初恋の残滓

クソザコナメクジ

初恋の残滓


 夏の熱も冷めて、秋の十五夜が過ぎた神無月。

 色づく紅葉もあと一月足らずで命を終え、灰の様に地面へ降り積もる。この季節が好きだと言ったのは、今まさに窓辺で珈琲を飲む変わり者の彼だった。命が死んで、折り重なるその姿がたまらなく愛おしいのだと、病んだ目をした彼は笑った。そして同時に、生まれては花開く命が、たまらなく憎らしいのだとも。

 窓の外で朱く踊る紅葉を眺めるふりをして、私はその横顔を見遣る。その年齢に見合わぬ繊細な顔立ちは、飴細工の様に美しい。けれどその綺麗な顔立ちには、脆(もろ)い飴細工と同じく、何処か不安定な危うさを孕(はら)んでいる。彼の普段の言動を知っているからこそ、余計にそう感じさせるのかもしれない。


 出会って――彼の助手になって、もうすぐ三年が経とうとしている。初めて見た時も、この人はこうして窓辺で珈琲を飲んでいた。


 一見、穏やかな光景だった。互いに目があう、その瞬間までは。


 私の姿を見てすぐ、彼は持っていたマグカップを床へ投げつけ、穏やかに微笑んだ。そうして言ったのだ、新しい珈琲を用意してくれ、と。ああ、なんて懐かしい記憶だろう。


「砂糖が欲しい」

「あ……はい」


 いつの間にか珈琲を飲み終えていたらしい彼の一声に、我に返る。

 私は突き出されたマグカップに新しい珈琲を注ぎ、角砂糖の入った瓶を添えて、窓辺のウッドチェアの上へ置いた。

 珍しい。彼はブラック派の筈だけれど。


「珍しいですね。砂糖なんて」

「砂糖は依存性があるらしい。少しずつ摂取したら、俺も麻薬中毒者みたいになれるだろうか」

「麻薬中毒者になりたいんですか?」

「少し体験してみたい。脳が死んでいくのに止められないって、どんな気分なんだろう。もし俺が麻薬中毒者みたいになったら、君が俺を殺してね」

「……一応聞きますが、何故?」

「脳が死んだら、身体も殺さなきゃ。自分が自分でなくなるのなら、ちゃんと始末して欲しい。自分の抜け殻だけが勝手に息をするなんて中途半端だからね。そして、君にならそれが頼める。きっと確実に俺を殺してくれるだろうから」

「信用されているのは嬉しいですが、嫌な役ですね」

「信用されてる副作用、みたいなものだよ。伴侶に近い」

「それは光栄です」


 時折、こんな風に突拍子もない会話が始まる事もある。けれど、相手が初恋の相手だからだろうか、その口から与えられる全ての言葉が愛おしくて、心地が良かった。


 私達は、恋人みたいな内容の会話はしているけれど、実際は違う。恋だなんて甘酸っぱい想いは、恐らく私の一方的なものだろうし、これからもそれは変わらないだろう。彼が大学教授で、私が院生、今確かに存在する関係は、それだけの色のないものだ。どちらかが大学を辞めれば、一瞬で消える関係。辛うじて繋がった、一本の糸。

 どこに惹かれたのかと聞かれれば、返答に困ってしまう。明確なきっかけがあったわけではないし、彼は人格者というわけでもない。いつの間にか好きになっていた、そんな曖昧な感情だ。

 恐らく向こうからは、良くて王者の側近程度の認識しか抱かれていないだろう。主が好む珈琲を淹れるのも、持て余した感情を押し殺すのも、もう慣れたものだ。


「そろそろ、紅葉も散るな」


 数拍の沈黙の後、彼が再び窓の外を眺めて、呟いた。


「そうですね。また、冬が来ます」

「それにしても、甘い」

「砂糖ですから」

「君とこの景色を眺めるのも、三度目か」


 噛み締めるように紡がれた言葉を聞いて、少し驚いた。まさか出会った時期や期間を、必要最低限の記憶力しか要していないこの人が意識しているだなんて、思いもしなかったのだ。


「この季節は、お好きでしたよね」

「ああ。俺の恋人が死んだ季節だ」


 ――そうだったんですか。

 相槌をうったつもりだったが、言葉にならなかった。あまりにも彼が、聞き慣れない言葉ばかりを吐くから。恋人がいた、というのも初めて聞いたし、突拍子もなさ過ぎてどんな顔をすれば良いのかわからなかった。


「そんな顔をするな」


 変わり者にそう言わせた私は、一体どんな顔をしていたのだろう。


「前にも話したかもしれないが、俺はこの季節が好きだ。芽吹いていた命が散って、色が消える。世界が死の色に染まっていく、この灰色の季節が好きだよ」

「……」

「何かが死んでいく、その過程が好きなんだ。抗う術もなく、ただ死に向かって転がり落ちていく、その無力さが。希望なんて一つも見出せない、見出さなくていい。生まれ落ちた意味なんて知らないまま、何も為せないまま、等しく平等に――」


