第18話

 海雪は今朝も同じ電車に乗った。嫌でも体が触れる、あの電車に。そして僕は階段を駆け上がることをやめた。

 僕が、手作りの実験道具をシラケ気味の生徒に披露してはひとり悦に入る年配の物理教師の話をすると、海雪は、朝の情報番組で紹介されていた新作映画の話をする。他愛無い会話は夢から醒めた朝のように、昨日までの事を曖昧に忘れさせる。

 残酷な仕打ちだと判っていた。昨日の僕らは、何度もピアノの弾き合いをしたのに……。幾つもの彩色を放つ者を、僕は失いたくなかったのだ。


「海雪の〝夢想〟ってメルヘンチックだ。赤ずきんちゃんが花でも摘んでいるみたい」

「そうかな。雲の透き間から射し込む光に向かって、天使が飛んでいくイメージで弾いているんだけど」

「チンダル現象か」

「……のんちゃんってさあ……」

 カルボナーラを食べ終え部屋に戻った海雪は、僕の返答に落胆したように肩を落とした後、右手で甘いメロディーと、左手で流れるアルペジオと、やがて部屋中を回遊する和音の群れを創り出した。やっぱりクサかった。クサすぎた。

 海雪の奏でるラフマニノフの『パガニーニ・ラプソディ、第十八変奏』は、歯の浮くような台詞をくちにしているようで、とても恥ずかしく聴こえた。けれど、悔しいほど、海雪には似合っていた。鍵盤を滑る十度が届きそうな手が、僕は心底羨ましかった。


 昨日の海雪の演奏を回想しながら教室の扉を開き席に着くと、ふらりふらりと璃央が近寄って来た。僕と海雪の頭を軽く撫で、何年か先に生まれたような顔をして、またふらりと戻って行く。

 何もなかったように授業の準備を始める海雪の後ろの席で、僕は頭を押さえながら璃央の姿を眼で追った。謎だな、この女は。

「のんちゃん、のんちゃん」

 跳ねるようにやって来た華絵が、意味ありげな笑みを浮かべてしゃがみ込むと、机に顎をのせ上目遣いで僕を見た。

「ねえねえ、のんちゃんも海雪ちゃんも、昨日休んだから知らないでしょう? うちのクラス、ライブカフェをやることになったんだよ」

「ライブカフェ?」

「ほら、文化祭の目玉」

「バンドコンテストのこと? それと関係あんの?」

「うん、〝カンちゃんバンド〟が、リハーサルに教室を使えないか、って言うもんだからさ……」

「でも、菅野たちだけじゃ、ライブカフェなんて成り立たないだろ」

「ところがさあ……面白いのよね、このクラス……」

 どうやら、ホームルームで話し合った結果、ひと組だけに教室を使わせるのが不公平だ、となったらしい。そのうち、楽器経験者たちがぞろぞろ意見を言い始め……。

「やりたい奴がいっぱいいた、ってこと?」

「そう、何だか知らないけど、いきなり結成したアカペラグループもいたの。一組って仲良かったんだね」

 〝仲良しごっこ〟だと、多分、華絵も判っているのだろうけど、「へえ」と僕は感心してみせる。定期考査が終われば、夏休みを待つだけで、二学期には受験勉強に追われるのだ。

「ストレス発散だろ、受験勉強の」

 僕たちの話を聞いていないとばかり思っていた海雪が、ぼそっと呟いた。



 屋上の扉を開けたのは何日ぶりだろう。鉄板のように熱く照り返すコンクリートの上を、二羽の四十雀が飛びまわっていた。

 黄緑色の虫をくわえた彼らは僕らを警戒しているようで、しばらくの間、害の無いことを確認してから、ようやく階段室の横に積み上げられた植木鉢に向かって行った。バラバラに崩れてしまわないようにブルーシートで覆われ、縄でしっかりと縛られた植木鉢の山からは、さっきから雛の声が騒がしく聞こえている。

「四十雀の巣があるよ」

 四つん這いになって植木鉢の透き間を覗くと、「ホント?」と、海雪は僕の肩に顔を寄せる。そのとき、首の汗が吸い取られる音がした。

 今のところ、海雪を嫌いになる理由は見当たらないけれども、気温と湿度の上昇は不快感を生んだ。それなのに僕は、離れろ、とは言えないのだ。畜生。

 伏せた植木鉢の底穴から聞こえるにぎやかな声に、海雪がそろりと這い寄ると、ひょっこり顔を出した親鳥と、きっちり眼が合ってしまった。静かに後退る海雪を睨みつけたまま、親鳥は微動だにしない。隣で僕は、四つん這いのまま固まっていた。

 海雪が眼を逸らさずに片膝をずらした瞬間、突然、勢いよく眉間に飛びかかって来た。海雪は、首を竦ませ眼を閉じた。

「すっごい早業」

「何? 見てなかった。目玉つつかれると思って……」

「海雪の頭の上に、黒い、ちっこい虫が飛んでた。それ、くわえて行った」

 一部始終を見ていた僕に、衝撃の一瞬を見逃した海雪は、「くそ、見たかった」と、少しばかり不満げな顔をした。


 教室に戻ると、片足を椅子の上にのせた華絵が、スカートをめくり上げていた。

「ちょっと、華、パンツ」

 長い脚を持て余すように投げ出して座っていた璃央が、ざらざら声でがらがら笑っている。

「いいの、ほら、〝見せパン〟だから。まったくさあ、生徒会室の窓が全開で……見てよ、いっぱい蚊に刺されちゃった」

 華絵は虫刺されの痕を見せたいのか、短パンのお尻に入ったスポーツブランドのロゴを見せたいのか、更にスカートの裾を上げながら、僕に痒み止めの薬を差し出した。

「はい、虫に刺されてるよ、首の後ろ」

 華絵の指先でぶらぶらゆれる黄色いチューブに眼を留めた僕は、咄嗟に首筋を押さえた。

「だ、大丈夫、痛くも痒くもないから」

 上擦った声を訝しがられていないかと、「あら、そう?」と言う華絵の顔色を見た。前の席では、海雪の肩がゆれていた。くちびるの痕跡を「虫刺され」と言われ、後ろ姿で笑っていた。おい、次は、絶対にさせないからな。



 海雪は鍵の壊れた屋上や放課後の音楽室以外にも、僕の知らない学校を知っていた。西側の校舎裏にある庭は藪蚊が多いけれど、赤いベンチの傍らに植えられた楓が、秋になると金色に輝くのだと教えてくれた。四季咲きのバラが咲き誇る明るい庭では、弁当を広げお喋りに夢中の女子や、発声練習に励む放送部の姿がいつでも見られるけれど、誰も気づいてくれそうにない、この小さな庭が好きだと言った。

 秋だなんて、今の僕には想像もできないのに。

 海雪は大勢の人間と関係かかわることをことを好まない代わりに、季節の匂いや空の色に敏感だった。良いか悪いかではなく、ありのままを受け入れる潤沢な感受性は好きだ。

 でも、もうすぐ夏休み。暫しの別れに、僕は安らぎを感じていた。 

 



  

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