第28話

 「あら、こんにちは、いらっしゃい。いるわよ」

 海雪の母親は息を切らして言った。腰に手を当て背中をさすりながら振り向いた顎の先から、緩んだ水道の蛇口のように汗が滴り落ちていた。目深に帽子をかぶり、腕抜きと軍手をはめ、首にタオルを巻いている。腰にぶら下げた携帯用蚊取り線香の匂いが庭中に広がっていた。

「こんにちは」

 僕は鍵の掛かっていない大きな窓を開けた。風にふわりと舞ったレースのカーテンを潜ろうとしたら、横から黒い影が覆い被さってくる。

「わっ!」

「わあっ」

 カーテンに隠れていた海雪に驚かされて、裏返しになった脱ぎかけの靴がバラの根元に落ちた。大声を出して仰け反り、窓際に置かれた鉢植えにつまずいた僕を見て、海雪の母親は手を叩いて喜んでいる。倒れかかった鉢植えの小さな苗木には、タヒチライムの写真が括り付けてあった。


「この部分のシンコペーション、バックビートをもっと強調した方がよくない?」

「こう? あ、こっちの方がカッコイイかも」

 僕がコードを弾くと、海雪はメロディをフェイクした。センスいいじゃん。

 チョコレートピアノの前で、僕らの音楽はどんどん色を変えていった。ちっとも真面目じゃないけれど、混ぜこぜになってもヘドロ色にならなければいい。たかが文化祭に、どうしてこんなに熱くなるのか、可笑しくなる。

「俺たち、上手くなってない?」

 調子にのった海雪は語尾を上げて言う。

「そりゃ、毎日練習してりゃあ、少しは……。ピアノデュオってさあ、兄弟や姉妹が多いじゃない。あれって、小さい頃から一緒にいる時間が長いからだと思うんだよね。いつでも相方がつかまるから、すぐに練習できるじゃん」

「のんちゃんも、そうだった?」

「いんや、うちの姉貴はダメ、全然ダメ。練習嫌いで、すぐに遊びに行っちゃう。俺のことバカにして、喧嘩ばっかりだった」

「喧嘩できるだけいいじゃん。俺なんか歳が離れすぎていて、喧嘩もできないほど、子供扱いだった」

 海雪は子供時代を懐かしむように天井を見上げて言った。それを見て、本当に時間の長さは問題なのだろうか、とも思う。

「あ、いけね。華ちゃんから〝今日のおやつ〟もらったんだった」

 窓際に置きっ放しのバッグから紙袋を取り出した僕は、カラカラと窓を開けた。

「おばさん、食べませんか」

 手を伸ばして紙袋を差し出すと、

「あら、いいの? 何かしら」

 海雪の母親は軍手を外した。

「わあ、かわいい。熊ちゃんのクッキーね」

 指先でそっとつままれた、大きめのクッキーを見た海雪が紙袋を覗き込む。

「熊? 猫じゃないの?」

 蚊取り線香の匂いが、ぷいんと部屋に侵入してくる。

「美味しいわよ、上手。いいわねえ、彼女の手作りなんでしょう?」

「彼女じゃないっす」

 夏期講習では初日に座った席が指定席となった。ほとんどの受講生が毎回同じ席に着いていたと思う。華絵はずっと僕の隣でテキストを開いていた。他校の生徒が大勢集まる教室で、華絵が一番の仲良しだった。

 一緒に昼飯も食ったし、帰りにパンケーキ屋にも寄った。僕の夏休みは、間違いなく華絵と居た時間が最も長かった。けれども、僕と華絵の距離は、何の変化もない。

 猫の耳をかじりながらピシャリと窓を閉めた海雪は、これといった感想も言わず、机の上のティシューで指先のバターを拭き取り、ピアノに向かった。憶え始めたドビュッシーを一音ずつ確かめながら、たどたどしく指を動かす。

 不意に耳を突き破るような羽音が響き、僕は慌てて手を払った。くるくると部屋を見回し、海雪の頭上で弱々しく舞う一匹の蚊を見つける。蚊取り線香は効いているらしい。頬に留まったところで海雪の頭を後ろから押さえつけ、きょとんとしている間にひっぱたく。

「いてっ」

 てのひらで伸された蚊をつまみ、ベッド脇のゴミ箱の上で指をこする。

「夏休み明け、実力テストじゃん。海雪、いつ勉強してんの?」

「してるよ、ちゃんと。朝まで起きてるから」

「朝まで? 朝になってから寝るの?」

 なかなか剥がれない蚊をゴミ箱の縁にこすりつけた。

「昼過ぎまで寝てる。で、ピアノの前でうだうだしてたら、のんちゃんがやって来る」

 海雪は頬を掻きながら応えた。

「ヒッキーなの? 一日中家の中に引きこもっていたら、俺だったらおかしくなる。何かしら理由をつけて出掛ける。コンビニにアイス買いに行ったりとか……」

「引きこもってない、外には出てる。コンビニは夜中でもやってるじゃん」

「夜中に外出すんの? アイス食べに?」

 僕は、蚊の体液で汚れた指をタヒチライムの葉に這わせて言った。

「なんで、コンビニ・イコール・アイスなの」

「コンビニスイーツもあんな」

「涼しくていいんだよ。駅の周りなんか、コンビニだけじゃなくて居酒屋もいっぱいあるから、けっこう賑やかでさ。三時くらいには新聞配達のバイクも走ってんの。ひと気のない道路が気持ちよくて、のんちゃんの家まで行ったこともあるよ」

「嘘、何しに?」

「何って……なんとなく……何してるかな……とか」

「そんな時間、寝てるに決まってんじゃん」

 指先を嗅ぐと、ほんのり爽やかな香りがした。「いい匂い」と呟いた。

「それ、いつか料理に使おうと思って……」

「料理?」

「ライムチキンとか……」

 聞いたことのない料理なのに、なぜか美味そうに思えた僕は、海雪の座るピアノ椅子にちょこんと片方の太ももをのせた。

「今度、夜中に来たときには、起こせよ」

「……うん」

 腰をずらしながら、海雪は「雨の庭」の楽譜を閉じた。 


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