 ――**、*********え。


「……!」


 繋ぐ言葉を待つ私の鼓膜を、陶器の絶叫が揺らす。殺気立った破壊音が空間を覆う。人工的に生み出された空白が、心臓を忙しく鳴かせた。見開いた瞳に、彼の貼りついた笑顔が映る。一瞬で噴き出した汗が、べったりと背中に絡みつく。

 時が止まったかのような一瞬。長い空白の後、割れたマグカップがようやく視界の端にちらついた。音の原因を知って、更に心拍数は上がる。哀れな珈琲の匂いが、咽返る程に部屋中へ充満していた。一拍置いてようやく、彼がマグカップを地面に叩きつけたのだと知る。


「あ……」


 砕けたカップの破片。伸ばしかけた私の腕を、彼の腕が掴む。


「俺はね、生きる事に希望なんて抱いていないんだ。期限が決まっている時間なんて、死を待つ囚人と同じだろう。彼女を失った時、そう確信した」

「……あの」

「この季節になると、いつも思い出す。無意味に流れていく時は、癒しではない。ただの風化だ」


 初めて聞いた。ならば彼は毎年、何も知らない私がこうして珈琲を淹れている間も、この世には存在しない最愛の人を想っていたのだろうか。


「珍しい、ですね。そんな話をするなんて」


 目の前には、無残に砕かれたカップの残骸。片付けなくてはいけないと、何かがそう訴えかけるのに、彼の話を聞くべきだと警告する自分もいる。きっとどちらが正しいなんて模範解答はなくて、片方の答えが片方を突き放す。きっと、そんな無情さは確かにそこに流れているのだろう。逃れる術もなく、残酷な程に潔白に。


「俺は罪悪感を感じているのかもしれないし、その逆かもしれない。俺の思考すら灰色なんだよ。彼女の死への感情が、驚くほどに曖昧で、未だに輪郭さえ見えてこない」

「哀しかったのではないですか」

「わからない。そんな感情もあったかもしれない。だが、何かモヤのようなものが邪魔をする。見えてこない」

「何故?」

「彼女を殺したのは、この俺だからだ」


 酷く、作り物のような言葉だと思った。

 ドラマや小説でありがちな、聞き慣れたセリフ。けれど違うのは、これが私にとっての現実だということ。どうしようもないくらいに、揺るぎない真実。


「ナイフで何箇所か刺したら、すぐに息絶えてしまった。人が簡単に死ぬだなんて思っていなかったから、動かなくなった彼女を見た時は驚いた。しかし、考えてみれば当たり前のことだ。頸動脈を断ち切れば、高い確率で死に至ると」


 いっそ冗談であったら軽く返せるのに、語る彼の眼は至って真剣で、偽りは感じさせなかった。真顔で嘘を吐かれたことがなかったわけではないけれど、それでも、他人の前ではひっそりと存在を潜めていた最愛の人を、冗談で笑うような人には見えない。いくら変人でも、きっと心を痛めたであろう恋人の死については、偽りを語らないだろうと思ったのだ。

 かと言って、どういうことですか、等とさらに突っ込んだことを聞けるほど、私も愚かではない。この人の心は強いように見えて繊細なことを、この数年でよく知っている。

 人を殺すと言うことは、どんな事だろう。未来を閉ざすのか、過去を消し去るのか。


「彼女も君のように、優秀な院生だったよ。だが、卒業を控えた年の夏、病にかかってね。もう治る見込みはないといわれて、自分の人生すらも諦めざるを得なかった。それからだ、彼女が笑わなくなったのは。ああ、今でも昨日のことのように思い出される。俺は、そんな彼女の姿を見ていられなくて、殺したんだ」

「……」

「暑い夏の晩、彼女は俺の研究室へやって来て言ったよ。私を殺して欲しい、終わりに怯える生に意味はない、と。――俺は夏が嫌いだ。あんなにも生き生きとしていた彼女の心を、蝕んだ季節だから。夏が死ぬこの季節だけが、俺の唯一の安らぎだ。そして、心の死んだ彼女の体を殺したのも、この季節だった」

「ですが、教授が捕まったというお話は聞いたことがありません」

「死体が見つからなかったからね。硫酸で溶かして、残骸は山奥に埋めた」


 私の抱く疑問は、容易く壊されてしまう。そうして、嘘みたいな現実が真実味を帯びていく。

 日常が崩壊していく瞬間は、なんて呆気ないのだろうか。


「では、その方は未だ、行方不明扱いなのですね」

「ああ。葬式さえ挙げられなかった。自己満足の塊のような簡易な墓しか、彼女には施せていない。二人だけの秘め事にしておきたかった」

「ならば何故、私にその話を?」


 私に何を求めて、過去を語るのか。彼の意図が読めず、戸惑う。

 私が助手だから? けれど彼の助手になった人間なら、過去を遡れば何人も存在する。彼が人を殺したという噂は、今まで一度も聞いたことがない。

 懺悔したいから、あるいは、罰が欲しい? そんな感情があるのだろうか。変わり者の、掴みどころのない貴方に。

 ――私を殺したいから? それは、自惚れ?


