかのように、顔をしわくちゃにして両手を肩まで挙げた。

「最高」

 応じたハイタッチの後で、その大きな手は、僕の顔を包み込み、くちびるに指先の弾力を与えて離れていった。




 十人足らずの合唱部が体育館を浄霊するように、繊細なサンクトゥスを歌い始めた。僕は、それを背にして扉を閉めた。

 ひとりで中庭に向かって歩いていると、「鮎川君」と、名前を呼ばれた。青いボーダーのサマーニットに白いクロップドパンツ姿で現れた海雪の母親は、普段より若々しく見えた。

「こんにちは、来てくれたんですか?」

「もちろんよ。すごく、よかったわ」

 彼女は、僕の肩をぽんと叩いたり撫でたりしながら、思った以上に良い出来だった、と笑って褒めてくれた。

「昨日は調子が悪かったみたいで、何度も同じところを練習しているのが聴こえたの。緊張でもしていたのかしらね」

「え? そんなふうには見えませんでしたよ。海雪は、いつも自信満々で弾いているから……」

「鮎川君に、カッコ悪いところを見せたくないんでしょうね。私に対しては、つっけんどんな態度ばかりなのに、鮎川君の前だと素直なんだもの。今日だって、あんなに楽しそうに……。自分の子供なのに、知らないことばかりだわ。それとも、やっぱり母親って鬱陶しいものなのかしら」

 そうです。なんて言えなくて、「え、う、う……ん」と曖昧な表情で返す。

「そうよね。鬱陶しいわよね。父親がいないから、つい、くちも出ちゃうのよ」

「い、いえ、面倒くさいだけですよ」

「あら、そうなの」

 彼女は、ほほ……と笑う。

「あの……海雪だったら、一年のクラスを観て回っているんで……この後、中庭で待ち合わせているんですけど……」

 僕は校舎を指差して、「呼んできましょうか?」と尋ねた。

「いいえ、いいのよ。だって今日は、鮎川君に会いにきたのだもの」

 海雪の母親の言葉に、なぜだか、僕の鼓動は波打った。

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