第24話

 今朝見たバス停の行列が幻のようだった。静まり返った駅で、自動改札の上を流れる、オレンジ色の文字を見上げる。

「いつから止まってんだ?」

 デジタル掲示板は電車の遅れを告げていた。

「落石事故だって」

「雨が降ったり止んだり、激しかったもんな。電車、どのくらい待つかな」

 自然に包囲されて何もできないでいると、アクシデントのひとつくらいで慌てるのが馬鹿らしいと思えてくるのか、僕は案外と呑気に言う。

「来ないんじゃないの」

 別にいいや、という気持ちは伝染うつるらしい。海雪もちんたらと応える。

 ただ、どうにも腹の音だけは正直だ。海雪はリュックの中を掻きまわし、チョコレートの箱を取り出した。

「ねえ、やっぱりよかったでしょ。山で遭難したときには、これ」

「遭難してねえし」

 差し出された赤い箱から、べとべとのアーモンドチョコレートをつまんだ。チョコレートはくちの中ですぐに解けるけど、アーモンドをこりこりとかじることで、腹は満たされたと錯覚を起こす。

「ああ、なんか、いつもより、すげえ美味いんだけど」

「腹減ってるからじゃない? あと、体力消耗したから。のんちゃん、これ好きだし」

 火取虫たちが天井の灯りにぶつかってはカチンと音をたてている。闇の到来と共に、森の声が聞こえ始める。

「でっかいな」

 駅の明かりに誘われたのか、てのひらほどの大きな蛾が、時刻表に張り付いた。

「ほんとだ、でっけえ」

 と言う海雪の方を見ると、彼の足下では立派な角を生やしたカブトムシがもぞもぞと動いていた。海雪は黒光りした雄のカブトムシをつかむと、ベンチの背もたれに這わせた。

「チョコレート、食べる? アーモンド入りだぞ」

 持て余していそうな重い角と硬い背を撫でながらカブトムシに尋ねている。迷惑そうだな、もちろんカブトムシが。それにしても、チョコレートなんか食うのか?

「楽しかったな、修学旅行……」

 蛇でも出て来はしないかと、自動販売機の取り出し口を恐る恐る開けていた僕に向かって言ったのかと思ったけれど、海雪が語り掛けているのはカブトムシだった。そういえば、修学旅行中の海雪は、ほとんどくちを利かず、仕方なく後ろを歩いているだけに見えたよな……。

「あ、クワガタ」

 自販機の取り出し口で休んでいるところに、上から缶コーヒーが落ちてきたらしい。僕はもがくクワガタをつまんでカブトムシの傍に置いた。

「小さい」

「コクワガタだな」

 つんつんと角を突いていたら、翅を広げたコクワガタは改札を飛び越えて行ってしまった。ホームを照らす明かりの下に、かさっと落ちる。

 ホームの向こうからは、得体の知れない生き物の悲鳴や、騒がしい木々の囁きが聞こえている。背中がぶるっと震えた。

「これ、ひとくちあげるからさ、それ、ひとくち、ちょうだい」

 ベンチに腰掛けると、自販機で購入したストロベリーアイスクリームの紙を剥がす海雪に言った。缶コーヒーを受け取った海雪は、ひとくちごくんと喉に流してから、

「ミルクティーの方がよかったな」

 と言う。「はい」と鼻先まで突き出されたアイスクリームを海雪の手ごと握りしめ、「わがまま言うな」と言いながら大ぐちでかぶりついたとき、黒い森から放たれた蛍光ピンクの電飾が、きらりと眼を刺激した。

「なあ海雪、今いくら持ってる?」

「なんで?」

 僕らの住む郊外の住宅地でさえ、ネットカフェやカラオケ店といった、朝まで居られる場所はいくらでもあった。腹が減れば、二十四時間営業のファミリーレストランに駆け込めばどうにかなる。そんな便利さに慣れ過ぎて、いつの間にか僕は、冷たいネオンを探していたのだろうか。

「見つけた」

「何を?」

「簡易宿泊所」

 僕は、天の星とも民宿の明かりとも相容れない、派手に点滅する看板を指差した。

「ラブホテル?」

 そうとも言う。

「あそこなら、予約なしで安く泊まれると思う」

「ああいう所って、俺らみたいのでも泊めてくれんの?」

「大丈夫だろ、俺、断られたことないし」

 海雪は眼を丸くして僕の顔を覗き込んだ。僕は火照った頬に冷たい缶を押し当てて言う。

「親父がさ……急に思い立って、家族をドライブに誘うことがよくあるんだよ。いつも無計画で……そりゃ、観光案内所で旅館を探すこともあるけど……大概、ああいうラブ……モーテルに泊まるんだよ。安くて、夜中でも泊まれるから」

