第2話 

 僕と海雪が会話らしい言葉を交わしたのは修学旅行のときだった。

 二年生が修了した後の、三年生に進級する前の、なんとも半端な春休みだった。進学校である学校側が授業時間を削りたくないであろうことは承知していたものの、生徒たちには不平極まりないことは言うまでもない。

 グループ分けは例のごとく出席番号順。実に合理的だ。さすがに部屋を一緒にするわけにはいかないので、このときばかりは男女別だったけれど、女の子たちは気の合った者同士でトレードなんかしていたっけ。

 海雪は新幹線の窓側で、分厚い文庫本を片手に、何も喋らず僕の隣にいた。端が擦り切れ色あせた茶色いブックカバーには、〝晴耕雨読〟という文字意匠と書店名が印刷されている。通路側の奴と、とりとめのない話を楽しむ僕の耳に、ページをめくる音だけが届く。

「ちょっと、ごめん。荷物とらせて」

 海雪の頭上に手を伸ばした僕は、棚に置いたスポーツバッグのファスナーを開き、アーモンドチョコレートの箱を取り出した。少し体を引いた海雪は、それでも文庫本から顔を上げなかった。

 読書の邪魔をされたことに機嫌を悪くしているようにも見えたので、チョコレートのフィルムをはがし箱の中身を引き出して、海雪と本の間に差し入れた。詫び、というか、ご機嫌伺いのつもりで。

「食べる?」

「…………ありがとう」

 不意打ちだったのか。眉間にしわを寄せた海雪が、箱の中からチョコレートをひと粒つまむまで、数秒。

 その後、通路側の奴に箱を渡したら、それが通路の向こう側までまわり、僕の手元に戻ってきたときには、すっかり空っぽになっていた。

「おまえらあ、誰が全部食っていいと言った」

 ちらっと覗いた海雪の横顔が噴き出しそうに見えた。気のせいかもしれないけれど……。



 見慣れた制服を着ていない旅先の海雪を、僕はうっかり見失いそうになった。

 僕たちの学校は二人一組での行動を常例としていたのだが、どうにも海雪と組む奴がいない。どのクラスにもひとりやふたりはこういう奴がいるものだ。そして、どのクラスにも、僕のように殊勝な心がけの奴がいるのだ。うん、うん。

 海雪は長い時間、水族館のスナメリがゆらゆら泳いでいるのを眼で追っていた。僕は円筒形の水槽越しに歪んだ顔を見ていた。皆からはぐれはしないかと心配になったから。

 海雪が手をかざすと、スナメリはソーダゼリーのような水の中を垂直に駆け上ってきた。水槽を撫でると、動きに合わせて頭をふった。

 あれ、笑っている?

 スナメリではなく、海雪が?

 いいや、もしかしたらスナメリも笑っていたのかもしれない……なんて……そんなわけないじゃん。でも……僕の記憶が正しければ、海雪の笑った顔なんて、今まで見たことなかったかもしれない。

 僕が見張っていたことに気づいた海雪は、そのままの無邪気な笑顔を僕に向けた。僕も海雪の真似をして水槽を撫でてみる。スナメリは同じように、円らな瞳で見て返した。

「かっわいいなあ。なんか、頭を撫でているみたいだ」

 誰に教わったわけでもないだろうに、好奇心がそうさせるのか、それとも許せる相手を選択できるのか。いいや、きっと、水槽が世界を隔てているからだな。

「どんな生き物でも懐くと可愛いよね。俺さ、小さい頃に亀を飼っていたんだけどさ、そいつに小魚を見せると、ずっと追いかけてくるんだよ。甲羅や腹を爪で引っ掻いてやるとくすぐったがるしね」

 水槽の側面にへばりつきながら近寄ってきた海雪は、右手で小魚をつまんだ仕種をした。

「亀?」

「縁日のミドリガメ。十年生きたんだ。こんくらいに育った」

 両手の指を合わせ、胸の前で円を作って僕に見せた。

「へえ、十年も」

「うん、もっと上手く育てたかったけど、最期は冬を越えられなくて、冬眠したまま死んじゃった」

「俺なんか飼育が下手で、金魚すくいの金魚だってすぐに死なせちゃうんだけどなあ」

 亀のことなんて正直どうでもよかった。僕にしてみれば、このときの海雪の方が、よっぽど珍しい生き物のようだったから。

 でも、無機質な冷たい壁と、硝子の水槽で囲まれた僕らふたりは、確実に後れをとっていた。仲間たちはどこへ行った?

 自治、自律、が学校の信条だった。自由な校風は細かい指示を嫌い、全てを生徒任せにする。だけど、十人編成のグループは少し多い気がする。

 班長は誰だった? それさえ憶えていないのに。

 仲間に連絡を取ろうと、携帯電話を手にしたちょうどそのときに、

 集合場所と時間さえ守れば、あとは自由───

 忘れていた班長からのメッセージが届く。

 あいつも、全員をまとめることが煩わしいんだよな。僕だって、海雪と行動することに勇気を要していたのだから。こいつは、いつ行方不明になってもおかしくないくらい独りだった。もしも海雪に何かが起こったら、僕のせいにされるのだろうと、気が気でなかったのだ。

 


 水族館を取り囲むように立ち並ぶ、満開一歩手前の桜を眺めながら、海雪はゆるゆる歩くので、苛立つ僕はせっかくの旅行を楽しめないでいた。

「綾瀬えー、おいて行くよー、予定通りに見学できないじゃーん」

 うんざり、を込めて叫ぶ。

「あ……ああ、ごめん」

 ずっと後ろを歩く対象にピントを合わせようと、僕の眼は淡いピンクのトンネルを覗いた。海雪が、ずんずんと倍率を上げて接眼してくる。 

「迷子になったら連絡するから、先に行ってもよかったのに」

「はあ? そんなのできるわけないだろ。綾瀬がいなくなったら俺のせいになるの」

 半分くらいは損をしているようで、僕は突き放した口調で言った。それなのに海雪は、一瞬、眼を瞬くと、恥ずかしげに頬をゆるませた。

「待っていてくれると思わなかったから……ありがと……」

 石の代わりにキャンディでも投げられた気分だった。

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