第17話
僕は、海雪の眼の高さまで屈み込み、ピアノの陰に深く沈んだ瞳を覗いた。
「朝、助かった。海雪がいなかったら、駅のホームでぶっ倒れて踏みつぶされていた。ありがとう……。でも、俺じゃなくても、海雪は助けただろ? 海雪のいいところを知っている人は他にもたくさんいると思う」
例えば星野とか、多分、璃央も。
「俺、今ものすごく衝撃的な告白を聞いたよな?」
いい人でありたい、という魂胆がむくむくと頭をもたげる。
「卒業まで同じ教室だぞ。毎日顔を合わせなくちゃいけないのに、どうしろっていうんだよ」
「……だから……忘れてくれって……」
そうして、うつむいた海雪の前に、僕は右手を出した。びくりと肩を上げた海雪に、もう一度「ふんっ」と言って右手を見せる。どう捉えても構わないけれど、いつでも都合よく返答ができるように、曖昧な右手を僕は差し出す。海雪はそれをどう解釈しようとしているのか、いつまでも応えないので、
「多分、嫌いにはならないから……」
と付け加えると、ようやくてのひらに指を這わせた。冷たい蔦となって絡みついた指が、てのひらを捕らえる。海雪は握手に応じながら、空いた左手で僕のくちをふわりと覆う。
「……ありがとう」
言いながら、その手が力なく垂れ落ちる途中、僕の鼻先とくちびるを撫でていく。まるで子供を宥めるように、僕は海雪の頭をぽんっと叩く。
「これで、いいだろ?」
本当にズルいのは、僕だった。
涼風を送るエアコンの音と、狂った一匹のアブラゼミの声が、室内に響いていた。僕の内臓を絞る音が、それに共鳴すると、緊張が解けたくちさきが歪む。
「腹、減った」
ごろんと床に寝転ぶと、海雪が顔を覗き込む。僕の脳は一瞬でシミュレーションを開始する。すぐに、逃げられるように……と。
「何か、食べる?」
首を傾げてそれだけ言った海雪に、ぴんと張った糸が緩んだ。
海雪に案内されて部屋を出た。階段を上ると、シンプルな家具で統一された、明るく広い居間が現れる。白い飾り棚に設けられた、小さなメモリアルボックスの遺影がやけに目立っていた。
「カルボナーラ、好き?」
「好きだけど……作れんの?」
メモリアルボックスを取り囲むように並ぶ家族の写真を見ながら、僕は言った。せいぜいインスタントラーメンを煮る程度だろうと思っていたので、ちょっと驚く。
「楽勝」
海雪はカウンターキッチンの中から言った。食材を選び出しては調理台に置いていたが、冷蔵庫を開けたまま一、二秒動きを止める。
まかせっきりも悪いな、とキッチンに入る。冷蔵庫の奥に手を伸ばしていた海雪が取り出したのは、〝RENOIR〟と銀の刻印がされた白い箱だった。駅前のケーキ屋の箱だ。中にはひとくちで食べられそうな小振りのエクレアが、ひとつだけ残っていた。
海雪はエクレアを半分に千切った。僕のうわくちびるをノックするように、千切ったエクレアのクリームをちょんちょんと捺しつけ、黙ってそのままくちの中に放る。
「うま……」
エクレアは、あっという間に喉奥へ消えた。残りの半分をくちに放り込んだ海雪は、指についたチョコレートを舐めながら、もう一度冷蔵庫を開けた。
密閉容器が美しく整理された庫内からは、テレビコマーシャルを連想させる。ひとりで留守番をする息子のために、母親が工夫した結果なのだろう。家族写真を見たせいかもしれないけれど、海雪が愛されて育ったのだと想像できる。
「座ってなよ」
と言われた。キッチンに入ってもすることがない。かといって、ぼけっとダイニングテーブルに座る気にもなれない。
「見てる」
と言って、本当に、ただ傍で見る。少し……いや、かなり僕を意識しているのか、海雪は大真面目な顔で大ぶりの寸胴を火にかけ、慣れた手つきでパンチェッタを刻んだ。
フィットチーネを茹でている間に肉を炒める。白ワイン、少しの生クリームとチーズ、卵黄でソースを作る。黒コショウが香るまで海雪のショーは続いた。空っぽの胃が、また鳴き声をあげる。
「なんか……おまえ、すげえな」
「まあ、必要に迫られると、大概のことはできるようになるよ」
海雪は言うが、そうではないと思う。
白いダイニングテーブルに隣り合った僕らは、海雪の〝作品〟をフォークに巻きつけた。ほわんと湯気が立ち、とろんとチーズが絡まる。数種類のチーズで作ったソースはコクがあり、何がどうと問われても答えられないほど複雑な味がした。
パンチェッタの代わりにスライスベーコンを使い、白ワインなんてもったいない、と言う母さんのカルボナーラが不味いとは思わない。家族のためにそれなりの物は作っているのだから。だけど、海雪は自分のために自分で作るのだ。誰も褒めてはくれないのに。
「うめえ」
大袈裟でなくこぼれた僕のひと言に、海雪は眼を伏せる。くちびるを親指で拭い、舐める仕種は照れ隠しのようだけれど、女の子からはセクシーに見えるのだろうか。
落差が激しいよな、いろいろと、ね。
海雪は、缶に残ったコーラを氷の入ったグラスに注いだ。気の抜けたコーラは、ただの砂糖水の味がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます