第15話
「気分が悪いなら話は今度にするけど……」
自転車の前輪に眼を落した海雪は言った。
「いや、大丈夫」
僕はできるだけ感情を抑えた声で応えると自転車にまたがった。せっかく最寄り駅まで戻ってきたというのに、今更「帰れ」と言うつもりなのか。
行き先も告げずに踏切へと向かう海雪の後を追った。駅前の商店街を通り抜け緩い下り坂を走る。狭い農道へ入ると、とうもろこし畑が緑の壁を作っていた。そこから黄金色の甲虫が飛び出して、海雪の背中に留まる。
長い橋に差し掛かったところで、川から風が吹いた。強い風だ。一瞬で飛ばされた甲虫が、後ろを走る僕に向かってくる。頭を下げてやり過ごす。
橋を降り、川の流れに沿う。僕がついて来ていると確信しているのか、それともついて来なくてもいいと思っているのか、海雪はスピードを緩めずにペダルを踏む。
堤を下りると住宅地が拓けた。立ち並ぶ家のどれもが洒落た外観を誇らしげに競っている。海雪は、立派な三階建ての前でブレーキをかけた。
屋根と窓枠が若草色に統一された白い壁を見上げると、門扉の横に建てられた青銅色の郵便受けに、小さな妖精がちょこんと座っていた。まるで、土建屋さんが年末に配る、カレンダーのような家だった。
「綺麗な家だな」
僕はこっそりと呟いたのに、
「二人暮らしには広すぎるんだけどね」
と、若草色の門扉を開けた海雪はリュックサックからキーケースを取り出した。
家の扉を開くと冷たい空気が足下から上がってくる。正面に階段があり、左側にステンドグラス風の扉があった。海雪はステンドグラスの扉を開くと、レースカーテンの引かれた窓へすたすたと歩き出す。風が木の葉をゆらす音しか聞こえない家の中で、カーテンを開く音が耳障りだった。
「入って」
海雪が振り返る。
「……失礼します」
と言った後で、「おじゃまします」の方がよかったかな、と思いながら僕は靴を脱いだ。
開かれたカーテンの向こう側では、大きな窓を席巻するように何種類ものつるバラが咲き誇っていた。まるで、造園屋さんが年末に配る、カレンダーのような庭だった。
「適当に座っていてよ」
海雪はエアコンのスイッチを入れると、すぐに部屋から出て行った。開けたままの扉から、階段を上る音がとんとんと聞こえる。
一枚の絵画のような、庭が写り込んだ窓の手前に、ベッドがあった。さっきまで海雪が肩に掛けていたリュックと、ノートパソコンと、丸まった肌掛けが無造作に投げ出されている。
ベッドの向かいにある扉は、多分、作り付けのクローゼット。そこにモップが立て掛けられているということは……自分で掃除をするのか。
ベッドの横では、松脂の匂いがする古い机の上で教科書が積み重なり、電気スタンドが首を垂れていた。机と並ぶ書棚には、書店でかけてくれる紙のカバーで被われた、ひと目で古いと感じられる文庫本が、仕切り板の透き間までぎっしりと積まれていたけれど、上段の一角だけに異質の物が幾つか置かれていた。
硝子瓶だった。父さんのような大人の男が使う、化粧品の瓶だ。どれも使いかけで、プラスチックの蓋が黄ばんでいる物や、中の液体が分離している物もある。
「古いだろ。親父の本だから」
背中に投げられた声に振り向いた。書棚を覗き込んでいた僕と、部屋の入り口に立つ海雪の視線が無愛想にぶつかった。
「うん……なんとか……ひろく、だっけ……前に、海雪が読んでいた本……」
「むすびのやまひろく?」
海雪はコーラの缶を投げて言った。緩めたネクタイの奥に指を引っ掛け、ボタンを外したワイシャツの襟を扇ぎながら、コーラをキャッチした僕の背中から、肩越しに書棚の硝子扉に手を伸ばす。鼻先に触れた香りが、書棚から漂ったのか、海雪から漂ったのかが判らなかった。
海雪は一番上に置かれた文庫本を手に取り表紙をめくった。産霊山秘録。
「読めねえよ」
「半村良、面白いよ、読む?」
「……いや」
バタンと書棚の扉を閉じると、今度は湿った紙の臭いが鼻をかすめた。
「座れば」
僕は顎をしゃくって示されたベッドの縁に腰掛けた。キャスター付き学習椅子を引き寄せ、背もたれを抱くようにまたがった海雪は、缶コーラを開ける。
「ここって、海雪の部屋?」
「そう」
「広い部屋だな。こんなに大きなベッド、俺の部屋には入らない」
「うち、完全二世帯住宅っていうやつなんだ。一階には台所も風呂もトイレもある。全部、俺ひとりで使っている」
喉を鳴らした海雪は、缶を持つ手で人差し指を立てると、僕の缶コーラを指差した。
「羨ましいな」
そう言って、僕は缶を開ける。駅から十五分ほどのサイクリングで搾り出した、汗を補うようなコーラの喉越しが、ひりひり痛く快い。
「本当は三階の予定だったんだ。もっと小ぢんまりした子供部屋。この部屋は、じいちゃんとばあちゃんが住む予定だったらしいけど、間に合わなかったみたいだ。親父もね、六年前に逝っちゃって……だから、今は母親と二人暮らし。もったいないだろう、部屋、余ってんだぞ」
父親のリハビリで、何か介護に関わること……確か、歩かせ方を覚えたと、以前聞いたことがある。あれは、そういうことだったのか。だけど海雪。それは、笑いながら言うことなのか、それとも、そのくらい昔の事ということなのか。
「お姉さんがいるって、言ってなかった?」
「ひとまわり離れた姉ちゃんがいるけど、結婚して地方で暮らしている」
少しづつ解ってくる。もっと知りたいと、コーラの泡のようにシュワシュワ湧いてくる。けれども僕は、そのために来たわけじゃない。「ふうん……」と真っ直ぐに海雪の眼を見る。海雪は眼を逸らすように頭を垂れると、前髪を掻きむしった。少しの間、黙り、決心したように深呼吸する。
やがて、椅子を立った海雪は、隣室に続くと思われる引き戸をつるつると開けた。高齢者向けにあつらえてある引き戸は足下にレールが無く、まるでベッドルームと隣室をひと続きの広い部屋のように見せた。
銀色に光るシステムキッチンの在る、隣室は台所だった。それなのに、僕の眼は釘付けになる。冷蔵庫もなければ、食器も調理器具もない台所の中心に……。
海雪は突っ立った僕に少しだけ横顔を見せると、やわらかくくちの端を緩めた。ダイニングテーブルの代わりに台所で艶々と輝く、チョコレート色したグランドピアノの前で……。
海雪は大きなチョコレートの前に座り、蓋を開けると、たっぷり息を吸い込んで胸を張った。次に猫背になり、その息を吐き出すように指を置く。そして、水の上をゆったり浮かんでいた指で、鍵盤を叩く。
ドビュッシーの「夢想」は幻想的ではあるけれど、そこまでドラマチックだっただろうか。悪く言えばクサイ演奏。でも、僕は嫌いじゃない。十人の妖精が鍵盤の上で踊る度、胸の奥がくすぐられるようだ。
最後のピアノピアニッシモの余韻が全て響き終えたとき、海雪は彫刻のように固まっていた首を傾げ、眼を伏せた。
「この曲、どう? 知っている?」
「え? あ……うん、好きな曲だ。上手いね」
何かを忘れかけている。僕は、何をするために、ここまで来たのだろうか。
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