第8話

 雨が続いていた。

 食堂を見渡した僕は空いたテーブルを見つけた。どんぶりの汁がこぼれないよう、慎重に歩いていたせいで、別の奴に席を取られる。他に空いた所はないかと足を止めると、運よく眼の前の奴が席を立った。

「ねえ、のんちゃん、海雪ちゃんは?」

 大盛りのうどんをあらかた食べ終え、どんぶりを持ち上げた僕とテーブルをはさんだ華絵は、眼玉をくりくりさせてすとんと座る。

「知らねえ」

「一緒じゃないの?」

 華絵の背後に立つ璃央が腕組みして、スープをすする僕を見下ろしている。

「いつも昼休みにふたりして消えちゃうから、てっきり食堂にいるんだと思っていた」

 華絵は、どことなく不満げにくちを尖らせる。

 海雪は教室よりも更に混雑しているうえ、学年も違う生徒が集うのが苦手らしく、いくら誘っても食堂には来なかった。こんな雨では屋上なんか出られないのに、ひとりになれる場所を学内でどれくらい確保しているのか、ちゃんと飯を食っているのかとも思う。

「はい、これ試作品」

 華絵は茶色い紙袋をどんぶりの前でゆすゆすとゆすってみせる。

「試作品? 何の?」

 どんぶりを置いて尋ねる。

「文化祭の試作品」

「文化祭に決まってんでしょ」

 華絵と璃央が同時に言う。

「何も聞いていないんだね。うちのクラス、カフェをやることになったの知っているでしょ」

「カフェ?」

 定期考査と夏休みが明けた後のイベントについて、僕はすっかり忘れていたのではなく、最初からさっぱり頭に入れていなかったらしい。璃央の叱るような口調から、文化祭でお茶と一緒に提供するお菓子の試作品だと理解する。

「ふうん、華ちゃん、お菓子作り得意だからいいんじゃない……で、璃央さんは何すんの?」

 適当に話を合わせ、あたかも興味がありそうな顔をして、僕は袋の中を覗く。

「あたし? あたしは総合プロデュースかな」

 袋の中にはチョコレートチップマフィンがふたつ入っていた。

「クッキーでしょ、マフィンでしょ、あと、ホットドッグにクロックムッシュ……」

「華絵、あたしでも作れそうなものにしてよ。あ、ほら、鮎川も何か考えなよ」

「え、俺?」

 考えるふりをして壁に掛かった時計を見る。

「とりあえず、それの感想は聞かせてよね」

 華絵は紙袋をつんっと指先で突っつくと席を立った。ふたりが食堂を出て行くのをしっかり見届けてから、僕はもう一度壁に眼を移す。

 急いでスープを飲み干してどんぶりを片付けると、食堂を飛び出す。階段を蹴り上げて三階まで走る。思った通り、斜めに降る雨のせいで、渡り廊下には誰の姿も見られない。少し濡れたけれども、僕は華絵にも璃央にも気づかれず、教室に戻ることができた。

 教室の窓際で、ひとり頬杖をつき、音楽に身を委ねている海雪がいる。後ろから、とんっ、と肩をつつくと、その指で僕は天井を指差した。誰にも知られぬように、上に行こうという合図を見た海雪が、犯罪者の顔になる。



