第10話

 灰色の雲が幾層にも重なっていた。蒸し暑い部屋の窓を開けても爽快な気分にならないのは、外だって湿っていて暑いからだ。ベッドで腹這いになり網戸越しに外を眺めるが、一向に風が入ってくる様子はない。向かいのベランダには、いつも早朝から干されている洗濯物が掛かっていなかった。

 自転車の音を聞き逃さぬように、それとなく屋外の気配に耳を立てながら携帯画面をタップする。カチャン……。物音に、ベッドから身を乗り出す。こっそり窓から見下ろすと、海雪が約束通り自転車を届けに来ていた。

 カーテンの透き間から覗き見てインターホンが鳴るのを待つ。けれども海雪は、いつまで経っても門の前で玄関を窺っている。きょろきょろと左右を確かめた後、不意に二階を見上げたので、僕はカーテンの陰に素早く隠れた。思わず出そうな笑い声を抑えて、また、そっと窓の下を見ると、しばらく立ち竦んでいた海雪は、自転車の鍵を郵便受けに入れた。

 何をやっているのだ、あいつは。このまま徒歩で帰るつもりだろうか。僕は携帯電話をベッドに放り投げた。

「海雪」

 来た道をとぼとぼ歩き始めた海雪を呼び止めると、驚いた顔で僕を見上げる。

 手すりに掴まりながら片足でとんとん階段を下り、裸足で玄関を開けた。海雪の眼は、僕の顔を見るより先に、大袈裟に包帯で巻かれた足首に留まる。

「テスト勉強の邪魔しちゃ悪いと思って……足……大丈夫?」

「おう、〝ただの捻挫〟だから」

 ドアを開け放ち、僕が玄関の上がりに腰掛けると、海雪はためらいがちに門を開け、玄関先で咲く紫陽花の露をジーンズの裾に受け止めた。怪我の状態は、昨夜のうちから、メッセージのやり取りの中で報告したはずなのに、ドア横に立て掛けられた松葉杖が、幾千もの針となって海雪の胸を突いている。

「骨折でもしていたらどうしようか、って真剣に考えていた」

 僕の眼を見ずに、申し訳なさそうにうつむいた。

 そのときは、毎日でも送迎を頼む。と答えようとして、やめた。僕の姿を見て、ようやっと鎖から解かれたはずだ。少し安堵した拍子に、冗談でも受け入れてしまいそうに見えたから。

「学校、どうするの」

「行くさ、もちろん。テスト受けないと評価されないから、這ってでも行くよ。母親が送迎してくれるって言っているしね」

「あ、あのお母さん? のんちゃんにそっくりな」

「よく言われるんだよなあ。姉ちゃんは父親似なんだけど」

「お姉さんがいるんだ。俺と同じだ」

 決してドアの内側に足を踏み入れない海雪は、そんなどうでもいい話を少しだけすると、自転車の鍵を郵便受けから取り出して、僕のてのひらにのせた。

「自転車、届けに来ただけだから……」

 玄関を出る背中が、心なしか小さく見えた。思わず立ち上がり、閉まりかけたドアをこじ開けた僕に、軽く手を挙げた海雪は、ぎこちなく笑って門を閉じた。

 ドアに寄り掛かり、僕は、家々の透き間を埋める雨雲を見上げた。海雪が帰り着くまでに、雨が降らなければいいな、と。



 松葉杖を突く姿は皆の同情を集めた。僕は、それが嫌で仕方なかったのだが、さり気なくドアを開け、落ちた物を拾い、道を譲る誰もに助けられた。感謝されたいわけでなく、自然に体が動くのだと思う。世の中捨てたもんじゃない、なんて不自由な身になって気づかされた。

 クラスメイトの詮索に晒される覚悟もしていたけれど、「転んで捻挫」のひと言で案外さらりと受け流された。そんなことより、テストの方が大事だし……。

 あれこれ訊いてくることが予想される華絵には、こちらから先にメッセージを送った。何しろ、マフィンをもらった後に、ふたりして早退したのだから。もちろん、ちゃんとチョコレートチップマフィンの感想もきちんと伝えた。もっと甘くしたら、って。



 テスト明けの月曜日は鬱々としていた。あの目立つ松葉杖だけは早々に降板させたが、駅の階段ダッシュも十日はやっていない。せめて雨でも止んでくれれば、もう少し気分よく登校できるのに……。水たまりを避けながら溜め息をつく。

(せんぱ……い……鮎川せんぱ……い……)

 名前を呼ばれた気がして立ち止まる。黄色いチェックの傘から落ちた雨粒に振り返ると、にゅっと伸びた手がシャツの裾を掴んで引いた。

 そのまま連行された陸上部の部室は、懐かしい汗の臭いがした。少し離れていただけなのに、正直、臭すぎる。

「先輩、お願いします」

 星野詩穂は眉を八の字にして言った。もともとタレ目だから、とても困った顔に見える。いいや、まてよ、化粧でも覚えたのか。髪型でも変えたのか。どこが変化したのかは判らなかったけれど、以前と印象が違って見える。

「お願いします」

 星野は、後頭部がまる見えになるほどの前傾姿勢で、もう一度言った。

「はい……?」

「あの……あの……」

 今まで気軽に話していた星野から、身の置き所がないほどの緊張が伝わる。僕は摘まんでいた鼻から指を離した。

「あの……これを……綾瀬先輩に渡してください。お願いします」

 両手で突き出された金色の紙バッグを見て、瞬時に色々な事を理解した。別に何を期待していたわけでもないのだけれど、勝てると思っていた大会で成果が得られなかった気分だ。

 何と言っていいのか判らずにいると、顔を上げた星野の眉は八の字の間に深いしわまで刻み始める。

「渡すのは……渡すだけなら簡単だよ。でも、それでいいの? 自分で渡せばいいんじゃない」

「無理だから頼んでいるんです」

「何でよ」

「だって、まだ紹介してもらったばっかりだし……」

「璃央さんに?」

 星野はくちびるをもごもごさせて頷いた。

「だったら、俺よりも璃央さんに頼んだ方がいいんじゃねえの?」

 だって、今の状況を誰かに見られたら、確実に誤解されるじゃないか。

「死んでも嫌だ、って言われたんです」

「璃央さんが、そんなこと言ったの?」

 そりゃあ、あっちはあっちで誤解されるわけだし……。

 星野は、深いしわを刻んだ八の字の眉に、くちびるまで突き出してきた。このまま泣かれるんじゃないか、と思うほどだ。

 やがて星野は、薄暗い部室の立て付けが悪い扉を開けると、バシャバシャとスカートの裾に泥を跳ね上げて走って行った。僕の手に金色の紙バッグを押し付けて……。

 印象が違って見えたのは、化粧のせいでも、短く切った髪のせいでもなく、海雪のせいだった。 

 

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