第27話
涼しい、を通り越して、寒いくらいだった。ベッドを下りてエアコンのスイッチを切った。枕元に置いたはずの携帯電話が床に落ちていた。ちょっと眼を閉じただけだと思っていたのに、いつの間にか眠っていた。
頭まで蒲団を被っている海雪が、本当にそこに居るのかが疑わしかったのは、ずいぶんとコンパクトに収まっていたいたから。盛り上がった蒲団の上から、そっと、その形を撫でて確かめ、安心する。
携帯電話を枕元に戻し、僕はベッドにもぐり込むと、海雪に背を向けた。
ぎゅっとして───
どこからか、幼いひと言が発せられた。詰まるような、切れ切れの息の合い間だった。本当は何と言ったのか定かでない。ぎゅっとして……ぎゅうん……キュウン……まるで捨て犬の鳴き声のようだった。
頭の位置を変え、蒲団をそうっと剥いでみる。海雪は、カブトムシの幼虫くらい丸くなり、僕にすり寄っていた。
悪い夢でも見たのだろうか。顔を覗き込むと、泣くのを我慢しているのか、眉を寄せ、声を殺しているようだった。けれども……やっぱり眠っていた。
それが哀れだとか、子供のように可愛いだとか、けっして思ったわけではない。多分、小さな願いを叶えてあげたかっただけ……。
海雪の頭を抱き寄せると、シャンプーの香りが鼻の奥まで届いた。
再び眠りに堕ちた僕は、〝僕〟という楽器になっていた。誰かが僕を奏でると、僕はピアノによく似た音を出す。
解ったぞ。これは、夢の中だ。
僕の体から湧いてくる、このメロディは何だったか。聴いたことがある。確か、〝おにがもりでおひるね……〟なんて名前の作曲家の曲だったな。そうだ、映画音楽だ。冒頭で、器に盛られた檸檬が映し出されていたっけ。
檸檬、れもん、レモネード。もりでおひるねれもねーど……あれえ?
ストーリーは忘れてしまったけれど、始めと終わりだけは憶えている。最後に流れるキスシーンに、温かな涙を流した気がする。
瞼に、鼻先に、額に、くちびるに、僕もキスされて音楽を奏でる。誰かの指が腕をはじく。これは、現実?
僕を操るのは、誰だ。
不意に、髪の毛を掴まれて、ひょいと現実に戻るまで、僕は演奏者を捜して手を伸ばしていた。気づいたのは海雪の肩で、手触りが気持ちよくて握りしめていたのは薄っぺらなバスローブで、部屋に流れていたのはイタリアの映画音楽だった。
起きて一番に何を言ったのか、直後に忘れるくらい僕は動揺していたのだが、それを悟られないように、寝ぼけたふりをした。
どうか、僕が見た夢を覗かれていませんように……。
先に目覚めていた海雪が、何を言ったのかも、僕は憶えていなかった。けれども、窓に掛かるブラインドの透き間から射し込む光を浴びた海雪の後ろ姿は、顔を突っ伏して眠っていた僕の重みに耐えかねたように、右肩が下がっていた。
「修学旅行みたいだね」
新品のTシャツを身に着けた海雪は、シーツを整えながら言った。パステルカラーのTシャツは、一度洗濯しただけで穴でも開いてしまいそうなほどぺらぺらで、安っぽいのがひと目で判るけれど、僕らには充分すぎる。
部屋を出ると、向かいの車庫に停まっていた車は既になく、奥の扉では、〝花〟と書かれたウエルカムボードがゆれていた。
フロントで料金を払った。中の見えない小窓から、しゃがれた男の声が、約束通りの料金を告げた。
モーテルの入り口に飾られた大きな寄せ植えも、ラティスに絡まる蔦も、自然界に存在しない色をした、埃だらけの作り物だった。剥き出しになったクリスマスツリーの電球は、虚しく点滅を繰り返している。振り返ると、山小屋風に造られた、おもちゃのような二階建てが連なっていた。
モーテルを出ると、畑仕事に勤しむ老人の姿が、朝陽に照らされた絵画の一部に見えた。
突然、海雪は緑の噴水の中を走り出した。
「おい、俺に勝てると思うなよ」
僕は海雪を追いかけた。追い着いて回り込んだら、勢い余ってぶつかった。
海雪は空中に立ち込める霧ではなくて、現実、だった。下り坂を転げ落ちそうな僕を抱きとめ、カラカラと笑っていた。
ぎゅっとして───と言っていたように思う。
僕の幻聴。
山道を一度だけ振り返った。モーテルは青い森に隠されて、看板だけがニョッキリと突き出していた。全部が全部、夢の中の出来事のようだった。
「よかった。電車、動いている」
どこから湧いて来るのか、小さな無人駅に、また人々が集っていた。
単調なゆれは眠りを誘った。昨日と同じ景色を逆から眺めながら、記憶のアルバムをめくる僕の隣で、抱えたリュックに顔を埋めた海雪は電車のゆれに合わせてゆれていた。
乗り換える度に、今朝までの事は、胸の隅っこに置かれた小箱にしまわれて、僕らの駅に着く頃にはしっかり鍵まで掛けられていた。いつものホームに立ち、嗅ぎ慣れた風を吸った。
「やっぱりさあ、無料モーニングサービス、もらっときゃよかったかなあ」
僕は駅前のハンバーガーショップのテラスで、アイスコーヒーをすすり上げた。
「でもさ、なんか、注文しづらかったよね。Tシャツもらったし、サイダーもらったし……」
海雪が、テーブルの下に、こっそりパンくずを落とす。待ち構えたように、足下で歩き回る鳩が寄って来た。
「延長料金、おまけしてくれたし……」
テラス席から店内を窺い、店員に見られていないか確かめながら言った。それから、テーブルの下に屈み込む。
「おまえ、何やってんだよ」
もそもそと足先がこそばゆくなり、僕はテーブルの下を覗いた。海雪が僕のスニーカーにパンくずをのせている。我が物顔でうろつく鳩たちが、つま先をつつく。くっくっと笑う僕の眼の前には、「鳩に餌を与えないでください!」という警告が、柱にでっかく掲げられていた。
流れ始めたBGMに、ふっと空を見つめる。
「なあ、知ってる? この曲」
人差し指立てて、海雪に尋ねた。
「知ってる。ニュー・シネマ・パラダイス」
「ああ、それそれ、それだ。作曲した人って、誰?」
「名前? 誰だっけ? ええっと……なんとかリモーネ……だったかな。映画は観たことあるんだよ。この曲、姉ちゃんが好きで、一緒にDVDも観た記憶があるんだ。朝、ホテルで流れていたよね」
フレンチフライをくわえた海雪は、鍵の掛かった僕の小箱を空気の層で包み込み、「わかんないや」と答えた。
「それさあ、映画の最初に、器に盛られた檸檬が映っていた?」
「檸檬? さあ、憶えていない。観たことはあるけど、ずっと前だから……ストーリーも忘れた。憶えているのはラストシーンくらい」
「そうか……俺も観たことはあるんだけど……」
パンくずを残さず突っついた鳩たちが、僕たちのテーブルを回りだす。僕は、数本束にしたフレンチフライをくちに放り込んだ。
「音楽以外は、全部忘れた」
長く続くラストのキスシーンを思い出しながら、僕の頭の中に、〝エンニオ・モリコーネ〟という作曲家の名前が浮かんだ。
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