硝子の庭にライムの香り

吉浦 海

第1話 

 キン、としていた。墨色の空から雨の匂いが降りてきた。

 部活を終えた友人たちは、制服に着替えて手をふっている。白い息が幾つもたなびいた。

「ばいばい」

「ばいばい」

 校庭にひとり残された僕は何をしよう。予備校が始まる時間まで、図書館に行って勉強でもしようかな。

 着替えもせずに階段を上る。蛍光灯が煌々とした廊下で誰ともすれ違わないのは、定時制の授業がとっくに始まってしまったからなのか。

 二階の廊下つきあたり。いつも閉まっている扉にふと眼が留まる。密度の濃い中性子性が、ざらざらと砂の音をたてるランニングシューズを誘惑するように、僕は扉の中へと吸い込まれてしまいそう。

 入り口に敷かれたマットで、廊下に響き渡るほど、思い切り靴を鳴らして砂を落とし、ブラックホールへと爪先を忍ばせる。そっと扉を閉めて、手探りでスイッチを見つけた。

 バチン!

 眠っていた楽器たちが光に照らされて眼を醒ます。仲間の中で誰よりも大きな黒い物体が姿を現す。

 静かだ。化繊の衣擦れの音が、チャイナシンバルを擦り合わせたようにうるさく聞こえるほど。

 手袋を外し、てのひらを押し付けると、黒光りする冷たいカラダに白く跡が浮かんだ。両手で蓋を持ち上げてみる。僕の手が黒い鏡に映りこむ。

 『放課後の音楽室』という曲を思い出した。母さんが好きで時々聴いている、ゆったりと素朴なアコースティックギターの曲だ。

 でも、今、僕が聴きたいのは違うな。もっとリズミカルな曲がいい。ひとつ、ふたつ、鍵盤を叩いてみる。僕も同じ拍動を刻む。

 ウインドブレーカーを脱ぎ、ピアノの椅子を引いた。

 音楽室の壁がスピーカーとなって、空気をゆらし反響していた。誰も聴いていないのだ。だから僕は陶酔する。観客のいないリサイタルで。

 だけど、恍惚とした心を瞬時に冬の放課後に戻すのは、窓に映る僕の冴えない姿だった。歓声も拍手も、最初から聴こえてはいない。ほんの少しチック・コリアにでもなった気分が虚しくて、ピアノの蓋を閉じて窓を見た。黒い硝子に飛んでくる雨の珠が星のようだ。

 あーあ、とうとう降り出してしまった。傘、持ってくればよかったな。








 掲示板に張り出されたクラス発表を見て、僕は跳び上がるほど喜んだ。二年一組の出席番号一番は、『綾瀬海雪』と書いてあったから。

 新しい教室の入り口から、クラスメイトの顔をひと通り見回してみる。窓側、前列二番目の席に着きながら、知っている奴が何人かいることを確認した。

 席が近い知り合いと選択教科の話をして、壁の時計に眼を移す。チャイムが鳴り始めたというのに、僕の前は空席だ。まさか、初日から欠席なんてことはないだろうな。

 チャイムが鳴り終わる寸前、開けっ放しの入り口で響く足音に、一瞬、皆が注目する。黒板の前を走り過ぎた〝そいつ〟は、ムササビが枝に飛び移るように、素早く僕の前に座った。リュックサックを滑り落とす肩が大きく波打って、頭から湯気でも噴きそうなくらいの息が聞こえる。

 しばらく経って、おそらく廊下で〝そいつ〟に追い抜かされたであろうクラス担任は、「おはよう」と言って扉を閉めた。生徒が元気よく挨拶を返せないのが気に入らないようで、手にしたプリントを前列に配りながら、「先生、イズ、ガッカリ」と真面目な顔で言う。それを嘲笑する女子の声が、ぽつりぽつりと間隔を空けてそよいでいた。

 よれよれのスーツを着た英語教師から渡されたプリントの束を、綾瀬海雪から受け取った僕は、 一枚だけ机に置いて後ろへ回した。プリントには、廊下で見たクラス表と同じ名前が並んでいた。

