第22話

 夏休みのど真ん中は早朝からとんでもない猛暑で、このままだと干からびてしまいそうだ。待ち合わせた駅前のコンビニエンスストアーに着く頃には、Tシャツの背中がぐっしょり濡れていた。

「真夏にチョコレートはないだろ」

「山で遭難したときには高カロリーのものがいいじゃん」

 遭難だと? 三時間程度の、せいぜいサンダルからスニーカーに履き替えたくらいの装備で出かけようと言う、目的地ではなかったのか。海雪が「涼しい所」だと言うので期待して任せたのだけれど、大丈夫だろうか。

 買い物かごにチョコレートを放り込む海雪をざっと見る。僕と大して変わらない服装に、まあいいだろう、と気楽に考えることにした。


 電車を三回乗り換えた。見覚えのない景色が流れていく。V字型の渓谷が姿を現し、カヌーを楽しむ人々を車窓から見下ろす。こんもり覆い被さる樹木の透き間から青緑色の湖が見え隠れする。渡れるのかどうかも判らない吊り橋が通り過ぎる。そして、宇宙にそびえ立つクレーンに、ぐんぐん引っ張り上げられた太陽は、カンカンと昇っていく。

 吊り革を握る僕らの前には、ビシッとした登山スタイルでキメた初老グループが座っていた。彼らは日常のあれこれを深刻に、または楽しげに話していたのだが、ひとりの男性が、僕と海雪の間を覗き込むように大声をあげた。向かいの席に座る仲間に降車する駅名を告げただけだったのだが、どうにもその声は大きすぎたようだ。うしろから「わかったよ」と、苛ついた返事が聞こえた。

 グループの中でも、その男性は声が大きかった。お手軽ハイキングコースとは違う登山コースを歩くのだ、と自慢げに辺りの解説まで始めたのは、すぐ側にいるハイキングにしてはオシャレ過ぎる女の子たちを意識しているのだろうか。

 見かねたのか、仲間の女性が足元のリュックからおつまみの袋を取り出して手渡した。男性のくちが静かになったのはいいけれど、周りで漂うイカの燻製の臭いに、僕と海雪は笑いを堪えながら眼を合わせた。

 無人駅に降り立つと、オアシスを求めて集う夢見る都会人たちが、目的地行きのバスに乗るために長蛇の列を作っていた。あまりに熱いエネルギーに僕は唖然としながら、これをエコロジーに活用できればいいのに、なんてつまらないことを思う。

 蛇の尻尾の先っちょに並んで乗り込んだバスは、通学電車など問題にならないほどの込み具合で、僕の体はおかしな恰好で固定されたまま発車した。

 スーパーマーケットで売られている詰め放題のウインナーのように、くっついた腕と腕がぬるりと滑り、僕のくちびるが触れた海雪の鎖骨に、ひとすじの汗が伝った。冷房なんて効きやしない。

 重なり合った乗客の透き間から覗く窓に、先ほどのベテランハイカーグループが映った。のびのび歩く彼らが羨ましい。

 ようやくバスを降りたと思ったら、大粒の雨がぼたんぼたんと落ちる。一目散に駆ける乗客に混じり、僕らも湖のビジターセンターへ飛び込んだ。

「強烈ー」

 リュックの底からバスタオルを出して、僕は頭にのった雨粒を払う。

「山の天気は変わりやすい、っていうからね」

 海雪はTシャツの裾をめくり、幼児のように顔を拭う。

「止むかな。傘、持ってきてないんだ」

「傘はなくても、こんなでっかいタオルは持ち歩いているんだね」

 手渡したバスタオルを広げ、海雪は言う。

「まあね」

 市民マラソンに参加した記念にもらったバスタオルだ。半年くらいリュックに入れっ放しだったけどね。

 山の天気が変わりやすいのは本当だった。ビジターセンターで流れる郷土芸能紹介ビデオには、さほどの興味もそそられないし、地元の名産品も、わざわざお金を出して買うほど欲しい物でもない。けれども、雨宿りで偶々訪れた僕らの時間つぶしにはなったようで、あっという間に灼熱の太陽は復活した。

