第30話

 電車の吊り革からぬるりと手が滑った。てのひらがぎらぎら光っている。

「緊張してんの?」

「別に、そういうわけじゃないけど……海雪は緊張してるわけ?」

「ううん、特には」

 土曜の朝、僕らは普段よりも早い電車に乗った。

 てのひらの汗を太ももにこすりつけながら、ドアに貼られたファストフード店の小さなポスターを見て、ことさらに反応してみせる。海雪は話を合わせてくれるけれど、どこか見透かしているようだ。きっと、今日の僕はお喋りなんだろう。

 毎日利用する駅に降り、ふと、今、僕が居る瞬間は、人生の何分の一の地点なのかと思った。海雪の隣にいた時間はとても短くて、それを繋げて今日が来る。本番を迎えるのは、あっという間だ。

 胸がぞわぞわする。海雪が言うように、緊張しているのだろうか。違う。もっと、別の何かが押し寄せてくる。僕は、関係のないことを考えて、それを打ち消そうとしていたのだ。


 学校では、既に大勢の生徒が文化祭の準備に追われていた。

 昨夜は終電まで頑張ったんだから───

 廊下に響く声に振り向くと、血のりメイクなのにメイド服という、キュートなお化けたちがいた。冷やかし半分に立ち止まり、彼女たちの教室を覗く。

 どうやら、お化け屋敷を展開させた企画らしい。ダンボールや発泡スチロールにアルミホイルを張り付けて、鏡の迷路を表現している。

「よかったら、どうぞ」

 入学してまだ半年しか経っていないお化けからチラシを手渡された。

 三階の渡り廊下に差し掛かったところで、足下から規則的な振動が伝わる。ドラムの刻むリズムだと判ると、僕らの教室が離島でよかったと思う。放課後の練習よりも、ずっと大きな音に聴こえたから。

 廊下ではクリスマスツリーのオーナメントのようなお菓子が、クラスメイトの手でディスプレイされていた。

「あげる」

 教室から飛び出してきた華絵が言った。

「失敗作なの」

 僕の鼻先に、チョコレートの詰め込まれたビニール袋が押しつけられた。それを横から受け取った海雪は、欠けたチョコレートをひとつ、くちに運んだ。もぐもぐとくちを動かしながら、くっくっく……と歪めた顔に、華絵は耳まで赤くなった。

「華ちゃん、これ……」

 海雪はくちを覆って笑っていた。

「そんなに美味いの?」

 訊いたけれど、首を縦にも横にもふらずに、ただ笑っていた。食べたくて、海雪の持つビニール袋に僕が手を伸ばすと、華絵は咄嗟にそれを奪い取り、隠すように胸に抱えた。

「い、いいの、別に食べなくても」

「えー、くれるって言ったじゃん。俺も食いたいのに……」

「ダメ、やっぱりやめたの」

 僕は抱えられたビニール袋をじっくり見た。

「あ、クッキー? それ、クッキーの焦げたヤツか」

「だ、だから、失敗作だって、先に言ったじゃん」

 華絵はクッキーを背中に隠した。海雪は美味いとも不味いとも言わず、肩だけをふるわせて教室の入り口を開けた。大音響が廊下に流れ出す。

「屋上に置いておくとさ、雀が食べてくれるよ」

 と言ったけれど、聞こえないようで、華絵は僕の眼を真っ直ぐに見て首を傾げた。

「屋上に置いとくとね、鳥が、食べてくれる」

 もう一度大声で言った途端に、大音響がぴたりと止んだ。

 しまった───

 うっかり秘密を洩らしてしまった。海雪をちらりと見た僕は、今の言葉が聞こえていないことを祈った。

「来たな、綾瀬、鮎川」

 いつもなら〝君〟づけで呼ぶくせに、ゴシックロリータ風の派手な衣装が興奮を煽るのか、菅野は僕らを指差して、「エロかっこいい」と叫んだ。

 菅野に促されるままリュックサックをその辺に放った海雪は、ステージピアノの前に座った。さっきまでの熱を扇ぐような清涼感に、教室の飾りつけをしていた手が、机を運ぶ足が、止まる。陽に透ける髪や、鳶色の眼の鋭さよりも、柔らかい肩から先が紡ぎ出すメロディに、クラスメイトは一刻いっとき縛られた。

 羨望の眼差しを海雪へと向ける連中に、僕は優越感を覚えた。固く閉じられた硝子瓶が、実はとても脆いものだと、最初に気づいたのは僕だから。

 そのときまで、僕は、そう思っていた。


  


 

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