第29話
教室の後ろに置かれたシルバーグレーのステージピアノは、星をちりばめたようなきらきらした音色だった。
「エローい、エロカッコイイ」
机の上に腰掛けていたピアノの持ち主は、腕組みをして言った。
「何それ?」
「感想。褒めてるのよ、一応。アドリブソロもカッコいいけど、綾瀬君のメロディに鮎川君のオブリガードが乗っかったのなんか、すごくいいんだけど」
挑戦的な眼差しには嫉妬心が窺える。〝エロい〟は、それを隠すためのふざけた言葉だと、僕は受け止めた。
「カンちゃん、ありがとう」
「もう、いいの?」
「うん、音楽室のピアノを借りる予約してあるから」
彼女の仲間たちが、早く練習をしたがっている。
クラスのスターとなった、ピカピカと存在を主張するステージピアノの横で、描きかけの巨大ポスターが負けじとエネルギーを放っていた。夏休み前の教室とはまるで違う空気が、実は僕たちの体から溢れ出ていることに、放課後になってから、やっと気づいた。
「図書館、行くの?」
「うん、華ちゃん待たせている。予備校の宿題、教えてくれってさ」
僕と海雪は音楽室ではなく、図書室へ向かった。ピアノは本当に借りはしたけれど、昼休みに限ってのことだ。掃いたばかりの廊下に、靴裏の砂がざらりと落ちる。
「のんちゃんは甘いよ。どうなっても知らないよ」
「何が?」
ガラリという図書室の引き戸に反応したのか、シャープペンシルを動かしていた璃央が顔を上げた。咳き込む声さえ響く室内を窺った後で、僕らを静止するように片手を挙げる。隣で頭を抱える華絵の耳元に、そっと何かを囁くと、机の上を片付けた。
「帰るの?」
図書室から出て来た璃央に、小声で言う。
「華に付き合っていただけだし。ひとりが寂しい、なんて言うからさ」
僕は廊下を歩く海雪と璃央を見送ってから、図書室の扉を静かに閉めた。
「ねえ綾瀬、〝さんたふぇ〟の新作ケーキ食べていかない?」
扉を閉める寸前に、璃央の声が聞こえた。
華絵は開いたテキストに突っ伏した状態で、机を挟んだ真向いに立った僕に両腕を伸ばすと、すがりつくように指をくねらせた。
駅周辺の複雑な道路は、どこを見ても学校帰りの、あるいは仕事帰りの人々が群れ集っていた。僕は、陸橋を駆け上がる人を避けるために左端へ寄り、華絵と肩をすり合わせて階段を上った。
「華ちゃん、志望校決まってんの?」
「ぜーんぜん」
課題にお手上げの華絵と、いつもより早く予備校へ向かう。
「何がしたいのか、何になりたいのかなんて、まだわかんないよ」
華絵は暮れなずむ空をちらりと見て言った。
「せっかく、夏期講習が終わってから、しっかり入塾までしたのに?」
「だって、それは……勉強しておけば、転びようがあるじゃない」
「まあ、目標が定まらないと、なかなか、やる気スイッチはオンにならないけどね。でも、華ちゃん、お菓子作るの好きじゃん。そのへんは考えないの?」
「そりゃあ、好きなことが仕事になれば最高だと思うけど、そうそう上手くはいかないでしょ。あーあ、のんちゃんみたいに成績が良ければなあ……。ねえ、のんちゃんなら、指定校推薦でどこだって受かるんじゃないの?」
「な、わけないでしょ。俺だって、いろいろ考えてんの」
入り組んだ陸橋から街を見下ろすと、蟻のようにすれ違う誰もが、それぞれの人生を生きていた。
「相変わらず、猫だかウサギだか判んないね」
海雪は首を左右に傾げながら、クッキーを額の上にかざした。
九月も半ばだというのに、校舎の屋上は鉄板さながらで、髪の毛まで溶けてしまいそうだ。容赦なく照り付ける昼休みの太陽を避けて、日陰に座り込む。動物型のクッキーをつまむ指の先まで、汗をかいているようだ。
「今日はクラス中に配っていたぜ。海雪のチェックは、けっこう効いているよな。前より美味くなっている気がする」
「そうかな、気のせいじゃね?」
海雪は上手そうにさくさく食べ進み、「昼休み終わっちまうよ。練習しなくちゃ」と、出口を見る。
僕は、指を舐めながら立ち上がった海雪を、しゃがんだまま見上げた。逆光線を背負っている。眩しさに手をかざすと、小さないくつもの影が、背中から飛び出した。
チューピッピ、チューピッピ、チューピ、チューピ……
闇と光が交互に眼の前をちらついて、ふらつきながら立ち上がった僕に、四十雀の鳴き声が聞こえた。
「ここで育った雛たちかな? いち、にい、さん……」
海雪は一羽ずつ指差しながら、声に出して数えた。
植木鉢の穴を覗き、からかうように僕らの頭上を飛び越える。歌う声にも意味があるらしい。彼らの会話は暗号で、僕には理解できないけれど、無事に巣立ちできたのならばそれでいい。
「きゅう、十羽……いいな、鳥は……自由で」
ばさばさと背中から飛び出した羽根を見たときは、一瞬、君が鳥になったのかと思ったけれど、
「あれでも、奴らは奴らで大変なんだぜ。自由は、危険とも隣り合わせだ」
と、僕は釘を刺す。
「……そうかもな」
存分に楽しんだ彼らは、これから、どこへ行くのだろう。
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