第16話

「……弾く?」

 ポンポンポン……。海雪は片手で鍵盤を叩いて言った。この曲は、とてもよく知っている。ロドリーゴのギター協奏曲「アランフェス」第二楽章の冒頭部分だ。

「これの……続きを聴きたいんだ」

「……続き?」

「のんちゃんが弾いていた……あの曲が、聴きたいんだ」

「俺が弾いていた?」

「弾いていた……去年の十二月だよ。二年生の……二学期最後の日だよ。のんちゃんが音楽室で弾いていた……」

 まつ毛を伏せた海雪の横顔を見ながら、僕は瞬きの間に記憶を巻き戻した。忍び込んだ放課後の音楽室で、ピアノを弾いたのは、たった一度しかない。

 海雪の要求が理解できた途端に、かっ、と頬が火照った。海雪は、僕にチック・コリアの「スペイン」を弾け、と言ったのだ。

「ど、どうして?」

「ピアノ、弾いていたでしょ」

「……誰もいなかったのに」

「いたよ」

「うそだ、どこに?」

「バスドラの後ろ」

 くすりとくちびるを歪めた海雪の横顔を見て、〝ひとりかくれんぼ〟だと察した。音楽室の隅で群れる打楽器に混じり、海雪は〝ひとりかくれんぼ〟をしていたのだ。誰もいないと思い込んでいた音楽室で、ひとり陶酔していたことが、今になって恥ずかしい。

「無理かな? ……もう、弾けない?」

 海雪は赤いビロードの椅子を立つと、ピアノから二、三歩後退した。

「……いや……」

 それに促されるように、僕はピアノの前にふらふらと歩み出た。僕の指でもとろけるだろうかと、甘すぎるチョコレートに指を置く。アランフェスの冒頭がやわらかかった。少し重い鍵盤が、使い慣れた僕のピアノに似ていた。

 椅子を引いて腰を下ろす。切なく魅惑的なアダージョをいつもより感傷的に弾きたくなったのは、海雪の演奏を聴いたからだろうか。一旦、呼吸を整えてからリズムを刻み始めると、指が勝手に動き出す。椅子から浮いてしまいそうな、小刻みに上下する体を理性で抑える。

 チョコレートの泉に浸かって上気した顔を見られたくなくて、演奏を終えた僕は鍵盤を睨んだまま大きく息を吐いた。

「もう一度、聴きたかったんだ」

 いつの間にか足下に胡坐を掻いていた海雪が、僕を見上げて言った。その微笑みが気恥ずかしくて、僕はまた鍵盤を睨みつける。

「何で、黙って見てた?」

「何でかな。あの日は寒くて、雨も降り出して……もう、帰るつもりでいたのに。突然、人が入ってきたから……」

「隠れた……の?」

「ピアノ……の音が聴こえてきて、出て行くタイミングが……わからなくなった」

「同じクラスなのに?」

「……うん……誰が弾いているのかと思ったら、同じクラスの奴だった。特に目立つわけでも、騒がしいわけでもない……だけど、いつも周りに人がいて、いつも楽しそうな……」

 海雪は、眼も鼻もくちも、崩れて落ちてしまいそうな顔をして言う。僕は、うっかり鍵盤から眼を離したことを後悔した。

「のんちゃんのピアノは、まるで校舎の窓を叩く雨のようだった。徐々に邪魔な椅子を後ろに追いやって、中腰から……最後は立ち上がって弾いたんだ。眼が、耳が、離せなかった」

「……うそつけ」

「嘘じゃない。だから、あの後で図書室まで追いかけたんだ。知りたくて、アランフェス協奏曲を冒頭に置いた、あの曲の名前を……。でも……何と言って声をかければいいのかがわからなくて……。偶然、図書室で会ったように振る舞おうか……それで上手く話せたら……とか……そんなことを考えているうちに、のんちゃんは上着のフードを被って、走って行ってしまったから……せめて、傘ぐらい貸すことができたらよかったのに……」

 海雪は床の上で膝を抱き寄せ、大きな体を縮ませる。沈黙が積もっていく。どうしよう、どうしようと仕方なく、僕はまたチョコレートの鍵盤をポロンと叩く。沈黙の空気は重い。

「……それ、知っている。ゴンチチだ」

 優しいメロディーが床に溜まった空気の上を這ったけれど、「放課後の音楽室」は思ったよりも短い曲だった。

「俺、少しでものんちゃんと話がしたかったんだ。でも、方法がわからなくて……。そうしたら、のんちゃんの方から友達になってくれた、修学旅行のときに……嬉しかった。嬉しくて、神様っているのかもしれないって思った」

 沈黙は重いのではなく、痛いのかもしれない。秘めた言葉は、呑み込むことも吐き出すことも苦痛でしかないから。

 きっと僕は、幾つかのヒントから、答えを導き出せたはずだった。メロンパンやシュークリームのときのように、小さな驚愕が一瞬にして心を凍らせても、冗談で場を切り抜けられるほど、あの日は、海雪も僕も笑ってはいなかったのだから。

「傍にいられるだけでよかったんだ、本当は。それなのに、のんちゃんは誰にでも優しいから……それが嫌で……」

「……もう……いいよ」

「怒らせるつもりはなかった。でも、時間は戻せない。だから、全部リセットしたかったんだ。あんな……馬鹿なことをして、のんちゃんを怒らせる前に戻りたかった。いいや、それよりも、ずっと前に……音楽室に隠れて、のんちゃんのピアノを聴く前に戻りたかった。何も知らない、ただのクラスメイトならよかった……だけど、もう遅いね。悪いのは全部、俺。せっかくできた友人関係を壊した俺が悪い。それなのに逢いたい。のんちゃんに逢いたい。逢いたくて……俺……」

「もう、いいってば……」

「俺は、あの日の音楽室で……」

「海雪……」

「あの日の音楽室で……恋におちました」

 体が痺れた。予想していた答えに、想像を超える震えを覚える。海雪は大きな深呼吸をした。

「ごめん、また困らせてる。でも、もういいんだ……もう、忘れて。今言ったこと、全部忘れて。今後一切のんちゃんには近づかないから……ピアノを聴けたから……だから……」

 海雪は努めて笑顔を見せる。僕は、自分を責める一方で、ふわふわと酔いしれていた。最低だ。

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