第20話

 どこからかカレーの匂いが漂っている。インド人シェフが腕を振るう駅近くの本格的カレー屋から香る複雑なスパイスとは違う、スーパーに売っている固形ルーの匂いだ。家の前に自転車を停めると、見えるわけはないのに、なぜか換気口から黄色い煙が上がっているように思えた。

 事前に連絡を入れていたので、母さんは快く海雪を招き入れた。特に、きちんと揃えられた赤いビーチサンダルには好感触だったらしい。

 海雪を居間へ案内してから、僕は二階へと駆け上がった。確か、この辺にあったはず、と部屋の本棚を漁る。迷ったけれど捨てられなかった中学時代の地図帳と、小学生向けの古い図鑑に挟まれた、幾つもの紙の束を引っ張り出しては中身を確認する。

 あった、これだ。一度開いた紙を畳み直し、はたはたと埃をふるい落としながら居間に戻る。海雪はレコードやCDが窮屈そうに並ぶ壁に向かって立っていた。僕が戻って来るのを待っていたように、大型ステレオコンポを指差す。レコードプレーヤーが珍しいらしい。

「これ、聴いたりするの?」

「あんまり聴かない」

 僕が答えると、

「聴いてもいいわよ」

 台所から母さんの声がした。海雪の家と比べて小さくて古い家の空調を居間のエアコン一台で済まそうとして、どの部屋のドアも開けっ放しなので会話が筒抜けだ。

「聴いてみたい」

 本当にそう思ったのかもしれないし、母さんへの気配りかもしれないけれど、海雪がそう言うので、棚の一番右下からレコードを引き出した。破れたビニールカバーがセロテープで補修された、父さんのレコードだ。

 つやつやに磨かれたレコードに指紋を残さぬよう、指を広げて静かにプレーヤーにのせるのを、海雪は興味ありげに見ていた。やがて、スピーカーから不明瞭な音楽が流れ、外国語を話す男の声が聴こえ始めると、レコードジャケットを手にして、ついと顔を上げる。

「A列車で行こう……って……これ、レナード・バーンスタインが喋っているの?」

「そう、演奏しているのはデューク・エリントン楽団。バーンスタインがジャズの解説をしているレコードだよ」

「こんなのがあるんだ……」

 海雪はレコードジャケットをひっくり返したり、表に戻したりして眺めていた。

 ちょうどバック・クレイトンのトランペットが雑音混じりに流れ始めた頃、僕は二階から持ち出した紙を開き、居間の片隅に置かれたプリンターのボタンを押した。

「こういうのが、好きなの?」

 少し戸惑った様子で、海雪は僕に尋ねた。

「俺? 何でも聴くよ。いいと思えばね」

 僕は曲の途中でレコード針を上げた。苦いブルースはセンチメンタルすぎて、僕らには退屈だったな。プリンターをそのままにしてバーンスタインを棚に戻すと、すぐに別のレコードを取り出す。

「これなんか、いいよ」

「アルマジロ?」

「違う、〝タルカス〟だよ。EL&Pの」

「タルカス?」

「プログレッシブ・ロックっていって、クラシックの名曲をシンセなんかで独自編成したり、ロックが楽章形式になってたりしてんの。キース・エマーソンって知らない?」

「知らない、誰?」

 レコードジャケットに描かれた空想上の生き物は、確かに、戦車に乗った緑色のアルマジロにも見える。

「コンサート会場で、オルガンにナイフ突き立てて、ぶっ壊しちゃう人だよ」

 その様子を想像できたかどうかは判らないけれど、海雪は喉をくっくと鳴らして笑っていた。

 その後はどうにも居間の奥にある台所の母さんが気になるので、狭い家の中、少しでも離れようと海雪を二階へと促した。二階の廊下には木目調のアップライトピアノが置かれている。

「母さんが子供の頃のだよ。陽の当たる場所に長い間置きっ放しにしていたせいで、見た目は酷いけど、ちゃんと修理に出して、毎年調律もしてもらっている。古くても音はいいんだ」

「弾いてもいい?」

 海雪は、ピアノの蓋を割ってしまいそうなほどの大きな傷を人差し指でなぞって言う。駄目だなんて言うわけがない。「もちろん」と答えると、ピアノの上に並んだ幾つかの教本から、学習者が一度は演奏するであろうバッハを選び出し、ぱらぱらとページを開く。

 「シンフォニア」十二番イ長調。おそらく、指まわりをよくするために弾いたのだろう。リズミカルで華やかだ。

 全部で十五曲ある「シンフォニア」は一番から難しくて、僕は随分と苦労した記憶がある。最近は弾いていないな、と海雪の傍らで開かれたページを読んでみる。

 とても滑らかで澱みない流れの中に、そこかしこで小さくしゃくりあげるような、僕の耳には通常よりも多い音が聴こえる。妙な癖だな。

 そうして一分半の短い曲の後、海雪が教本を閉じると、幻想的かつ大甘ドビュッシーが、やわらかく重厚に響いた。



「ミルフィーユカツだ」

 海雪は、大皿に盛られたカレーライスの上に、どーんとのったトンカツをかじって言った。

「そう言うとオシャレな料理に聞こえる」

 安い薄切り肉を重ねて作った節約料理だ。僕は満腹になりさえすれば充分なので、呼び方なんてどうでもいいのだけど、母さんに「ミルフィーユカツカレー」と言ったら喜ぶかもしれない。

 開け放した僕の部屋からは、ラベック姉妹が演奏する、組曲「マ・メール・ロワ」が流れていた。マ・メール・ロワの第四曲「美女と野獣の対話」が終盤を迎える頃、ひんやりした二階の廊下に座り込んでいた海雪が、皿にスプーンを置いた。麦茶のグラスに手を伸ばしかけたのに、僕が差し出したコピー用紙を反射的に受け取る。

「〝妖精の園〟の楽譜?」

 海雪は手渡された楽譜と、僕の手の中にある古い楽譜を見比べながら言った。

「昔さ、姉貴と連弾したことがあるんだ」

 麦茶をひとくち含み、すっかり黄ばんで端がめくれた楽譜を開くと、ちょうど、マ・メール・ロワの第五曲「妖精の園」が流れ始める。まだ小さかった僕が、乱暴に扱って破いてしまわないようにと、ピアノ講師がコピーした楽譜を画用紙に貼りつけて補強した物だった。

 当時流行っていたテレビアニメのキャラクターシールがぺたぺた貼られているのに気づいた海雪は、「懐かしいな」と言って僕の膝から黄ばんだ楽譜を奪い、代わりにコピー用紙を突きつける。

 妖精の園は序盤から幻想的で、最後には宇宙まで連れて行ってくれた。それなのに、ここは小さな家の二階の廊下で、胃の中にかき込んだのは母さんのカツカレーで、僕は麦茶を飲みながら楽譜を読む海雪の頭の辺りを見ていた。すべて嘘の世界だった。



 路地には湿った熱風が渦を巻いていた。

 玄関灯の下で、海雪は「じゃあ」と手を挙げた。僕の返した短い挨拶を聞き終わらないうちに開いた門の軋む音が、蒸し暑さを増す。不快だ。

 海雪は、ふっと振り返ると、門に掛けていた手を離した。薄暗がりに隠れるように、その指先が僕のくちびるをかすめた。この先、戒めに背いた罰を受けるであろう契約書に、黙って血判を捺すように……。

 海雪なりに昇華した愛情表現に、僕は常に罪悪感を持った。拒むことをしないなんて、ムシがよすぎる。

 そして、海雪の乗った自転車の反射板が、光りながら遠ざかっていった。

 

 

 

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