 ビジターセンターを出て休める場所を探す。屋根はあるものの石のベンチは熱かった。じわりと温もる太ももに耐えながら、僕らはコンビニのおにぎりを頬張り、スナック菓子の袋に手を突っ込む。弁当を広げる家族の周りで走り回る子供たちの向こうに、深い青緑を讃えた人造湖が見える。

 湖の周りを歩くと風が涼やかだった。言葉少なにぽつぽつと巡りながら、白鳥の姿をした遊覧船が白い小波をたてて泳ぐのを眺めていた。すると突然、後ろから肩を抱き寄せられる。

「撮るよ」

 シャッター音が鳴る。湖を背景にした僕らは、海雪の携帯電話の中に納まった。

 それから、日に数本しか運行しないバスを乗り継いだ。何時間も停まっていた一台のバスは、山奥の、更に奥に行くのだ。

 一番後ろに座る僕らからは、熟年の男女と、小さな子供を連れた若い夫婦しか見えない。山奥の奥に行きたがっているのは、たったの七人だ。

「渋滞してるの?」

「うん。道が狭くて」

 窓際の海雪に体を傾け、窓の下を覗き込む。ほんの数分で進まなくなったバスからは、いつまで経っても変わらない景色と、ずらりと並んだ対向車が見える。

「なあ、ここにいる交通整理のおじさんってさあ、どうやってここまで来てんの?」

 すれ違うのも困難な狭い山道を片側ずつ通している交通整理員を見て、素朴な疑問を呈してみる。

「はあ……早朝に車で来てるとか……」

 海雪が首を傾げたと同時にバスが動く。カーブに合わせて乗客全員が左に傾く。

「でも、その乗って来た車を停める所なんかないじゃん。こんな狭い道じゃあ」

「じゃあ、送迎バスとか……?」

 進んだかと思えば止まり、また進んでは止まる。そうやって終点に着いたバスを降りたけれど、山道を埋めつくす自家用車の列は、まだ続いている。山奥の奥に行きたがっている人は案外多かった。

「ここからは歩き」

 海雪が言った。真っ先にバスを降りた熟年の男女は、ガードレールの下で大きく口を開ける眩暈がしそうな谷を眺めながら、しっかりした足取りで悠々と歩いて行った。僕らの前に降りた若い夫婦は、小さな子供の歩調に合わせてゆっくり歩いている。連なる車の列を横目に、僕らも彼らの後ろをのんびり歩く。この調子でも、車より先に目的地へ着けそうな気がした。

「あれ、渡れるの?」

 僕は、巨大な緑に吸い込まれていく、水色の橋を指差した。橋の前では、子供連れの男女が立ち止まっている。

「さあ」

 海雪は片眼を歪めて答えた。

 やがて、母親と子供を残した父親は、たったひとりで橋を渡り始めた。様子が変だ。まるで橋の先に在る物を探りに行くように、そろそろと歩いている。

 近くまで来て、その意味が判った。

「吊り橋だ」

 僕はジェットコースターに乗る前に似た、踊りだしそうな胸を抑える。が……

「行かないでしょ?」

 吊り橋を渡るなんて、まだひと言も言っていないのに、海雪は面白くなさそうな雑な口調で言う。

「百パーセント事故が起きないなんて、誰が言える? 遊園地の乗り物で死ぬことだってあるんだから。のんちゃんが落ちたら……俺も逝くから」

「……渡るなんて、言ってない」

 そんなことを言われたら、他に応えようがないじゃないか。

「ダメダメ、遊歩道でもあるのかと思ったけど、何にもなかったよ」

 ゆらゆらと不安定な橋から戻ってきた父親は、吊り橋の終点を指差すと、子供の手を引いて再び歩き始めた。

「何もないってさ」

 念を押す海雪の声は、そこいら中で降り注ぐ蝉時雨に掻き消されていった。

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