第23話

 僕らは川沿いの一本道を歩いた。時々立ち止まってはペットボトルをくちに当てるけれど、ほんの数歩進んだだけで飲んだ分だけ体から染み出るので、〝歩き続けた〟と言う方が感情的には合っている気がする。

 道の端で「満車」と書かれたプラカードを挙げる人を見つけた。やっと、目的地の駐車場にたどり着いたらしい。のろのろ進む車の列を振り返り、日が暮れるまでに全ての車を収容するのは無理なんじゃないかな、と少々気の毒に思う。駐車場を眼の前にしてUターンする車も何台か見られる。

 車を降りた人々が、なぜか、削られた山肌を下からなぞるように見上げていた。僕も真似して、ぐん、っと空を仰ぐ。そこには、山ではなく都心の超高層ビル並の大岩がそびえ立っていた。まるで、僕らを見下ろす巨神のようだ。

 そいつの天辺を見てやろうと、思い切り背伸びしてみた。けれども、周辺で仁王立ちする山々に邪魔され、どれだけ背を反らせても太刀打ちできない。迫りくる緑に抱かれて、巨神の鼻先さえ見ることのできない僕には、ただ、ただ、空が狭く見えただけだった。

 畏れ多くも巨神の足元をすり抜けて、僕らは谷底の受付へと向かった。海雪が僕を連れて行きたかったのは、巨神が覗く鍾乳洞だった。料金を支払い洞穴に踏み入る。

 穴の奥から吹く冷たい風が、全身の毛穴を閉じさせる。「ふええ」だか「ひええ」だか、思わず声に出る。海雪は、「ういい」とか「うええ」だったかもしれない。

 身震いしながら順路に従う。小さな子もいるからと油断していたら、いきなり右側から突起物が現れる。それを通り抜けると、今度は左から。すばしっこい子供たちは声をあげ、するすると先を行くけれど、体格の良い人は困難そうだ。しっかり足の裏に力を込めて、滑らないように進む。

「おい、海雪、頭……」

 乳白色の石氷柱つららを指差して言った。前を行く海雪は、身長の分だけ、僕よりも歩きにくそうに見える。

 一方通行の穴蔵は奥に行くほど狭くなり、徐々に頭を下げ腰を落としながら進む。なんとなく、生まれる前に見た光景はこれだったのだ、と思う。

 つきあたりに着くと、体を小さく屈めた海雪が、僕に手招きした。

「水琴窟だって」

 僕は、水琴窟を覗く海雪に寄り添って体を縮こませた。地中に埋められた水瓶の中で、雫が波紋を広げていく音が静かに響く。

「ファ・ソ・ラ・ド……」

 息を吐くように、ふたり同時に囁いた。

 果てしない時間が生み出した冷淡に美しい産道を下へ下へと潜る。淡緑色の石筍が地下に棲む生き物のように、にょきにょきと生えていた。終わりなくうねうねと続くトンネルの中では、獣の顎に見える鍾乳石が、洞窟信仰宜しく祀られていた。

 土竜ほど優れた感覚を持ち合わせていなければ、きっと僕らは、ここから出て行くことはできないのだろう。と、憂えた瞬間、突然、僕らは山の神の胎内に宿った。巨大な女神の腹の中では、ぼたりぼたりと冷たい石灰水が落ちてくる。

 体をひねって天上を見上げた。聖堂の大きさにしばらくポカンとくちを開け、ぐるりと周りを見渡す。こんな所に行列ができている。行列の先頭は、鍾乳石の階段に祀られた石像だ。釣られて行列に並ぶ。

「百円玉しかないや、賽銭」

 財布の中身をちゃりちゃりといじっていると、

「俺、持ってる」

 海雪は五円玉をくれた。

 信仰に興味があるわけではなかった。観光に来たのだから、という気分の問題。それでも、やけにニヤニヤと堪えたような笑い顔で戻って来る若者が多いことに気づくと、よほど変わった石像なのかもしれない、と期待もする。

 ところが、数分並んだ僕らの前で手を合わせるカップルが退いた瞬間、その理由が解った僕は、言葉を失くして立ち竦む。それから、後ろの人に聞こえるよう、大袈裟に笑った。

「どうする?」

「せっかく並んだんだからさ」

 けらけら笑う海雪は、ずんぐりむっくりしたてのひらほどの小さな石像の足下に、五円玉を置いた。

「そうだな」

 僕も同じように賽銭を置き、〝良縁祈願〟と書かれた石像を拝んだ。きっと大勢の若者が、何の御利益があるのかも知らずに手を合わせたのだろうな。

 女神の腹の中から俗世間へ帰る手立ては、人の手で造られた細く長い階段だった。地上を目指し一段一段登るのは、思っていたより脚力を要した。踊り場で休む人々を差し置いて、若い僕らは先を行く。後ろにいる海雪の荒い息が聞こえる。体温が上昇し、じんわり汗が滲む。

 もう少しで地上に生まれ出る、というときになって、岩が裂けるような音に顔を上げた。外の景色が霞んで見えないほどの激しい雨が岩戸を塞ぎ、群れた人間の足を留めている。せっかく温まった皮膚が、また冷たくなる。

 時折弱まる雨の透き間を縫って、ピンポン玉のように飛び出した人たちが駐車場へと駆けて行く。

「バスで来た人たち、どうしたかな」

「そういえば見なかったね。途中に出口が幾つかあったから、短距離コースで帰っちゃったかな」

 足のない僕らは、どんどん取り残されていった。洞窟の出口で寒さに腕を組み、体を震わせる。小雨になるのを待てない。濡れてもいいから、ここから出たい。

「でようよ」

 と言ったと同時に、

「でようか」

 と海雪が言った。

 下界は望外心地好く、温かい雨はさらさらさら……と、蜘蛛の糸のように僕らを包んだ。山々は知らぬ間に灰色を帯び、帰りを急ぐ車が、山道を歩く僕らの傍らを過ぎて行く。

「涼しかったでしょ」

 並んで歩くことができない細い道を振り返り、海雪は尋ねた。

「寒かったよ」

 雨は遠ざかり、草の匂いが蒸れる。

「昔さ、親父の車で来たことがあるんだ。この辺には、冬になると凍ったまま柱になっちゃう滝もあるんだよ」

「冬は嫌だな」

「うーん、熊も鹿も猪も出るしね。雪も積もるだろうし」

「……やっぱり、冬は来ない」

 僕は、何度も海雪の踵を踏みながら応えた。

 バス停に着く頃には、すっかりTシャツも乾き、通り過ぎる車もまばらになっていた。最終のバスには、まだまだ余裕があるのに、山の夜は訪れるのが早い。

 バスを乗り継ぎ駅前に到着すると、昔話にでも登場しそうな小さな民宿が、間隔を置いて数軒並んでいた。来たときに気づかなかったのは、あまりに人が多かったせいだろう。

 陽が落ちた駅前でバスを降りる人は少なく、僕ら以外の乗客は、民宿から漏れる橙色の灯りに吸い込まれていった。 

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