「鮎川……のぞむ?」

 椅子の背に肘を掛けた綾瀬海雪は、僕の顔とネクタイを確かめて言う。

「のぞみ」

 訊きたいことが予想済みの僕は、答えだけをくちに出す。

「のぞみ、ね」

「女子じゃないよ」

「見れば判る」

 それだけか。名前のことを訊く奴は大概、「いい名前ね」なんて言ってくれるのだけれども……。それで、僕は少々はにかみながら、漢字一文字で『希』と名付けた両親のことを想ったりする。

 名簿を見ただけで名前の持ち主の容姿まで想像するのは、結構難しいものだな。ま、訊いてくるのはほとんどが女子で、そうそう他人の名前なんて、よほどのキラキラネームじゃない限り気にしないけどね。

 でも一応、前を向きかけた綾瀬海雪に、僕は話しかけてみることにする。名前のことを訊かれたのだから、な。会話のきっかけなんて、こんなものだ。

「綾瀬は? これ何て読むの?」

 綾瀬海雪は振り返った。

「みゆき。女みたいだろ」

「うん、女だと思った。雪の降る日に海の傍で生まれたんだろう?」

 僕たちの学校は、本より男女混合の出席順が当たり前のことだったので、海雪にしても想定内のことなのだろう。つまり僕らは、クラス表を一瞥した時点では、お互いが女子だと思っていたわけだ。

「正解」

 鳶色の瞳が僕を見て言った。明るい髪が濃いグレーのジャケットのせいで、余計に目立っていた。

 これで、やっと解放されるのだ。小学生の頃から……いいや、その前から、ずっと一番前だった。自己紹介をするときも、体力測定をするときも、学習発表をするときも、一番。

 一番は、損だ。二番目以降の基準にされて、いつも厳しい評価を与えられるから。もう、いい加減に飽きていた。

 僕のクラスが理数系というわけじゃなく、全クラスで偏りがないよう均等に生徒を分けているので、三年からのクラス替えが望めないことは承知していた。単なる進路編成と皆は言うが、慣れと諦めで名前を眼にした僕にとっては、人生初の出来事なのだ。もう、二年間は、出席番号で一番になることはないのだ。

 おい海雪、頼むから、途中で転校なんかするなよ。



 公正普遍に見ても、海雪は女子が好みそうな風貌をしていた。好みなんて人それぞれと言うけれど、海雪は、違う。

 僕のような者でも制服マジックのおかげで、極稀に、今どきの男子高校生という、ちょっと淫猥な眼差しを受けることがあるのに、海雪の場合、つるんとした白い肌と長身が、それを幾重にも増幅させている。恰好つけて染めているのかと思っていた髪も、瞳の色を見て、生まれつきだと判断できる。

 概して言えば、才能。基が良い奴には、何を努力しても敵わない。

 ただこいつ、どうやら性格に問題があるらしい。

 授業で名指しされたとき以外、滅多にくちを開かない。たった独りで物事を進め、必要な事は正確に行い、それ以上の事までやり終えてさっさと帰るなんて、僕が一番苦手なタイプじゃないか。

 そうなんだ。あれ以来、僕は海雪と何も話していない。消しゴムを拾って「ああ、どうも」だなんて、こんなの会話とは言えないだろう?

 だからといって、わざわざ避けて通るほど、海雪は不真面目な不良でもなかった。尤も、僕の学校に居るのは、棘だらけの仮面を被っているだけの、実に優秀な奴らばかり。

 いつもイヤホンをして、ひとりで何かを聴いている海雪は、そんな自称不良からも敬遠されるほど長い棘をまとっているのか、他人と交わろうとしなかった。斜に構えた態度は、誰にでも欠点があるものだと、僕は安心したけれど。

 どんなジャンルかも判らない、イヤホンから流れる音は、見た目から推測するとビジュアル系かな。別に、興味はない。

 もったいない、と思ったことはあったのだ。見えない壁を築かなければ、きっとメチャクチャにモテるんだろうな、と。ああ、これは、ちょっとした妬みだな。

 そんな奴だから、誰かが席替えをしようとクジ引きを勧めたところで、必ず最後の余りものだ。それなのに、僕の前後もしくは左右、そうでなければ斜めの席に居るのが不思議ではあったけれど。



 海雪に出会うまで、僕は適当に楽しく過ごしていたのだ。

 陸上部の仲間もいい奴ばかりだし、クラスメイトともそれなりに。このまま平穏に卒業できれば、それで何もいうことはなかったのだ。

 

 

 

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