第31話

「ごめん、開会式、遅れちゃったね」

「しょうがないよ……校内放送……聞こえなかったもん」

 息を切らした華絵は、失敗を笑うしかないとでも言うような、複雑な表情で走っていた。

「何をやっているんだ。早くしなさい」

 ばらばらと校舎から出てくる僕たちに、担任は叫んでいる。興に乗じて演奏を続けてしまったのが悪かった。

「本当にごめん」

「すごかった……だもん……のんちゃんと、海雪ちゃん……上手だった……びっくりした……」

「華ちゃんが〝やれ〟って言ったからじゃん」

 僕の足について来る鈍足の華絵が、躓いてカクンと倒れかかる。走りながら思わず彼女の手首を掴むと、海雪が傍らを通り過ぎた。

「あたし?……でも……ライブカフェ、提案したの……璃央だよ」

「璃央……さん?」

「うん……仕掛け人は……璃央……」

「仕掛け人って……」

「じゃあ……また、あとでね」

 喋るのも辛そうな息の下で、華絵は僕の手をするりと抜けた。朝礼台に向かって走る後ろ姿が、またガクンと傾いた。


 開場と同時に鳴り始めたブラスバンドの歓迎に、見学のために訪れた中学生たちは、はにかみながら校門をくぐっていた。

「わるい、忘れ物したから、先に行っていて」

 体育館へ向かう海雪に嘘をつき、僕は校舎へと急ぎ戻った。

「何してんのよ、鮎川。もうすぐ出番でしょ」

 教室の近くで声をかけると、璃央は鼻の上にしわを寄せた。

「うん、まだ平気。ちょっと、いい?」

「なによ」

「……ライブカフェ、璃央さんの案だって、本当?」

「なんで今頃? そうよ、それがどうかしたの?」

 答える璃央のしわが、ますます深くなる。

「それって、海雪に頼まれたの? 最初から、俺を引っ張り出す予定だったわけ?」

 くちびるをきゅっと結び、僕の顔から視線を外した璃央は、すうっとひとつ息を吸い込んで、ふうっと吐き出した。

「あーあ、バレちゃった」

 吹きっさらしの渡り廊下の手すりに両肘をつき、背中を向ける。南風が、ひとつに束ねた長い髪を泳がせる。

「でも、綾瀬に頼まれたわけじゃないから。言い出しっぺは確かにあたしだけど、みんなが賛成してくれないと、企画は通らないんだからね」

「わかっているよ。今更、中止なんかできないし……別に、責めているわけでもない」

 そもそも、璃央の意見に反対できるほど度胸のある奴が、クラスにどれくらい居るというのだ。ただ僕は、海雪と璃央が結託しているのが気にくわないだけだ。

 渡り廊下からは、校庭で何やらパフォーマンスをしているのが、よく見えた。あれは、ジャグリングだな。細長い棒のような物が、ふたりの間を行ったり来たりしながら空中を舞っている。

「あの子さあ、友達、少ないんだよねえ」

 璃央は頬杖をついて、しみじみと言う。

「いつだったかさあ……あんたたち、喧嘩していたことがあったでしょ。原因は知らないけど……知りたいとも思わないけどさ。女の子にふられてもケロッとしている綾瀬が、あのときはひどく落ち込んでてさ……。あんたが……鮎川だけが頼りだったのに……」

 何の返答もできない僕を見た璃央は、やれやれといった顔で、もう一度、はあ、と息をつく。

「……けど、何でライブカフェなんか……」

 そんなときでさえ、海雪は璃央を相手に選んだのに。

「鮎川のピアノが聴きたい」

「……え?」

「綾瀬が、そう言ったんだ。ひと言もくちを利いてくれない鮎川の……あんたのピアノが聴きたいって」

「……」

「文化祭で喫茶店を出すクラスなんて幾つもあるでしょ。客を呼ぶんだったら、クラスの特色も出したいじゃない。それで、楽器演奏したらどうかって提案したら、意外にもみんなノッてきたんだよ」

「意外?」

「はあっ?」

 いえ……。クラスメイトを睨みつける様子が、眼に浮かんだだけ……。

「それに、誰も学校行事に関心なんてないわよ、今の時期。誰かが仕切ってくれりゃあいい、ってくらいでしょ。思うように事が運ぶのなんか、案外、簡単だったわよ」

 舌先をぺろりと出して笑う。

「海雪のためだったの?」

「さあ、ね。たださ、あたしは、絶対、鮎川に……あんたにピアノを弾かせてやるって、それだけは思ったんだよね」

 僕は、璃央に放られて、海雪の手に届けられたのだろうか。

「あ、でも、綾瀬が鮎川と一緒に、体育館のステージに立つつもりだったとは思わなかった。あれはあれで考えていたんだね。あたし、さっき初めて見たんだよ、綾瀬がピアノを弾いている姿。驚いちゃった」

「見たことなかったの?」

「ない。弾けることは知っていたけど、聴いたことなんか一度もない。あの子があんな顔するなんて、知らなかったよ。ふふ……鮎川とふたりで弾いているときなんか、こーんな顔して笑ってんの。何、あれ? こっちまで可笑しくなっちゃった」

 璃央は、歯を剥き出してくちを横に広げ、海雪の真似をして笑った。僕は、隣にいる海雪の顔をじっくり見ることがなかったので、璃央の顔から想像した。

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