 僕らは重い鉄の扉を背にして腰を下ろした。陽の射さない階段室は暗く、扉を叩く雨の音が背中から響いてくる。

「試作品だってさ、華ちゃんの手作りマフィン」

「何? 何の試作品だって?」

「文化祭のカフェ」

「カフェ? そんなことやんの?」

海雪は、薄暗い中で確かめるようにマフィンを嗅いで言う。ほら、海雪だって知らないじゃん。

「華ちゃんってさあ……好きなのかな、のんちゃんのこと」

「へ?」

 一瞬、言葉の意味が解らなかった。

「違うだろ。俺には、海雪に対してアピールしているように見える。〝アタシお菓子が作れるのよ〟的な女子力アピール」

「そうかなあ……」

「だってさあ、華ちゃんがくれるお菓子って、いつも海雪の分もあるじゃん」

「でも、のんちゃんに手渡すじゃん」

「そりゃあ、おまえ、直接じゃ渡しにくいんじゃねえの」

 僅かだけれど、答えの解っていることを訊いてくる海雪に腹が立った。海雪の引き立て役でしかないことくらい、僕だって判っているのだ。

「違うと思うんだけどなあ……ああ……もうちょい甘い方がいいかな、これ」

 ぽろぽろとマフィンのカスをこぼして海雪は言った。実のところ、バニラとチョコの香りをカビ臭さが邪魔して、僕にはよく判らない味だった。

「それじゃあ甘すぎない? だいたい、海雪って甘いの好きすぎるよ。俺、ティラミスとバニラシェイクを同時に食ってる奴って初めて見たぞ」

「最強の組み合わせじゃん」

「あと、アンパンつぶして、中にポテチ挟んで食うやつも」

「やってみ? 甘じょっぱくて超美味いから」

 下校途中に寄ったゲームセンターの話をしていると予鈴が鳴った。腰を上げてマフィンの食べカスを掃う。細い窓から見える景色が灰色に染まっていた。よく降るな。

 階段を下りようと足を踏み出した。その瞬間、背中に衝撃を覚える。次に踏み出すはずの足が宙に浮く。上手く体制が整えられなくて、浮いた足が階段の角にくにゃりと曲がってぶつかる。

 海雪が僕の名前を叫んだ。埃とマフィンの食べカスに足を引っ張られるように、僕の体は階段の下まで滑り落ちる。

「のんちゃん、ごめん、ごめん、ごめん……」

 海雪が駆け寄る。階段を踏み外したのは、僕ではなくて海雪の方らしい。転びかけて、僕の背中に手を着いたのだと言った。けれども、僕の背中は海雪の手の痕しか憶えていなかった。

 足首がじんじんと脈打ち、ずり上がった制服の裾から覗く脛に、いくつもの赤い線が滲む。立ち上がろうとして立てなくて、またへたり込んだ僕は、吸い込んだ息をようやく吐き出す。

「いっ……てえ……」

「大丈夫? どこ、どこが痛い?」

 大丈夫かどうかなんて、見れば判るだろう? 痛いのは右足だ。それと、胸の辺りも……。

 片足で立とうとしたら、海雪が僕の正面に屈み込む。両脇に腕を差し込み体をしっかり抱きしめると、まるで大きなマリオネットのように、僕をひょいと立たせた。

「どう?」

 側頭部に海雪の声が響く。

「他に痛い所ない?」

「うん……どうしよう……」

 こんな所にいるのが見つかったら、きっと先生に怒られる。それ以前に、まるで抱き合っているような姿を見られたくない。

「保健室まで歩けそう?」

 今の僕が頼れるのは海雪しかいない。

「やってみる」

 海雪は背中にまわした手を緩めると、僕の片側に立った。脇の下を片手で支え、もう片方の手でてのひらを支える。フォークダンスでも始まりそうな恰好だ。支えられた腕に体重を預けると、海雪は僕の手を思いっきり握り返してくる。

「上手いね、介助」

 長身だけれど、それほど力持ちには見えない海雪が、僕を易々と扱う。

「親父のリハビリに何度も付き合ったことがあるんだ。そのときに覚えた」

 ああ、今度、その話を聞かせて。今は、もう、午後の授業が始まってしまったから。

 今頃、冗談ばかり言う生物教師が、僕のいないことなど問題にもせず、

「女には流れ星は見えないんだ。なぜなら、女にはロマンがないからさ」

 などと言いながら、冷めた女子生徒の前で、蒸し暑いのに白衣の襟を立てて哀愁漂うコート姿の男を演じていたりするのだろう。どう贔屓目に見ても、小太りの中年男にしか見えないのだけれど。

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