第4話
進級した三年一組の教室で、向かい合った海雪は、ぽりぽり奥歯を鳴らしながら、埃の匂いがする文庫本を開いていた。薄く開いたくちから檸檬の香りが漂う。
僕が問題集にシャープペンシルを走らせながら、ひょいとてのひらを出すと、小さな袋がのった。袋を開けたいところだが、ちょっと待て、この問題を解いてからだ。
左肘を机に着いたまま問題集から眼を離せないでいると、海雪はてのひらから袋を奪った。勝手に袋を開け、丸い小粒をくちびるに押し当てるので、僕は躊躇なくくちに含む。ん? 予想外の味がして、一瞬眉を寄せる。
「あ、檸檬じゃなかった」
手を止めて顔を上げる。イヤホンを耳に掛けた海雪は、机に置いた読みかけの本が気になるのか、すぐに目線を下げた。
イヤホンの中身が本当は空っぽで、誰も話しかけるな、というポーズではないかと疑ったことはあったけれど、いつもならそれほど気にはならない。なのに、気まぐれに海雪の好きな音楽を聴いてみたいと思ったのは、数学に挑んでいた僕の集中力が切れたからに違いなかった。
「いつもさ、何聴いてんの?」
飴玉を頬の内側に納めて言うと、梅の香りが鼻から抜けた。顔を上げた海雪は、片方のイヤホンを外して、黙って僕の耳に掛けた。耳裏を通る指先がくすぐったくて、思わず肩を竦める。
聴き憶えのある音楽が耳を通して脳内に流れてくる。神秘的でたおやかで、どことなく日本的。確か、葛飾北斎の版画をイメージした、なんて母さんが言っていた曲だ。
「〝海〟? 海だろ、ドビュッシーの」
海雪はぱちくりと瞬きをした。
「……そう」
「俺んちの母親、クラシックマニアなんだぜ」
くちの中で飴玉を転がしながら言うと、
「本当? のんちゃんも聴くの?」
ほとんど表情を映さない海雪の瞳が、これまでになく輝く。
「いいや、自分から好んで聴くわけじゃない。家でよく流れているから自然と耳に入ってくるだけ。いつの間にか憶えているんだよね。これ、誰の指揮?」
「デュトワ」
「シャルル・デュトワ? フランス音楽が得意な指揮者だね」
初夏の風が、ざわめく校庭の木々を掻き分けて吹くように、ドビュッシーの交響詩がふたりにだけ聴こえた。
海雪は時々、こうして何をするでもなく傍にいた。英語と国語は僕よりできるので役に立つこともある。特別仲の良い友人がいるようには見えなかったし、協調性に欠ける、と言ったのは海雪自身なのだ。ただ、なんとなく佇んでいるのが楽なのだろう。だから僕も、生活の邪魔をしないBGMのように放っておいたのだ。
再び問題集に眼を戻した僕の耳の奥で、高らかに鳴り響く金管楽器が最高潮を迎え、『海』は第三曲を終えた。やがて、ひらひらと舞うピアノが流れる。
「あ、〝版画〟だっけ?」
「うん、これはフジ子・ヘミングだよ」
「ドビュッシーが好きなんだ」
「近代、現代の作曲家が好きかな。特に印象主義」
「ああ、いいね。俺も、ラヴェルやサティは好き。ドビュッシーも。なんていうか、和音がオシャレ」
なんとも東洋的な主題が流れるように形を変える。神秘的だ。なるほどね、海雪のツボはここだったのか。
そう思ったときだった。まるでガムランのような優美で官能的な音が、突然、僕の頭から遠退いた。
バタバタ、ガラッ、ピシャ、ドタドタ……
「よかったあ、まだいた」
華絵はあたりまえのように、ガタガタと隣に机をくっ付けると、バサバサと数Ⅲの課題プリントを広げた。
「文化委員の会議が長引いちゃったの」
「おつかれ」
少々呆れて労いの言葉をくちにした僕は、海雪の耳裏を撫でるようにイヤホンを戻した。
「華ちゃんひとりなの? 璃央さんは?」
僕が問題集の間から四つ折りのプリントを差し出すと、華絵はぞんざいに広げてさらさらと書き写し始めた。おい、それでいいのか、華絵。だいたい、三年生だというのに生徒会役員に立候補するなんて、どうかしているだろうが。
「詩穂ちゃんと〝DON・DON〟に行ったよ」
「カラオケに行ったの? ていうか、誰よ、シホちゃんって」
「のんちゃんの後輩の、星野だよ」
華絵は、黒猫が散らばったシャープペンシルを親指の爪で弾きながら答えた。
「星野? 陸上部の後輩の、ホシノシホ?」
「そうそう、上から読んでも下から読んでも、ホシノシホ」
「何で知ってんの。璃央さんと星野って知り合い?」
「だって、
「そうなんだ、知らなかった」
すらりとした長い脚のユニホーム姿は容易く想像できた。これまでの体育祭での活躍は、単に抜群のスタイルのせいではなかったらしい。
「あたしも合流するんだけど、海雪ちゃんも行かない? 行こうよ、ね」
「……じゃあ……あとで連絡する」
海雪は、髪の毛を巻き込んだ耳掛け式のイヤホンを着け直して言った。
「嘘おー、マジでえ?」
歌うのか。さっきまでドビュッシーを聴いていたんだぞ。やっぱりビジュアル系か。しかも、女の子三人とだぞ。
「……何?」
海雪は不思議そうに僕を見る。偏見を持っていたのは僕の方か。ああ、予備校をサボりたくなってきた。
「残念だったね、のんちゃん」
華絵はけらけら笑いながら、さっさとペンケースをしまい、代わりに小さな包みを出すと、ぽんっと僕の手の甲にのせた。反射的にてのひらを返して受け取る。
「はい、のんちゃん、お礼。じゃあ、海雪ちゃん絶対来てね。待ってるよ」
ガタガタと机を離し、来たときと同じようにけたたましく教室を出て行く。
「仲いいね、いつも」
背負われた白い帆布製リュックサックが大きくて、ますます幼く見える後ろ姿を見て海雪は言った。
「選択科目がほとんど同じだからね。教室移動で一緒のことが多いし」
すっかりやる気の失せた僕は、シャープペンシルを問題集の上に投げ捨てた。ふうっと肩の力を抜き、てのひらの包みを眺めた。
海雪は、色あせた栞を挟み込み本を閉じると、銀色の包みに掛けられた黄色いリボンを解いた。ふたつ並んだシェル型のケーキが現れると、新しい本の表紙をめくるように、僕に断りもなく摘まむ。
「あ、美味い」
「本当?」
ケーキをひとくちでほおばった僕は、ペンケースの横に置かれた文庫本の表紙を何気なくめくる。点々とシミの付いたページに、『産霊山秘録』と書いてある。ぺろんとめくった本の題名が読めなくて、僕はまたぺろんと閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます