第32話

 吹奏楽に於けるピアノの位置は打楽器と同じだ、と言った奴がいた。本当か嘘かは調べなかった。部員がそう言うのなら、それは正しいのだろう。

 なるほど、ピアノは舞台の左端で、マリンバやティンパニー、和太鼓などと同じグループに所属しているように見える。

「思ったより入っているじゃん」

 体育館の隅っこに身を潜めるように立っていた海雪を見つけ出し、いかにも急いで戻ってきたかのように鼻息を荒げて僕は言った。

「うちの吹奏楽部、優秀だからね。早く来て、いい席で撮影したいんじゃないの」

 海雪は、いそいそと三脚を立て始めた保護者を示して言う。学校で一番の花形クラブは今日も狭い舞台には収まらず、観客と同じ目線にまで譜面台が用意されていた。

「やっべえ、緊張してきたかも」

「なに? 〝かも〟って」

 海雪がくすりと笑う。

「知らない人が、こんなにいるんだぞ。そりゃあ少しは……」

「だって、俺……」

「明日になればバンドコンテストの会場になるし……」

「でも、のんちゃん……」

「どうせ、俺らの演奏なんて、それほど興味ないんだろうけど……」

 自分でも嫌だと思える感情がふつふつと湧き出してくるので、ふざけた調子でそれを抑え込む。

「そうじゃなくて、俺……知らない人に聴いてもらおうなんて、一ミリも考えたことがない」

 海雪は、並べられたパイプ椅子が、徐々に人で埋まっていくのを眺めながら言った。

「最初から、聴衆はのんちゃんだけなんだ。俺、のんちゃんに聴いて欲しくて弾いている。周りに何人いても……何百人いても、聴かせているのはひとりだけなんだよ」

 僕のどこかに張った糸が、ゆれて静かに鳴った。何をどう返していいのかが判らなくて、終に押し黙ってしまう。

 日頃から中庭での発声練習に余念がない、放送部の滑らかな挨拶に館内が静まると、僕らは開演時間が迫って来たことを知った。

「そろそろ行くか」

 僕は努めて朗らかに言った。

 舞台袖では、既に集合していた合唱部員が、小さく輪になっていた。

「始めてもいいですか?」

 僕らが来たことを確認した年下の放送部員が、不機嫌そうな顔をして言う。

 いいよー。オッケーでーす。演じられることが楽しみで仕方ないといった風で、合唱部が言う。僕らが黙って頷いて程なく、館内にブザー鳴り響き、司会役の放送部員が舞台へと出て行った。

 事前に考えていたであろうユーモアたっぷりの挨拶を、先に僕らを睨んだときとは打って変わり、まるで女子アナウンサーのような声色で披露した後、彼女はプログラムの一番を読みあげた。

 三年一組、綾瀬海雪さんのピアノ演奏で、ドビュッシー作曲「夢想」───

 海雪は、舞台袖に戻って来た放送部員と入れ替わりに、幕の外へ消えた。

 拍手が聞こえる。姿は見えないけれど、おおかたのことが想像できた。ペダルの位置を確認し、ふわりと左手を置く。二小節の導入の後、ロマンティックな旋律を猫背気味に、体をゆらして奏でる。

 そうだった……。僕が初めて聴いたのは、梅雨明けの蒸し暑い月曜日。あの、こそばゆい音色を皆勤賞と引き換えにしたのだ。あのとき、あいつは、何と言ったっけ。

 ───恋におちました。

 そう言っただろうか。あれも「夢」だったのかもしれない。

 天使が木漏れ日を縫って舞い降りて来るようだ、とも言っていたな。

 天使が素足を浸した泉には波紋が広がり、滴り落ちた雫は逆さまに映った森を歪ませる。開き始めた花は踊り、風が草の匂いを運ぶ。そして、森の眼醒めを愛でると、再び空へ帰るのだ。

 照明の当たらぬ舞台裏で、そんな短編映画を、僕は、観る。

 フェードアウトするようなピアニッシシモが余韻を残すと、拍手は想像以上に大きく聞こえ、周りの反応なんか問題じゃなかったはずなのに、下がって来た海雪の顔は、どうにも照れくさくて見られなかった。

 司会者が僕の名前を読み上げた。僕は、海雪の顔を見ることも無くすれ違う。海雪が耳を立てているのを背中に感じながら、ピアノの前に立った。

 一瞬、緊張感が削がれたのは、見るつもりのなかった客席に母さんの姿があったからだ。一番前の席でカメラを構えた母さんは、お辞儀する僕に、拍手ではなく思い切り手をふって応えていた。

 ああ、知らない人ばかりの方が、平常心を保てるな、多分……。

 息を整え鍵盤に指を置く。アランフェス協奏曲を引用したイントロをゆったりと奏でる。

 おかしい……なんだろう……。不思議な感覚が全身を覆う。それは幽体離脱でもしているようで、徐々に、僕は、僕を見下ろし始めた。自分の手で弾いている気がしないのだ。僕はマリオネットで、見えない糸を真上から操るのも、僕だ。

 アランフェスの美しい風景とはどんなものだろうか、と想像する。それが、なぜか、海雪とふたりで歩いた早朝の山道と重なる。

 やがて、好きなように〝こいつ〟の指を動かしてやろうと、上の僕は、下の僕と繋がった糸を跳ねさせる。

 とんとんと足でリズムをとっている、と海雪に言われたことがある。本当だ。よく分かるけれど、やめられない。

 短い、短い……

 曲が短すぎて、弾き足りない。

 膝に手を置くと、拍手が聞こえた。途端に、頭の上の僕は、煙が吸い込まれるように体の中に戻ってきた。

 照明を仰いだせいでぼやけた眼を二、三度ぱちくりさせ、ぼうっとした頭の僕は、ゆっくり立ち上がった。

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