「へえ……」

 海雪は、驚いて損をしたとでも言いたげな表情で背中を丸め、アイスクリームを舐めると、片手でリュックから出した財布の中身を確認した。

「わるいな……海雪のお母さんに……」

「俺、あんまり干渉されないから……連絡入れれば何も言われないし……」

「そうか……」

「いつも心配させているのは、わかっているし……」

 ぽそりと自分に言い聞かせているようにも聞こえたけれど、その流れに乗った胸の中の小石が、海雪のくちからころんと転がり始めた。

「のんちゃんはさあ……のんちゃんは……好き、って言われると、その人のことを好きになったりしないの?」

 ベンチに浅く腰掛けた僕は、「へ?」と足を投げ出して首をひねる。

「俺、好きになっちゃうんだ……好き、って言われると。何でかわかんないけど」

「へ、へえ……俺は……ない」

 僕もわからない。そもそも「好き」と言われた経験がない……いや、ひとりだけ、似たようなことを言われた気はするが……。

「なのに、いつも一方的にふられるんだ。いつも、そう……」

「そ、そうなんだ」

 海雪はこくんと頷く。

「好きだ、と先に言うのは、いつも相手の方。嬉しくて、大抵の要求には応えていたつもり……映画を観たいとか、買い物に行きたいとか……相手が言えば約束をして、デートくらいは……それなのに……俺の何がいけないんだろう」

「……海雪が、自分からは誘わないの?」

「どうして? 彼女たちが好きな事をしてあげればいいんじゃないの?」

 アイスクリームが勢いよく解け始め、コーンから溢れるように流れ出す。海雪は、それを追いかけるように舌を伸ばした。

「璃央さんは?」

 訊いていいものかどうか、少し考えてから僕は言った。海雪は、包み紙をべろべろ剥がして、アイスクリームを一気に頬張った。

「璃央さんも、そうなの? 同じようにふられたの?」

「璃央……璃央は……ちょっと違う……かな」

 蠅取りリボンのようにべとべと細長くなった包み紙をゴミ箱に捨てながら、海雪は首を傾げて天井を見上げた。

「あれは……なんというか……姉ちゃんみたいだ」

「は?」

 僕は自販機の前に立つ海雪の背中を見た。

「付き合った子は、みんな好きになったよ。璃央も同じ……同じだけど、違う。ああ、要領上手く言えないな……。のんちゃんも知ってるでしょ、璃央は、あのままなんだよ、今のまんま……。楽しかったんだよ、璃央と一緒にいると。だけど……相手に求めているものが違うって、俺も璃央も気づいた。好きだったんだよ、本当に……今でも好きだけど……あ、もちろん、あの頃とは違う意味で……」

 背中を見ながら、僕は缶コーヒーをくちにする。

「恋人ごっこ……をしていたような気がするんだ。理想の恋人ってこんなカンジじゃないかな、っていうさ……お互いが……。それが、いつの間にか、緊張感も何もない関係になっていてさ……彼女というより、姉と弟のような……親友よりも少し親しい関係というような……だからさ、つまり、あれだよ……その……」

 肝心なことが言えなくて、海雪はもどかしさから、後ろ姿で大きく溜め息をついた。まあ、察してやる。

「ああ、うん、いいよ、解った。つまり、付き合ってみなけりゃわからない、ってことでいいんだろ?」

 大雑把な援護射撃に、自販機相手に喋っていた海雪が、くるりと振り向く。

「簡単に言うと……〝すごく簡単〟に言うと、だよ。璃央だけは、自然にそうなった。でも、他の子は、みんな突然別れを告げるんだ。それも、スマホ使ってあっさりと……」

「だから、第一印象と違ったってことでしょ。よくあることじゃん」

「向こうから告ってきたくせに?」

 不満そうにくちを曲げ、僕の隣に腰掛ける。

「知らん。でも、璃央さんが、姉ちゃんっぽいっていうのは、なあんとなく解るな」

「璃央は感情を剥き出しにして怒るんだよ。言いたいこともズバズバ言うし……」

「ははっ、そんな感じする」

「璃央以外の子は、みんな優しかった。慕ってくれるもの判った。俺は、それに応えようとしていただけなんだ」

 僕は横目でちらりと隣を見ると、心の中で「はああ……」と溜め息を漏らす。

「海雪は……俺が思うに……多分、言葉が足りないんじゃないかな。黙っていても伝わらないじゃん。相手からしたら、一方通行で不安なだけだ」

「そうなのかな……」

 彼女たちは、静かに傍に居るだけの海雪に、不安を募らせていたのだろう。そして尋ねたかったろう。「楽しい?」って。

「でも、怖い……怖いよね。拒まれるかもしれないのに……」

 だから海雪は、いつかのように、「忘れてほしい」なんて、予め傷付かなくて済む準備をしていたのだ。でも……

「結果が同じになるとは限らない」

 と、僕は言う。

「それに、海雪、おまえ諦めるのも早いだろ。何で簡単に別れられるんだよ」

 すると海雪は、また背を丸め、膝の上に頬杖をついて言った。

「嫌われたら、その瞬間から、急速に冷めちゃうんだ」

 僕の缶コーヒーは、手の中ですっかりぬるくなっていた。

 



 

  

 

 

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