第13話

 夏が来るのを待ち望んでいた人々の目的は、堂々と肌をさらけ出し水の傍に居ることだ。けれど、水遊びを楽しんでいた女の子たちと、それを眺めていた僕らは、太陽の下で裸でいることに飽きてしまった。シャワーを浴びて服を身に着ける。

「せーんぱい、マスタードつけるう?」

「つけるう」

 星野はのカウンターに置かれた、ふたつのホットドッグの片方だけに、ためらいなく一気に黄色い線を引いた。

 昼時だというのに、屋台の並ぶアーケードは閑散としていた。プールを中心に山を切り拓いて造られた遊園地は、起伏に富み、遊具から遊具への移動に時間がかかった。元より一年中営業しているプールが売りの遊園地だ。プール内だけなら料金も安いし、水着のまま利用できる屋台や売店も充実している。こんな猛暑に、歩くだけで体力を消耗する屋外の遊具に、わざわざ乗ろうと言う客が少ないのも頷ける。

「あの、えっと……その節は……ありがとうございましたあ」

「どういたしましてえ」

 意識して上げた気分を維持するために、倦怠感で減らない腹の中にホットドッグを詰め込む僕に、星野は冗談めいて言った。故意にふざけた口調で僕も返す。歩きながらかじったジャンボソーセージの肉汁が、ブチッと音をたてて鼻先に飛び散った。

「クッキー美味しかったって言ってくれました」

「よかったね」

 僕には、まったく味の記憶が残っていないのだけれど……。

「綾瀬先輩って、優しいんですよ」

 星野は、アーケード内に造られた、幼児向けの遊具を見ながら言う。小さな池の中で、白髪交じりの男性を乗せたカエル型の遊具が、ゆっくりぷかぷか浮かんでいる。この上なく幸せそうに笑いながら、家族の構えたビデオカメラにピースサインを送る彼の隣では、小さな男の子が不機嫌に眉を寄せていた。

「あのね……初めて綾瀬先輩たちと一緒にカラオケに行った帰りのことなんですけど……駅前の横断歩道に、コロコロっていうか……ああ、そう、手押し車……手押し車を押したおばあちゃんが歩いていたんです」

 毎日歩いている、あの横断歩道のことだ。駅前の広い道路を横切る長い横断歩道は、〝とおりゃんせ〟が鳴っている時間が短くて、僕はずっと不親切だと思っていた。あれでは、視覚障害のある歩行者が、渡り切る前に曲が終わってしまうから。

「だけど、綾瀬先輩ったら、そのおばあちゃんの後ろをとてもゆっくり歩くんですよね。信号が点滅しているのに」

 最近になって、より聞き取りやすいのか、ピヨピヨという鳥の声に替わったけれど、鳴っている時間が変わったとは思えなかった。

「交通量が多くて、停まっている車の運転手もイライラしているんじゃないかと思ったり……璃央先輩も華絵先輩もひやひやしているのに、赤信号になっても、まだ歩いているんですよ。それも、すごーく……ゆっくり」

 星野は、腰の曲がった老女の真似をしてから、その後ろを歩く海雪の姿を再現して見せた。

「心配だったんじゃない? よほど、よぼよぼしていたのかな?」

「そう。歩き方が危なっかしくて……」

 こんな歩き方だったと、地面からほとんど足を上げず、小さな歩幅でちょこちょこ歩く。

「横断歩道の終わりで、手押し車が段差に引っ掛かったのを綾瀬先輩がひょいと持ち上げたら、やっと気づいたおばあちゃんがぺこりとお辞儀して……そうしたら先輩、にこっと笑って、逃げるように速足で歩き出して……」

「……らしいね」

「そう思いますか?」

「うん」

「その笑顔が……何て言えばいいんだろう。とてもぎこちなくて、『あ、見つかっちゃった』っていう顔だったの」

 いつでも杖になれるよう、怪我した僕の傍らに立っていた、海雪の顔が脳裡を横切る。僕は何も頼まなかった。海雪は何も押し付けなかった。

 僕と星野は、メリーゴーラウンドを目指して坂を上る。

「よかった。鮎川先輩だったら、きっと、そう言うと思っていました」

「俺だったら?」

「だって、鮎川先輩と仲のいい人だったら、きっと良い人だって思っていたから」

 坂の途中、石段を下りながら、星野はタレた眼を糸のようにして、えへへ……と笑う。石段の下には、青々とした葉桜の陰に、丸くて白いガーデンテーブルが幾つも並んでいた。テーブルに囲まれたメリーゴーラウンドの前を通り過ぎるとき、これでもかという笑顔を向ける男性係員と眼が合う。ぽつんぽつんとテーブルに着く人の中に、いちごフラッペをストローの先で崩す華絵がいる。

