Paradise Fall
三浦太郎
堕楽園
石畳を靴が叩く。二足分の足音の主たちはここまでに言もなく歩みを進めていた。共に、顔上半分を覆う巧みな面の陶の仮面、身体の全てを厚いベールに包まれている。背の高く荒々しい気配を纏った、毛皮を象った仮面は大きな息を吐き溢した。
「この歩く手間はどうにかならないのか、おい。」
巻き付いた蛇、黒々とした蛇の姿をとる仮面が光を鋭く照り返し、毛皮から覗く目を見上げる。
「楽園までは遠いのよ。誰にとっても。」
またそれか、小さく鼻を鳴らすと毛皮は蛇の一歩前を歩き出す。蛇はそれが気にならないのか、黒く艶を光らせるのみ。それから言は交わされなかった。
扉の前に立ち止まると、額に星を刻まれ首輪をつけた七人の少年少女が召使いといった風で二人を囲んだ。彼らの手にマント、靴が収まると荒々しい者は溶岩を宿す鋼のような、もう一方は継ぎ目を失った雪のような肌を晒し、仮面のみが二人を覆う。少年少女は扉を開いた。
不意に毛皮は蛇の頭を掴み、唇を奪う。それが刃であるならば、蛇の豊かな胸に突き刺され溢れた血が流れ、泉となっただろう。蛇はにわかにその滑らかな舌を這わせ、溶岩を泳ぐようにいなし、呑み込む。果てしない快楽を誘い、獣を侵してゆくように。
その終わりも突然であり、毛皮の仮面は蛇からゆっくりと離れて行く。引き合うような白糸は、次第に姿を薄くしかき消える。
「これ以上は本気になっちまう。」
「あら、随分と優しくなったのね?」
「抜かせ。俺は俺の生きたいように生きる。そうだろう。」
胸に刻まれた666の刺青、獣は一枚の絹から流れる黒い糸、光を吸い込む無数の蛇に口づけをすると、扉が開かれた先、光の向こうへと消えていった。
蛇は口許を歪めると指を一つ舐め、黒い首輪の刺青を撫でると、獣と同じように光へと消えていった。
星のように浮かぶ無数の灯りの下、仮面の他を一切纏わぬ人々は、そこが石の館、故人たちの眠る棺であったことも忘れて、男、女の差も無く木陰に眠り、樹からは果実をもぎ、温かな泉に遊び、思うままにまぐわう姿を見せる。
黒い蛇は悠々と、柔く青い草原を己の物であるように、若しくは誰のものでも変わらないと哄笑するように、優雅かつ奔放な、吸い付くように誘う両の脚を前へと運んだ。
獣は早速相手を見つけたようだ。蛇が歩く泉の浅瀬、哀れな相手に絶叫のような嬌声を上げさせては吠えるように嗤っている。剣が押し込まれる音が館を突き抜ける程の激しさに、周りの動物たちはそんな見世物に笑い、口づけをし、まぐわいをまた楽しむ。
黒い蛇は手頃な男、他の女とのまぐわいの途中だったが、を見つけると突如として唇を奪い、その心を向けさせた。 男の剣は女の鞘を鳴らし続けるのは変わらず、蛇の笑みは深まる。混ざり合った口内の蜜の全てを奪い去ると、男は魂を抜かれたように腰を振り続けてた。
蛇が水辺を後にし向かったのは棺の中央、一段と高みを覚える玉座。そこに至るまで何人も、彼らは全て分け隔ても無く、ただ多くの魂を蛇に盗まれ、また蛇は段へと足を踏み入れた。
玉座に座っていた若い男は蛇の姿を認めるや否や、顔を赤くし立ち上がり、喜悦を浮かべるとその座を放り出して駆け降りてきた。
「ああ、愛しい君をどれだけ待ちわびたか!」
そう言って若い男、ミトラを模した仮面を戴く者は柔らかな唇へ飛び込んだ。蛇は玉座の横には女が立ち、その様を笑顔で眺めているのを見つめ返した。神が造り給うたかのごとく美しさを放ち、一切の穢れもなく笑顔を浮かべる。微笑んだような仮面の下は、何を眺めるのか蛇には分からない。
既に蹂躙されきった舌を、また温めるように、絡み付き、離れぬよう縛り付けるように転がし、ミトラの仮面の下は朱に染まると、甘く痺れる吐息がかかる。若い男は、弱々しく腰を抜かし座り込んでしまった。
