第9話
「どうする? 迎えに来てもらう?」
養護教諭は言った。
「いいえ、歩けます」
ベッドに足を伸ばした僕は応えた。鼻腔を衝く消毒液と湿布の交じった臭いが、たまらなく気を滅入らせる。
「荷物、取ってくる」
「まだいい、授業中だから」
クラスメイトに早退の理由を知られるのが嫌で、教室に戻ろうとした海雪を引き止めた。そろりとベッドから下りて、どうにか靴が履けることに安堵する。
立ち上がろうとしたら、海雪はすぐに肘を取った。断じて故意ではなく、僕は大きくよろめいて見せる。
「家まで送っていく」
きっと、そう言うと予想していた。
「いいよ、大丈夫だから、平気」
片足を浮かせてベッドの周りを歩いて見せた。
「ほら、なんとかなりそうだし」
「応急処置だけだから、ちゃんと病院に行きなさいよ」
養護教諭はにこりともせずに言うと、くるりと椅子の背を返す。若い女性であることをことさらに意識させないよう、乾いた態度で机に向かった。名簿を開きながら、保護者に連絡した方がいいのか、と訊いてくるので、大丈夫だと断った。
「やっぱり送っていく。悪いの、俺だから」
静かに海雪は言う。
まあ、そうなんだけど……眉間にしわを寄せて、怪我した本人より辛そうな顔をするのは、わざとらしくて嫌いだ。
「このくらい、よくあることだからさ」
だけど僕は、無理して笑顔を作る。海雪が「でも……」と言いかけて、
「いいじゃない、送ってもらえば? 雨も降っているし、近所なんでしょ」
机上でペンを動かす養護教諭は、僕らの会話を白衣の後ろ姿で聞きながら、自らの意見が最も正しいのだという口調で言った。
傘を差す海雪は、ふたり分の荷物を背負っていた。
水たまりを避けることができない僕は、ぱしゃりと雨を跳ね上げる。海雪の靴が盛大に濡れているが構う余裕がない。
いつも歩いている通学路は、こんなにでこぼこしていただろうか。生まれつき二足歩行の生物なのだと今更ながら思い知ったところで、海雪の手が僕の腰周りを探り始めると、ジャケットのセンターベント辺りでベルトを握り締める。
海雪の肩に雨粒が当たってはころころと落ちていくので、体を支えてくれる代わりに傘を持とうとしたけれど、海雪は黙って離さない。持つ、持たない、のやり取りをお互いくちに出さず何度か繰り返しているうちに余計濡れてしまったけれど、引っ込みがつかなくて、結局、駅のエスカレーターまで、ふたりでひとつの柄を握り締めていた。
ホームで畳んだ傘を杖代わりに突いていたら、自分の傘をうっかり学校に置き忘れたことを思い出した。今日は金曜日だったな、失敗した。
電車に乗り込もうとすると、海雪は握っていた僕の腰ベルトをくいっと持ち上げた。足が一瞬軽くなり、ホームと電車の透き間を難なく突破する。僕らは扉横の座席に並んで座った。
「金曜日……今日、金曜日だった。予備校……」
保健室を出てから、ずっと黙っていた海雪がくちを開く。
「あ、ああ忘れていたな。親に送ってもらうから心配しなくていいよ。来週は試験週間で午前授業だし、影響ないんじゃねえの」
「ごめん……」
「いいよ。わざとやったわけじゃないんだから」
少し試すような言い方をした。意地が悪いな。自己嫌悪。
「雨、止んだみたいだぞ」
電車のゆれがカタンコトンと体に響くのを紛らわそうと、薄く色づいた車窓を見て僕は言った。
電車を降りた途端、じっとり湿った空気が不愉快ではあったけれど、すこんと抜けた青空には安堵した。
海雪は、「ちょっと、待って」と言い残し、駅前の花屋の前に僕を残すと、ふたり分の荷物を背負ったままで再び駅へと走った。しばらくぼうっとしながら、僕は所在なく、花屋と並んだコンビニの扉から出てくる男の後ろ姿を眺める。
待ちきれない様子でコンビニの袋から漫画雑誌を取り出した男が、歩き読みしながら駅の階段を上っていくのを見ていると、海雪がすれ違うようにスロープを下りてくる。シルバーの、いわゆるママチャリを押している。
「のんちゃんのチャリって、荷台がないから……。今日は俺のチャリでいいかな?」
駅を振り返って海雪は言う。つられて駅前の交番を見たけれど、念のため、花屋とコンビニの透き間に自転車を押し込んでから荷台をまたいだ。狭い抜け道から花屋の店先を振り返ると、鉢植えの黄色いミニバラがそよりと風にゆれていた。
通りに出ると、雨に濡れたアスファルトのにおいが、ぬるい風にのって体にまとわりついてくる。海雪は、自宅と正反対の方向にペダルを踏んだ。
数年前に大型ショッピングモールが建ったので、畑ばかりの静かだった町が、いつの間にか賑やかになったと、知ったようなくちぶりで会話する。海雪はタクシー運転手のように、僕の道案内通りスムーズに自転車を走らせた。お巡りさんに見つからないよう、できるだけ狭い住宅地の路地を選ぶ。
「ここでいいの?」
海雪の自転車がブレーキの音をたてたと同時に玄関のドアが勢いよく開いた。顔を出した母さんは、予定外の息子の帰宅に、一瞬、はっと息を呑んだように見えた。
「何、どうしたの? 早いじゃない」
「あ、いや……うん」
ぽかんとくちを開ける母さんに、どこから説明しようかと悩んでいると、海雪が自転車から降りた。
「すみません。僕が鮎川君に……」
「転んだ。学校の階段で転んだ。綾瀬に送ってもらったんだ」
海雪を遮って適当に理由を言った。いちいち面倒だった。親に説明することも、海雪が頭を下げるのを見ることも。だけど、嘘は言っていない。「な?」と、海雪に同意を求める。
母さんが深く理由を訊かないことは判っていた。男の子だから喧嘩のひとつふたつはするだろうと、小さな頃からよく言っていたのだ。部活動で怪我をしても大事にしないので、ずいぶん気が楽だった。
「ありがとう、わるいわね」
「い、いえ、あの……先生が、病院に行った方がいいと……」
同意の「な?」に、「はい」とも「いいえ」ともとれる表情をした海雪が言うと、僕の足元に屈み込んだ母さんは足首をそっと撫で上げた。
「……そうね」
「それで、あの、自転車を駅の駐輪場に置いたままで……」
「じゃあ、後で私が取りに行くわ」
「い、いいえ……明日……明日、届けます。鮎川、鍵貸してくれる?」
海雪は僕の自転車の鍵をポケットに入れると、僕を乗せていたときよりもずっと軽やかに勢いよくペダルを踏んだ。
「じゃあ、また」
路地の角に、後ろ姿が消える寸前だった。
「海雪」
僕は叫んだ。
「ありがとうな」
海雪はちょっと止まって手をふった。
「じゃ、保険証持ってこなくっちゃね。いつものヤブ医者でいいよね」
「うん」
ヤブ医者じゃなくて、矢部整形外科なんだけどね。
「みゆき君っていうんだ。可愛い名前ね。女の子みたい」
なぜか、さっきまで持っていた買い物用マイバッグを小振りなハンドバッグに取り替えて再び玄関を出た母さんは、そう言って車のドアを開けた。
「……俺も、最初は女だと思った」
助手席に乗り込んだ僕は、海雪が消えていった生垣をぼんやりと眺めて言った。
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