「ほら、漫画でよくあるでしょ。心臓にキューピッドの矢が刺さった……あんな感じ」

「ドッキューン、てやつ?」

「そう、それ、その瞬間」

「海雪が笑った瞬間に、それ来たわけ?」

「はあ、恥ずかしい……。あたしの友達なんて、綾瀬先輩はカッコいいけど尖っていて怖いって、みんな言うんですよ。確かに、表情もよく読めなくて、何を考えているのか解んない所があって、あたしもちょっと怖かったけど……」

 僕たちに気づいて顔を上げた華絵に、星野は片手を挙げて応えた。

「……でも違っていた」

 華絵に駆け寄った星野は、まだひとくちもかじっていないホットドッグをテーブルに置いた。

「それ、どこで買ったの?」

「そこの屋台」

「本当? 気がつかなくて通り過ぎちゃった」

 華絵は星野が席に着く前にバッグから財布を取り出し、スキップするように石段を上って行った。空いた椅子を引き寄せた星野は、大きなひまわり柄のビニール製バッグからペットボトルを出す。

「あの日は、雨が降っていましたよね」

 雷も鳴っていた。けれど僕は、「そうだっけ」と答えた。

「ねえ先輩、綾瀬先輩の好きな人って、どんな人?」

 ペットボトルの蓋をひねって星野は言った。ホットドッグの最後のひとくちを頬張った僕が、「ふぁ?」と間抜けな声を出したとき、璃央と海雪が並んで石段を下りてくるのが見えた。短めのパンツの海雪とポニーテールの璃央が可愛らしい。ふたりの後ろから華絵が駆け下りてくる。

 突然鳴りだした、気の抜けたワルツに振り向くと、誰も乗っていないメリーゴーラウンドが動き出す。変だな、と一周するまで見ていたら、馬車の中で向かい合う男女の姿があった。いいや違う、あれは馬車なんかじゃないな。だって、おとぎの国の馬車を引いているのは、ユニコーンとマンティコアなのだから。

 テーブルに着いた華絵の持つホットドッグは、既に半分消費されていた。ガーデンチェアーにどっかりと腰を下ろした璃央は、背もたれに寄り掛かり足を組んだ。ケチャップをくちの端につけた海雪は、喋ることを拒むようにアメリカンドッグをくちいっぱい頬張っている。

 いちごフラッペがテーブルにピンクの水たまりをつくっている隣で、星野が、ふっ、と小さな溜め息をついたように聞こえた。



「信じられない、もったいないよね、入園料。せっかくフリーパス買ったのに」

 華絵はハンドタオルで顔を押さえて言う。首回りが汗できらきら光っている。

「ねえ華ちゃん、星野って知ってんの? 海雪と璃央さんのこと」

「知ってるよ」

「……そ、そうなんだ」

「何で?」

「何でって……」

 遊園地の全景が見渡せる一番の高台に設置されたジェットコースターには、噂ほどの行列はできていなかった。見上げた観覧車も空のままでゆっくりと回っている。

「のんちゃん、もしかして、詩穂ちゃんが気になるの?」

「違うよっ」

 綾瀬先輩の好きな人って、どんな人?───

 あの質問は、僕の聞き間違いだったのだろうか。

「それよりさあ、海雪ちゃんとは仲直りできそうなの?」

 華絵は言う。プールにも入らずジェットコースターにも乗らないで、ただ僕のためにここまで来たというのならば、考えてやらなくもないけれど、今日の僕らは一度も眼を合わせていないじゃないか。

 仲直りの仕方なんて教科書には載っていなかった。殴ったのは僕の方。けれども、衝動からの一方的なキスは暴力と同じだ。

「善処します」

「気のない返事」

 ジェットコースターは、はがゆいほどゆるやかにレールを昇って行く。空中を一回転する宇宙船が見えたとき、咄嗟にメリーゴーラウンドを探した。

 フレンチフライを摘まみながら長い脚を組んだ璃央は、仕方なく子供の遊びに付き合う母親のような顔をして、「いってらっしゃい」と言っていた。海雪は、スナック菓子を食べることで忙しいように、落ち着きなくくちを動かしていた。ふたりの正面に座る星野は、にっこり笑って僕と華絵に手をふっていた。今頃、あの三人で何を話しているだろう。

 ジェットコースターが頂点に達したとき、探していたメリーゴーラウンドが見えた。見えた途端に消えた。内臓を刺激されて、僕は堕ちていった。



  

 

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