「私もずっと、あなたを想っていたわ。夜も眠れない程に。」
「ほ、本当か?だが……」
ええ、と返答を待たずに妖しげな指は彼の猛る一本の杖を握る。聖者の口からは小さな悲鳴、砂漠に一滴を得たような声が滲み、体は一度だけ、しかし大きく震えた。
杖を絡めとるように、二頭の四叉の蛇は十の首をもたげ、変わらないミトラの仮面とは対になるのか蛙のように口を開き、鼠のように身を震わせる。蛇の口許は、深く、歪む。
「ずっと、寂しかったのよ?」
その言には意味のない鳴き声が返された。女は玉座に縫い付けられたかのように立っている。はりつけの微笑みの底に何があるのか、見えなくとも蛇には手に取れるものであった。彼女の口が一文字に結ばれたことに、ようやく気づいたから。
杖から吐かれた白い蜘蛛糸は指に絹の指に纏わりついていた。蛇の水門、或いは逆さの杯は聖者の杖に覆い被さる。世の全ての悦びを得たかのような恍惚を浮かべるミトラの仮面の下、若い男の体の全ては彼の手から投げ出されてしまった。
悪魔は手を叩き、蛇の口は歌う声を飛ばす。聖者の叫びは、彼の命を枯らす楽器になった。ミトラの仮面は剥がれ、善き隣人の声は鳴りを潜めて悪しき友は大人数で囁き出す。
杯から杖は放られ、力ない姿を現した。涎のように白く糸が溢れ、開ききったミトラの口そのままだった。
蛇は己の剣を持ち上げた。やおらその剣は聖者の口へと突き刺さり、微かに残っていた嗚咽を引き出した。恐ろしい笑みで突き刺された剣は、やがて引き抜かれると白く糸を引き、ミトラの仮面の下、白濁の液が口内より流れ出た。
蛇は猛る剣をそのままに立ち上がると、女の方へと歩き出した。微笑みの仮面の下は相変わらず読み取れない。一文字の口許が全てを語る。蛇は目を細めた。
氷の笑みとも言える表情を浮かべる女の横、蛇の腰は玉座に落とされた 。初めて、女の目が、両の眼が黒蛇を見た。黒蛇は、さっき聖者にかけたように、仰向けに無様を晒す彼を見ながら口を開いた。
「あなた、ここを綺麗にしなさい。これでは眠れもしないわ。」
蛇、それと微笑の仮面は吐息を漏らす。直ぐ様蛇の前に跪くと、彼女の口が蛇の下の口、剣の下へと繋げられた。激しく吸い出す女に、蛇は慈母の笑みを向けている。女は一切を考えず、黒蛇の水門は口に塞がれていた。
暫くすると、微笑みの仮面が一瞬蛇の目を向き、そのまま剣を飲み込んだ。
わざとらしい嬌声をあげると、蛇は女の頬を撫でる。蛇のものでない白濁に、女はその身に穢れを刻まれた。
「ずっと、そうしていて。」
優しい声が微笑みに降り、女は剣を飲み込み続けることでそれに応えた。
高みから見下ろされる景色は獣が地を這うことと同質であった。欲望、その身体の思うままに声をあげる者達は、白亜の監獄の中で、草原、或いは泉、又は果樹の下で子羊から山羊へと変貌した。
真なる獣は肉を文字通り貪り、何れこの牢の中は食い散らかされ、果実は内より腐り始める。
剣を銜え続けた女の顔は、紫にまで染められてしまった。力を失った腕は垂がり、その呼吸と命を捨てた姿は糞尿、涎を垂れ流していた。
蛇が女の腹を蹴り上げると、口の中の白濁を吐き出しながら膝を曲げきって後ろへ倒れた。蛇は女の下腹を踏みつけると脚を組んだ。
獣は、何れ草木に成り果てるであろう肉の山を築く。山羊達は変わらずそれを見ずに笑い、遊ぶ。
蛇は笑みを浮かべる。全てに目は向かず、されどその瞳は、慈しむ母のものであった。
蛇の足が下腹に強くのし掛かると、穴からは糞尿の残りが漏れだした。
Paradise Fall 三浦太郎 @Taro-MiURa
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