第6話 

 増築された校舎。長い渡り廊下で本校舎と繋がった僕たちの教室は、まるで離島の分校のようだった。こちらから教室移動することはあっても、他クラスからやって来る生徒はいない。

 上の階には何があったっけ? 資料室だったか、相談室だったか、すっかり時代遅れのLL教室だったか。三十年も四十年も前の、一学年に四百人も受け入れていた頃の教室は、今ではただの物置になっていて、そこから先は何もないと思っていた。

「面白い所、行ってみない?」

 昼休みに海雪が誘ってきた場所は、何もない、の先だった。

 学年末の大掃除のとき以外、滅多に上ることのない階段を海雪の後に続いて歩く。下の階では教室の窓枠にさえ若者の体臭が染み付いているというのに、最上階の廊下には埃だけが棲んでいる。

 海雪は、雑音を遮断した空洞のような廊下を慣れた足取りで歩くと、一匹の蠅の死骸が落ちたつきあたりで止まった。眼の前には鉄の扉。扉に貼られた画用紙は日焼けしていたけれど、〝立ち入り禁止〟の文字は、きちんと確認できた。行き止まりだ。ノブに手を掛けた海雪に、

「開けてもいいのかよ」

 戸惑いを見透かされぬように尋ねる。黙って躊躇なく開かれた扉からは、湿ったコンクリートの臭いがした。中を覗くと、上へと伸びる階段だけが在る。

 海雪は、得意そうな顔だけで僕に応えると、扉の中へ足を踏み入れた。後ろから、入念にきっちりと、できるだけ静かに扉を閉めた僕の喉が、ゴクリと鳴る。

 階段を上るふたりの足音だけが、狭い空間で微かに反響している。細長い喚起用の格子窓から射し込む明かりで、海雪の影が足下で揺らぐ。

 階段を上り切ると、更に頑丈そうな扉が待ち構えていた。念を押すように〝立ち入り禁止〟と書かれた画用紙の四隅に貼られたセロハンテープが、黄色く乾燥して今にも剥がれそうだ。

 海雪は、重い音を響かせる扉を、さっきよりもがっしりとノブを握り、肩で押し開いた。途端、暗がりに慣れた僕の眼が、ふらふらと眩む。

「ここは……」

 屋上の青臭い風が頬を撫でる。

「ひとりかくれんぼ」

 海雪は言う。隠れるのが自分なら、鬼も自分なのか。

「ヤバくねえの、ここ。俺に教えてもよかったわけ? 誰かに言っちゃうかも……」

「言わないよ、のんちゃんは……言えない。もう、共犯者だから」

 僕も鬼だと海雪は言う。ふたりでかくれんぼをするのなら、片方が隠れて、もう片方が鬼になればいい。だけど〝ふたりかくれんぼ〟は、隠れるのも見つけるのもふたりだ。

 共犯者になる覚悟を簡単に決めたわけではない。けれども僕は、フェンスに近寄り両手を掛けた。単純な好奇心が、網目状の柵に足を掛けさせる。フェンスの上から上半身を覗かせた瞬間、背中に手の温もりを感じた。

 不意に身体がふわりと浮いて、無防備な僕は恐怖に眼を見開く。ぐるぐると景色が回り、思わず両手に力を込める。人は本当の恐怖に迫られると、声など出せないものだと知った。

 だめだ───と思ったと同時に背中を引っ張られた。

「見つかるとヤバイでしょ」

 尻もちをついた僕を見下ろして海雪は言った。そして、腰を抜かして声も出せない僕の眼を覗き込む。

「落ちた……かと……思った……」

 耳に入る自分の声が震えていた。それが恥ずかしくて眼を逸らす。

「……ごめん」

 屋上から落ちたと感じたのは、きっと、瞬きよりも短い時間だったはずだ。だけど海雪には、ひどく怯えて見えたに違いない。そうでなければ、海雪がこんなことをするわけがないから。

「俺……驚かすつもりじゃなくて……」

 屈み込んだ海雪は、僕の頭を抱き寄せて、ぽんぽんと背中を叩いた。 

 例えば大会に出場したときに、チームメンバーと熱く抱き合うことなど幾らでもあった。でも、ここは競技場ではないし、僕らは、汗と埃にまみれて火照った体でもなかった。

 子供のような僕を慰める海雪の抱擁は、犯罪者同士の心地好さなのか、抜けていった魂が戻って来るようだ。深く息を吸って気持ちを整える。

「やっべえ……寿命が二、三年縮んだ」

 僕は、「暑い」と海雪の腕を解き、落ちたコンビニの袋を拾いながら、そそくさと階段室の影へと走り寄った。

「いつも、ここで食ってんの?」

 あの重い扉の前に座り込み、コンビニの袋から昼食を取り出す。海雪はすぐには答えず、ゆっくり近づいて来ると、扉にもたれ掛かりずるずると座り込んだ。

「いろいろ……ここだけじゃなくて、いろいろ……ひとりになれる所なら、他にもあるから……」

「……そうか」

 そういえば、海雪が教室で昼飯を食っているところなんか、一度も見たことがないかもしれない。と、ペットボトルにくちをつけながら、薄緑色した半円形のパンをかじる横顔をちらちらと窺う。今まで気にしたことがなかったので、教室でも食堂でも気配を察することができなかっただけかもしれないと思いもしたけれど、このひと月間を振り返っても記憶に無いのだ。いつも、ここに来ていたのだろうか。

「南口にもコンビニあるじゃん。何で今日は北口にいたの?」

 僕はメロンパンにかぶりついて訊いた。僕の倍以上のスピードでメロンパンを消費していた海雪は、最後のひとくちを頬張ったまま、しばらく僕を見つめると、つっと人差し指を突き出す。

「それ」

 海雪の行動が読めなくて、「え?」っと訊き返した。突き出された指先が、僕のくちびるを端から端までたどる。ドックン。一瞬、心音が遠くに聞こえた。

「季節限定夕張メロンクリームパン」

「これ?」

「そっちのコンビニにしか置いていないから」

 食べかけのメロンパンを指差す僕に、指先のクリームを舐めながら頷く。

「そのために、わざわざ早く家を出て来たのかよ。つうか、その指のクリーム、確実に俺のだよな、返せ」

 そう言うと、海雪はぺろりと舐めた指で僕のくちさきを押さえた。

「いや、そうじゃないから」

 僕はけらけらと笑う。笑った後で、誰かに見られていないかと辺りを見回す。

「天気いいなあ。午後の授業サボって海でも行きたい気分だ」

 海雪は、あああ、と伸びをして言う。

「それ、わかる」

 僕も空を見上げる。

「行く?」

「冗談?」

「じゃあ、ゲーセン」

「放課後な」

 ここに行けることすら知らなかった僕は、立ち入り禁止の扉を簡単に開けた海雪に言った。

 

 

    

 

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