第5話 

 駅前のコンビニエンスストアーは人であふれていた。いつもより早く家を出て正解だったと幾分ほっとしながら、目移りするほど種類豊富なパンが並ぶ棚に手を伸ばす。同時に他人の手が伸びてきて同じ商品に触れたので、また同時に引っ込める。同じ商品が棚の奥に並んでいることはわかっていたので、僕が先に手前の物を取ると、

「運命とか?」

 肩越しに伸びた手から聞き知った声がした。

 コンビニの袋をバッグに押し込んで駅の階段を上りながら、なぜ今まで会うことがなかったのかと、季節ごとの通学風景を回想した。

「海雪の家、近いの?」

「南口からチャリで十五分くらい」

「けっこうな距離だな。ってことは南中か」

 ホームに下りると同時に電車が来る。

 僕は急ぎ足で最後尾まで行くと、満員電車に体をねじ込んだ。思い切りねじ込んでひとり分のスペースを確保すると、リュックサックを前に抱え直した海雪は、そこにどうにか収まった。

「ねえ、マジで毎朝これ乗ってんの。一本遅らせなよ、空いてるよ」

「だから、海雪は毎日遅刻ぎりぎりなんだよ。そっちこそ一本前にすりゃあいいじゃん」

 これまで無遅刻無欠席の僕は、不満げな海雪へ自信満々に返す。

「知ってる? このドア、ちょうど階段の下に着くんだぜ」

 電車のドアに張り付いて、わざわざ最後尾に乗る理由を言う。

「それ、エスカレーターのない階段じゃん」

「そこがいいんだって」

 この先、電車がゆれますのでご注意ください───と、車内アナウンスが流れた直後、海雪の肩にぎゅうと押し付けられたと思ったら、今度は乗客が一斉に逆方向に偏った。電車のドアから引き剥がされた僕の体は、途端に後ろへ引っ張られる。海雪は、咄嗟に僕の背中へ手をまわし、シャツを掴んで引き寄せた。

「わるい」

 いくらか後ろにいる乗客に気を遣えたかもしれないと思ったけれど、団子状態で偏った乗客は、また押し戻る。息をするのもやっとの混雑状態で、海雪の手も挟まれたままだった。早くも冷房を効かせた車内で、背中の一部だけが熱くなる。ふうっ、と鼻で息をすると、柑橘類の香りがほんのりと漂った。

 しまった。出遅れた。

 指で押された枝豆のように、僕は電車の扉から弾き出された。背後から寄せる人波に呑まれぬよう、眼の前の階段を全速力で駆け上がる。止まらない人の流れを縫って、するすると改札口を出た。

 振り返ると、数えきれない顔がある。その顔を大雑把に舐めてみるけれど、海雪の顔だけが見つからない。

「はあ……びっくりしたあ……何で走ってくの……この時間なら余裕なんでしょ」

 後ろから、たくし上げたワイシャツの袖を引っ張られて振り返る。

「ごめん、つい習慣で……。あの階段、先頭で上り切りたいんだ。ただの、ちょっとしたゲームで……」

 激しい鼻息の下、玉になった汗を拳で拭う海雪の困惑顔を見ながら、僕は正直ほっとしていた。海雪の方から、僕を見つけてくれたことに。

「のんちゃんの脚ならさ、次の電車でもイケるでしょ」

「遅刻ギリは嫌だ」

「二年のマラソン大会、トップだったくせに」

「それはそれ、これはこれ。海雪こそ、水泳、毎回一抜けだったじゃん。俺、泳ぎは苦手」

「小学生の頃まで習っていたから」

 学校までの並木道では、行儀よく並んだ桃色のツツジが出迎えてくれた。

「まあた、珍しい」

 璃央は、長い脚を絡ませ、腕組みをして、ふふんと笑った。

 珍しいのはふたりで登校したことか? それとも、毎日遅刻寸前の海雪が、悠々と教室に入って来たことか?

 海雪は、文句があるのかと言いたげに、ちらりと璃央を見て通り過ぎた。

 教室では、定期考査前だというのに、もう夏休み後のイベントを企画していた。ひとつところに固まって、雀のように騒ぐ女子の声が響く。

 ひときわ華絵の甲高い声が、空気を突っ切り、壁に当たって跳ね返り、床から僕たちの耳に入ってくる。それに混じって、誰だかわからない冷たく無関心な声もする。

「委員会も大変だね」

 微風が教室を一周するように漂った。 


 

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