第25話

 深紫のペンキが撒かれた空に、思わず手を伸ばした。限りなく瞬く星が、掴めそうだったから。

 低く吠えるのは蛙。黄緑色に点滅しているのは蛍。正体が判れば何も怖くないけれど、近くから、遠くから、森の声が響く度、僕の背中には冷たい汗が滲む。

 熊は現れないだろうか。襲われたら、きっと新聞に載って、テレビのニュースで流されるんだろうな。一躍有名人じゃないか。ただ、自分でその記事を見ることはないんだろうけど。

「すぐ近くだと思ったのに、けっこう遠いな」

 駅を出た途端、闇に迷った僕は、派手な看板を見失っていた。勘を頼りに歩く海雪の靴が、ざくざくと砂を噛む音を聞き逃さないようにと耳を立てる。近寄り過ぎては汗ばんだ腕に触れるのが心強かった。

「歩く方向、間違ってんのかな?」

 携帯電話を取り出して時間を確認しながら、海雪に尋ねた。

「いや……こっちだと思うよ」

 手元の光に照らされた海雪の顔が、思ったよりも近くにあって、僕は、また、ほっとする。けれども、その途端、背後からドコドコ……と地面が鳴った。山に木霊す獣の雄叫びが、どんどんと近づいて来るようだ。

「熊……じゃないよな」

 確実に向かってくる爆音に怯えていると、突然、手首を掴まれ、体ごと引き寄せられる。

「危ないよ」

 海雪に抱かれた肩の横を、一台のスクーターがゆっくりと通り過ぎて行く。僕は、白いライトに眼を細めた。

「やっぱり、こっちで正解みたいだね」

 街の喧騒が恋しかったせいか、遠くなるエンジン音に胸をなでおろす僕に、海雪も安堵した声で言う。

「今度来るときは、熊よけの鈴とか、携帯ラジオとか、腰にぶら下げといた方がいいよね。どんぐりが不作の年なんか、寒くなっても冬眠しない熊が目撃されることもあるみたいだし」

「だから、冬は来ないって……だいたい、雪、雪が積もってんだろ。そんな所、わざわざ歩きたくない」

 スクーターが消えた跡を追ったけれど、星明りも街灯も、あまりに頼りなかった。お互いが、できるだけ道の中央を歩きたくて、肩をぶつける。行く先にぼんやりとした明かりを見つけ、知らずと速足になる。

「空き室、いっぱいあるよ」

 海雪はネオンで桃色に染まった顔で、空き室を示す青いランプの点灯したパネルを見上げた。

「ちょっと待て。時間、まだ早い。今入ったら延長料金が加算される」

 僕はブロック塀で囲まれた、モーテルの入り口を潜ろうとした海雪の腕を掴んで、料金表を指差した。

「延長?」

「ほら、宿泊時間には、まだ早いじゃん。前延長だよ」

 少し待っていようと、手にした携帯電話をポケットにしまい、ブロック塀に寄り掛かる。どこからか、鳥の声が聞こえる。近いな。こんな時間に鳴くのは、ヌエツグミか梟の類だろうか。

「ショパンだ」

 海雪が言った。

「フルートだ。よく、ショパンだって判ったな」

 サンバの陽気さを漂わせるノクターンに、人の温もりを感じた。音の方向へ顔を向けると、

「あんたたち、泊まっていくの?」

 小太りの女が、音もなく現れた。本来ならば、ひっそりと素早く入るべきところで誰かに声をかけられる。想定外の状況に、僕はごくりと唾液を呑み込む。

「あの……はい……電車が遅延で……帰れなくて」

「ああ、そう、じゃあ、入んなさいよ」

「え、でも……」

「邪魔なのよね、そこに立っていられると。他のお客さんが入れなくなっちゃう」

「あ……はい……」

 年齢にそぐわない肌を露出したファッションの女は、金色に染めた髪をいじりながら、「こっちよ」と言う。思い切れずに海雪を窺うと、顎をしゃくって〝行け〟という合図をされた。

 ブロック塀の中は、蔦の絡まるラティスと大きなプランターで囲まれ、車一台が何とかすれ違えるだけの道が作られていた。

「クリスマスみたい」

 この怪しい女と状況に拘らず、けろっと言った海雪に内心呆れていると、

「ね、きれいでしょ」

 と、女は言った。クリスマスのイルミネーションにしては安っぽく、センスのない電球が巻き付いたラティスは、お世辞でもきれいだなんて思えない。

 寄せ植えのアプローチを抜けると、二階建てのバンガローが左右に数軒ずつ連なっていた。一見すると、小さなキャンプ場のようだ。

 一番手前に建つ平屋のログハウスがフロントらしい。ブラインドが下りた硝子窓の下方に開いた小窓から、ノクターン第二番が聴こえてくる。

「どうぞ、お入んなさい」

 裏口にまわると赤いスクーターが停まっていた。女が扉を開けると、ぴたりとノクターンは止まった。

「息子が教えてくれたのよ。男の子がふたり、こっちに向かっているってね。どう見たって、帰りそこないのハイカーだって言うからさ」

「すみません」

 叱られているような気分で、出されたスリッパに履き替えると、

「おじいちゃんが、また電車が止まったって言ってたから、多分……帰れなくなって、宿を探しているんじゃないかと思って……」

 メタルピンクのフルートを手にした少年が、ヘルメットで潰れた髪を気にするようにいじりながら、もじもじと下を向いていた。

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