第11話

「のんちゃんからの誕生日プレゼントかと思った」

 海雪は溜め息交じりに言った。膝の上にはメッセージカードが広げられている。何が書かれているのかは暗くてよく見えなかったし、見るつもりもなかった。

「誕生日? 今日が?」

 雨が激しく降る。ばらばらと鉄の扉に当たっては跳ね返る矢のようにうるさい。扉を背にして階段に腰掛けたせいで、いつもより海雪の声が聞き取りにくかった。

「そう」

「おまえ嘘ついたな。俺には、雪の降る日に生まれた、って言った」

「言ったかな? ああ、そんなこと誰かに言ったかもしれない……答えるのが面倒で……。あれって、のんちゃんに言ったの?」

 うつむいた表情は見て取れなかった。けれど海雪は、まるで他人事のように言う。憶えていないことに、別段ショックは受けなかった。

「俺だよ」

「そうだったんだ……名前はさ、親父がつけたんだ。海が好きだったから……海雪は……マリンスノーのことだよ」

 マリンスノー……。太陽が届かない闇の世界で、雪のように静かに沈む、生き物たちの抜け殻。

「海雪はプランクトンだったのか」

「見も蓋もないな」

 素っ気なく返した海雪は、紙バッグから透明な箱を取り出し、銀色のリボンを解いた。甘い香りが漂う。

「ねえ、のんちゃん」

「うん?」

 一瞬の隙を衝いて、僕のくちに何かが放り込まれた。甘い。唾液が全部吸い取られそうだ。

「海雪がもらったんだろ、自分で食えよ」

「毒味」

「ひっでえの……」

 少し咽た。クッキーのカスがくちから飛び出す。

「あげるよ」

 ぽんっと、箱ごと僕の膝に置く。

「冗談。海雪にって頼まれたのに」

 海雪の膝に、ぽんっと返す。

「もらってこなけりゃよかったのに……こんなもの」

「こんなものって……華ちゃんのは食うくせに」

「あれとこれとは違う」

「同じだろ」

「違う……如才ないんだな」

 海雪の声が狭い空間で澱んだ。

「どういう意味だよ」

「お人好しと言えば少しは聞こえがいいんだろうけど、俺から見れば八方美人。損をしないじゃない。親切なふりして上手く立ち回っている」

 冗談には聞こえなかった。何も言い返せないうちに、

「のんちゃんは、誰にも嫌われたくないんじゃないの?」

 隠れていた棘に一番大事なところを刺された。屋上から、階段から、海雪に落とされたときよりも、今の言葉が、僕を真っ暗な奥底に突き落す。けれども僕は、海雪にそれを言わせるほどの何をしたというのだ。

「わるかったな」

 ようやっとそれだけ言うと、僕は腰を上げた。立ち去るつもりでいたのに、片腕を捕られて、もう一度座り直される。枝のようにぎりぎりと指が食い込んだ。

「放せ」

 無理に腰を上げると、海雪は腕を掴んだまま一緒に立ち上がった。空いた手で、もう一方の腕まで掴んでくる。力任せに、僕の体を扉に圧しつける。

 細い窓から飛び込んできた稲光が、ゆっくり顔を上げた海雪を照らした。まるで獲物を捕らえた大型猛禽類のようだ。鳶色の眼が、僕の額の真ん中を射る。

 これが海雪の真実の姿なのかと、身を竦ませた瞬間、頭の尖から腹の奥までを閃光が貫いた。熱い鉛が体を垂直に流れ、ずんずんとへそで固まる感覚が襲う。海雪と鉄の扉に挟まれた僕は、身動きひとつできなかった。頭の向こうから遠雷が聞こえる。

 あるだけの力で抗い、闇雲に拳を振り回した。当たった。気持ちいいくらい、ぱしっと入ったと思うけれど、その後が判らない。

 ゴツン……。おそらく、海雪が壁にぶつかった音だろう。鈍く、いつまでも響く。

 煮えたぎった血液が体中を走り回った。治りかけの足がびりびりと痺れた。ふらついて落ちないよう、大袈裟に足を引きずって、僕は黙ったまま階段を下りた。

 くちびるに残る、海雪の熱を拭いながら……。






 僕らの時間が急速に後戻りを始めてから何日経っただろう。国語教師と同時に教室に入って来た海雪に、僕は軽蔑の眼差しで訴えることもできなくなっていた。

 席に着いた海雪を後ろからちらりと覗くと、頬杖をつくように顎を押さえ、ぷいっと窓の外を見ていた。振り向きたくて、できなくて、外を眺めるふりをしているのだろうか。

 こめかみに傷がある。壁に当たってついた傷。顎まで下降した青アザは、多分、僕の拳がつけたもの。これではまるで、僕が加害者のようじゃないか。

 腹の奥の疼きが火種となり、燻ぶり、怒りが支配する。それを鎮めるためでなく、ただ喚きたいと、何度も思った。それなのに、高い壁を築かれたのは僕の方だった。

 華絵はいつもと変わらず僕にまとわりついて、予備校のパンフレットをねだった。昼休みには食堂で、大盛りハヤシライスを頬張りながら、友人たちと、どうということもない馬鹿話をする。

 海雪がいなくても、僕の学校生活は何も変わらない。変わらないはずなのに、僅かな時間でも問題集の中に入り込もうと奮闘する僕の爪先からは、何もかもが吸収されずに流れ出ていく。

 予備校の帰りにも、疲れた自分が電車の窓に映る。不細工だな。もしも僕が海雪の容姿をしていたら、学校生活は今の何倍も楽しかったろう。

 三年一組、追試の打ち上げ決定───

 誰が追試だって? 期末考査が終わって一週間も経ってから、賑やかなことが好きな華絵からメッセージが届く。そんな集まりに海雪が来ることはないだろう。

 そして気づいた。だけど、多分、絶対、海雪は〝独り〟なのだろう……と。

 

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