「わからない」


 そうして全ての可能性を捨て去って、私の疑問は置き去りにされる。


「繰り返したかったのだろうか、俺は」

「繰り返す?」

「わかるかい?」

「わかりません」


 わからない。私の中に渦巻く不安も、期待も、嫉妬も。色々なものが混ざり合っているのに、彼の望む灰色には届かない。いくら手を伸ばしたって、私が生きている限りは、きっと。


「何故、君が泣きそうな顔をする?」


 彼は微笑む。その言葉を皮切りに、頬が熱く熱を持つのを感じた。視界が歪んで、うまく言葉を紡げなくなる。


「わかり、ません」

「君はそればかりだね」

「教授とは、違いますから」


 何せ、私は今この瞬間に、失恋という最大の敗北を思い知ったのだから。


「今の貴方には、わかりません」

 死を愛してしまった貴方には、きっと。


 ◆◇◆


 研究室の片隅で、一人の若い教授が死んでいるのを見つけたのは、その翌日のことだった。


 部屋に入った瞬間、視界を覆ったのは床一面の赤。鉄錆の生臭い匂いが充満しており、足元には無残に割れたティーカップがあった。漏れ出した液体は、流れてきた教授の一部と混ざり合って、赤黒く地面にはり付いている。

 彼は、息を止めて尚、この空間を支配していた。赤く、黒く、まるで悪戯に塗りつぶされた絵画のように。色も、香りも、漂う瘴気さえも操って、中心に横たわっている。ぱっくりと傷が開くその首元に触れてみると、未だ生ぬるい粘着質な彼が、私の指に纏わりついた。


 教授の身体には、首以外にも傷が開いていた。胸、太腿、脇腹。重大な血管を一つずつ潰していったのだろう。本能では死にたくないと足掻いただろうに、彼の心は、それさえも超越して死へと向けられていたのだ。

 床に転がる彼の顔には、実に人間らしい表情が浮かんでいた。痛みと、安堵と――私は初めて、彼の人間らしい表情を見た。その最期を想いながら、ただぼんやりと悟る。彼は彼女のように、あっさりと死ぬことは出来なかったのだということを。


 ぽたぽたと、両目から塩辛い液体が流れる。私はそれを、教授の作り出したこの空間を蝕まないようにと注意を払いながら、拭った。けれど、わけもわからぬ内にそれらは流れ出てくる。人が来ることが怖かったので、私は右手で顔を覆いながら立ち上がり、薬品が並んでいる戸棚へと走った。

 教授がかつて恋人に施したことを、繰り返そうと思った。きっと彼は、それを望むのだろうと思ったから。そうして私自身も、彼にそうすることを望んでいる。遺された意志に導かれるまま、私は彼の遺体を溶かしていく。


 研究室の鍵を閉めて、硫酸に少しだけ塩酸を混ぜて。大きな桶に大量の薬品を流し込んで、彼の遺体を沈める。一人で一気に担ぐのは骨が折れたので、用意してあった鉈で小分けにした。血が溢れ出すかと予想していたが、案外流れ出る量は少なかった。考えてみれば当たり前のことだ。私が来るよりも前に、そんなものは無数の傷から垂れ流していたのだから。

 沈められたパーツは少しずつ、無数の泡を纏いながら崩れていく。美しかった彼の顔も、時が経つにつれて、骨と僅かな肉片を残すのみとなった。

 必要なものは全て用意してあった。その癖、遺書なんてものは存在していなかった。私が思い通りに動くと判った上で、全て準備したのだ。机の上に広げられた地図には、彼女の眠る場所が記されているに違いない。


「……っ」


 私にはわかっていた。横たわる肉体に意味はない。

 この空間こそが、彼そのものなのだから。

 教授にとっての死の象徴が、彼女であったように。

 どれだけ焦がれたって、彼の全てになることなど出来やしない。死に魅入られた貴方を掬いあげる事など、不可能だったのだ。


 こうして、溶けていく彼の身体と共に、私の恋は終わりを告げる。

 もう、芽生える事もないだろう感情。少し甘酸っぱくて、寒気がする程に苦かった、彼との邂逅。喪失を知って初めて、彼の見ていた景色を知った。まるで彼こそが世界の全てであったように、私の中の色が消えていく。そうして、折り重なる彼の遺骨が愛おしく感じられる。

 彼の愛した灰色の季節が、鮮やかに見える。


 ――全て、灰に還ってしまえ。


 カップの断末魔に掻き消された、昨日の彼の遺言を想いながら、私はただそう祈った。

 彼の望みなら、それでも構わないと思った。

(終焉)

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