第14話

 遊園地は楽しかったんだ……多分。たった一日で肌もずいぶん黒くなった。

 大声で騒ぐ日灼けした子供たちが、引率している大人に叱られているのを電車の中で見た。疲れた様子で互いに肩を借り、居眠りする若い男女も居る。

 休日の思い出を乗せた車内で、僕は海雪へのアプローチを測る。溶けることのない黒い煤が、僕の底に沈降していたけれど、華絵や璃央に嫌な思いをさせたくないのも確かなことだ。

 駅に着くと、ドア横に立っていた海雪が真っ先に電車を降り、その後をこんがり灼けた子供たちが出て行った。少し距離を置いて僕は後を追う。足早に改札口を抜けようとする海雪へ、「ちょっと待てよ」とテレパシーを送る。振り返らない……当たり前、か。

 陽の落ちた薄暗い駐輪場で、海雪はガチャガチャとハンドルをゆさぶって自転車を取り出そうとしていた。こういうことは、焦れば焦る分だけ上手くいかないんだぜ。整然と並ぶ自転車を倒さないように掻き分けた僕は、駐輪場を出ようとする海雪の前に立った。

「おまえ卑怯だな、着拒とか……俺をどこまで無視すんだ」

 自転車のハンドルを押さえた高圧的な僕の態度に、海雪は顔を上げず、やっと絞り出したかすれ声で答える。

「……放せよ」

「嫌だね、言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」

「鮎川、頼むから……」

 駐輪場に街灯が点り、何日かぶりに見た海雪の顔が青白く照らされる。くちびるがふるえるのを堪えるように、ぎっと歯を噛み、悔しさに肩を竦ませていた。思わず頭上を見上げた僕が、明かりに眼をほそめ、ちっ、と舌打ちした隙に、海雪は強引に自転車を押す。

 止めてあった自転車に当たり、倒れそうになったので、咄嗟にサドルを掴んだ僕は、走り去る海雪を眼で追いながら、「逃げるな」と、心で叫んだ。



 


質問の意味さえ解らぬまま、解けない問題を前にして、苛立ちが募った。

 なんだ、なんだ、な、ん、だ。

 一晩中考えても答えは出なかった。訊いてやる。絶対、訊いてやる。昨日の態度は何だ。ごめん、って何だ。

 朝陽と共に僕のイライラも上昇する。ラッシュアワーなんか、屁でもない。

 そして、いつもの満員電車に詰め込まれようとしていた。スポーツバッグを肩から下ろし、列の最後に背中を押し込む。

 閉まりかけた電車のドアに、走ってきた勢いで飛び乗ってくる奴がいた。そいつがドアに挟まれた荷物を無理に引っ張り込むと、駆け込み乗車を注意するアナウンスが流れた。

 畜生、朝から気分が悪い。こいつに圧迫された心臓が、周りに聞こえるくらいの音をたてる。ドク、ドク、ドク……

 暑さと興奮のせいなのか、くらくらと脳みそがゆれ、噴き出した汗が顔を覆う。内臓がくちから出てきそう。

 いつもの場所で電車がゆれる。浅い呼吸を繰り返し、僕はこいつの肩に顔を埋めた。

「大丈夫?」

 額を擦りつけて、こくりと返事する。ワイシャツに残る微かな柔軟剤の奥で、柑橘類と汗の交じった海雪の匂いがした。

 電車のドアが開いた途端、押し寄せる人波に呑まれぬよう僕の肩を抱いた海雪は、ホームの端にボスンと荷物を放った。僕は、まるでゴール直後のマラソンランナーのように、よろよろとしゃがみ込む。

「ちょっと待っていて」

 海雪の声が遠い。周り全てがぐるぐる回る。膝を抱えて両脚の間に顔を挟む。

 冷たい物が額に押し当てられて眼を開く。脚の透き間から、細くて長い指がカシッと音をたてるのが見えた。くちびるに触れたスポーツドリンクの缶がたまらなく気持ちよくて、海雪の手からひとくち飲んだ。

 途端、喉に落ちる感覚を体中が欲求する。海雪から缶を奪い、大きな音で喉を鳴らした。はあ、と息をつくと、僕の顔を覗き込む海雪の頬がピンク色に染まっていた。昨日、日灼けしたんだな。ずっと木陰にいたくせに。

「……学校は?」

 と尋ねると、海雪は、「うん」とだけ答え、僕の隣に座り込んだ。

「遅刻だよ?」

 と言うと、また、「うん」とだけ言った。

「俺、今まで皆勤だったんだ」

 と言うと、「偉いな」と言った。

「遅刻したから台無しだ」

 と言うと、今度はこちらを見た。

「遅刻は駄目なの?」

「遅刻は駄目」

 溜め息をついた僕に、「残念だな」と言った。

 それから、幾本もの電車が通り過ぎた。

 向かいのホームから、僕らを怪訝そうに見ている駅員がいた。やおら立ち上がった僕は、尻の埃をはたき、バッグを肩にかけた。大丈夫、ちゃんと立って歩けるから、あなたの仕事を増やしたりしないから。

「学校……行くの?」

 尋ねる海雪に、僕はかぶりをふって歩き始めた。最低の気分から、なんとか回復した僕の後ろを、海雪は当然のようについて歩く。いつも駆け上がる階段を通り過ぎ、自動販売機の回収ボックスに缶を投げ入れる。

「海雪は行かないの?」

 カシャンとアルミ缶のぶつかる音がすると、くちの中に残ったスポーツドリンクの甘酸っぱさがよみがえる。

 黙ったままで、ズルイ奴。あからさまに無視しておきながら厚意の押し売りをするなんて、これでは、こっちだって、言いたいことが言えなくなる。

「もう平気だから、ありがとう」

 そう言って、僕は上り階段に向かった。

「待って」

 自動販売機に取り残された海雪の声が聞こえた。僕は、上ろうとしていた階段の手前で、不意に、横のエスカレーターに足を掛けた。

「俺、言わなくちゃいけないことがある」

 追ってきた海雪が階段を上りながら、エスカレーターに乗った僕の横から話しかける。

「ゆうべ、ずっと考えていたんだ。だから今日、あの電車に乗った。ちゃんと話すから……のんちゃん、聞いてる?」

 ひたすら語る海雪の眼差しが小気味いい。間違いなく僕は今、海雪より優位に立っている。

「聞いてるよ」

 エスカレーターを追い越して階段を上り切った海雪が、今度は僕の前を歩く。時折り振り向いては、ついて来ているのかを確かめながら。

 帰りを待っていたかのように、僕らが乗ったと同時に、電車はドアを閉じた。がら空きの車内で、ドアにもたれた海雪は、向かい合って立つ僕をちらりとも見ない。流れる景色をただぼんやりと眺める瞳が、小刻みに左右していた。

 

 

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