第21話

 郵便受けの上で微笑む妖精は、門番のように僕を監視していた。この門を開くと、いつも南の方角から、くぐもったピアノの音が聴こえてきた。

 けれども、今日はやけに静かだ。裏庭にまわって窓を覗く。レースのカーテンの透き間から、ベッドに仰向けの海雪がちらりと見える。

 そっと硝子を叩いてみる。死んだようにぴくりともしない。コン、コン、コン……

何度も叩くうちに音は大きくなる。やっと体がもそもそと動くと、急にぴょこんと跳ね上がる。

 眼をこすりながら開けられた大きな窓に、ほっ、として、僕がまるで自分の家のように部屋に上がり込もうとしたときだった。

「痛っ!」

 突然の激痛に思わず叫んだ。窓辺に立つオベリスクに絡まった、ピンク色のカクテルローズに触れてしまったみたいだ。

「いてえ! バラだ」

「バラ?」

「いてえ、何だこれ……いってえ」

「ちょっと見せて……違う、バラじゃない」

 庭に下りた海雪は、しゃがみ込む僕の肩をゆすりながら裏返った声をあげた。

「蜂だ、そこ」

 海雪が指差したバラの根元で、伸びた芝生に絡まる一匹のアシナガバチが、ぶぶぶ……と回りながら這いつくばっている。

「どこ、どこ刺されたの?」

「中指……」

 僕の左手首を掴んで顔を近づける。傷ひとつ見当たらないけれど、何かに気づいたのか、海雪は中指の第二関節に吸いついた。熱くぬるりとした感触が、僅かばかり痛みを和らげる。唾液を吐き出して患部をきゅっとつねると、針の先ほどの赤い血がぽつんと浮かんだ。

 ばらばらに脱いだ靴をそのままに、海雪は僕を台所まで引きずり込むと、チョコレート色のピアノの横で、流し台の蛇口をひねった。その間にも、僕の中指は見る見る腫れあがっていく。

 くちびるを閉じた海雪はひと言も喋ることなく、腫れた中指を揉んだ。流水が海雪の白い手を弾く。針の痕から毒を絞りだすように強く揉むので、痛い。

 やがて腫れていた指が元の大きさに戻る頃、海雪はようやく自分のくちを濯いだ。

「まだ、痛い?」

「大丈夫みたい、処置が早かったせいかな」

 丁寧に拭われた指は、強い圧力と冷たい水のせいで、じんじん痺れていたけれど、痛みは引いている。机の引き出しから取り出した絆創膏を巻いてくれた海雪に「ありがとう」と言い、指を撫でていると、

「じゃあ……ここは?」

 僕の胸にてのひらを当てた海雪は言った。

「動悸とか……息切れとか……」

「……無い、大丈夫」

「少しでも気分が悪くなったら、すぐに言ってよ」

「うん……」

 わかったよ。でも……動悸はしているかもしれない……。

 コツ、コツ、コツ……。流し台の前に突っ立っていた僕らは、不意に聞こえたドアの音に、びくりと顔を合わせる。

「どうしたの? 開けっ放しじゃない」

 ステンドグラス風のドアの外に立つ人は、僕の母さんより、ずっと年上に見えた。白髪交じりの短髪は、海雪の髪色より赤く、黒ぶち眼鏡の奥の瞳が明るい。ベージュのパンツスタイルが細身によく似合っている。

「友達?」

「うん……学校の……」

「鮎川です」

 上手く挨拶ができなくて、頭だけを下げる。

「あら、あなたが鮎川君? いつもお世話になっています……どうかしたの? そんなところで……」

 まるで歌劇の台詞のように喋るその人が、海雪の母親だとすぐに判った。

「ちょっと……バラの棘が刺さって……」

「まあバラが……ごめんなさいね。忙しくて手入れが行き届かなくて、伸びるだけ伸びちゃって……庭も雑草だらけでひどいでしょ。うちの子といっしょ」

 あはは……と笑った海雪の母親は、息子の領域に踏み入ることはしなかった。買ってきたばかりと思われるアイスクリームをドアの外から手渡すと、「ゆっくりしていってね」と、にこやかに階段を上って行った。

 海雪は部屋のドアを閉めて言った。

「前もそうだったけど、どうして正直に言わないの? バラの棘だなんて嘘ついて」

「前? 何か、あった?」

「いや……ほら……捻挫したとき……転んだって……」

「ああ……面倒くさいんだよ、説明するのが。親に心配かけると、もっと面倒なことになる。海雪だって嫌だろ、そういうの」

 理由はそれだけだったけれど、海雪は納得のいかない顔で鼻の頭をかりかりと掻いていた。

「お母さんって、音楽教師?」

「どうして分かるの」

「喋り方に特徴がある。なんていうの……発声練習しているような話し方。音楽教師って、なぜか、みんな同じような喋り方をするだろ」

「そうかな、よくわかんない」

「ピアノ、お母さんに習ったの?」

「ああ、うん、小さい頃はね。でも、ほとんど独学なんだ。CDをお手本にしたりして……。だから、譜読みを間違ったまま弾いていて、何年か経ってから気づいたりする。それに、譜面を大きく捉えられないから、初見もできないんだ」

 海雪は冷たい床に胡坐を掻き、アイスクリームの蓋をはがして言った。海雪の弾くバッハに、妙なトリルのある理由が判った。

「先生って、夏休みも学校行くの?」

「行ってる。私立高校の吹奏楽部顧問だから。夏休みってコンクールシーズンなんだよ。今が一番、気合が入ってるんじゃないかな。家になんか居ないよ」

 表情からは母親に対する尊敬と感謝を感じた。海雪と母親の関係は、愛する人を失った者同士が、悲しみを共有しながらも互いの領分を侵さない、絶妙なバランスを保っているようだ。海雪は〝いい子〟なんだろう。

「のんちゃんは?」

 小さなスプーンをくちに運びながら海雪は言った。

「せっかくの夏休みなのに、どこか遊びに行かないの?」

 なんだって? おまえが、それを言うのか?

 僕は絆創膏の巻かれた指に垂れたアイスクリームを舐めながら、海雪の顔をちらっと見た。スプーンをくわえた海雪も、窺うように僕を見る。

 そうなのだ。天下の夏休みだったのだ。

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