第2話「神狼」


 辺りは静けさを持ち、少女の草木を踏みしめる足音だけがその場に聞こえる。嫌な予感は、もはや予感ではなく確信へと変わっていった。



「ユグラルーツ……やっぱり大きいよね」



 森の最奥に着いて最初に目に飛び込んできたのは、自分自身の存在が、広い世界の一部分でしかないことを自覚させるほどの大きさを持つ大樹——ユグラルーツだった。


 太い幹からうねるように四方に広がる枝も相まって、圧倒的な存在感を放っている。


 ユグラルーツの周辺は、まるで他の木々が生えることを遠慮しているかのように拓けていて、平原の真ん中に一本の大樹が生えているだけのような状態になっている。


 少女は、異常の原因を探るべく、ユグラルーツの方に向かって一歩を踏み出した。


 するとその瞬間、



『止マレ』



 どこらともなく声が聞こえた。


 その声は、太く、男性の声のようにも聞こえたが、どこか人の声とは思えないような声だった。



「誰?」



 少女は、踏み出した足を元の位置へ戻すと、突然聞こえた声に語りかける。


 すると、それに応えるようにユグラルーツの頂点から一つの影が、枝を伝って降りてくる。その影は、速すぎて捉えることはできないが人間ではないことは確かのようだ。


 そして、木の根元まで降りてくると、ようやく影の正体を捉えることができた。


 全長が二メートル程ある漆黒の体毛を纏った一匹の狼。それが、影の正体だった。

 ワーウルフではない。少女は、瞬時にそれを察した。明らかにワーウルフとは違うオーラと言うか、存在感がそれにはあった。



『小娘、ココへナンノ用ダ』



 黒狼は、鋭い双眼で少女を見据えた。

 黒狼が纏う圧倒的な殺気に、少女の背中は冷や汗で濡れる。



「この森の調査をしにきたの。そう言うあなたは何者なの?」



 なんとか絞り出した声は、心を映し出しているかのように震えていた。



『我ハ、コノ木ノ守護者ナリ。小娘、早々ニココヲ立チ去レ』



 少女の暮らしている村には、伝説があった。


 今でも多くの人に信じられてる伝説は、確かな長い歴史の中で語り継がれ存在してきたものだ。

 大樹が、その命を芽吹かせた千五百年前にこの地で生まれ、森全体の調和を保つ守護者の役割を担ってきたとされる、純白の毛並みを持った神狼の伝説。いくつかの説が存在するこの白狼だが実際見た者は皆無だった。

 まさか、白ではなく黒の狼が存在するとは……。



「悪いけど、そうはいかないのよ! このまま引き下がって成果なしで帰ったら一日が徒労で終わっちゃうからね」


『ナラ、チカラヅクデ帰ッテモラウシカナイ』



 黒狼が、身にまとう殺気が一層強さを増す。戦闘態勢には入っていないため、威嚇のつもりみたいだ。


 正直のところ帰りたかった。生物としての本能が、目の前の黒狼を敵に回したらまずいと告げていた。

 だが、そんな鳴り続ける警鐘を抑え込み、鉛のように重い腕を動かして、手を剣の柄まで持ってくる。



『ホウ、戦ウ道ヲ選ブカ』


「だって、勝たなきゃここを調べさせてくれないんでしょ?」


『勝ツツモリカ? 神狼ト呼バレル、コノ我ニ』



 神狼。黒狼の口からその単語を聞くと、今度は身体中から冷や汗が吹き出した。

 思わず顔が引き攣ってしまう。



「勝てるなんて思ってないよ。勝てたら伝説になれちゃう」



 少女が放った苦し紛れの冗談に、黒狼は怪訝そうな顔を見せた。



『勝テナイト分カッテイル相手ニ戦イヲ挑トハ、愚カナ小娘ダ』



 黒狼が、一つの遠吠えをあげる。すると、身体中から黒の瘴気が吹き出し、透き通った緑の瞳は赤く変わった。


 神狼は、鋭利な牙を覗かせ、唸り声を発する。今度こそ完全に戦闘態勢に入ったようだ。


 少女もすかさず剣を抜く。

 愛用しているはずの片手用直剣が、大剣のように重く感じた。


 一人と一匹の間に少しの静寂が訪れる。聞こえるのは木の葉がかすかに風に揺れている音だけ。



「はあああ!」



 最初に動き出したのは少女だった。先の戦いで見せていた軽快な動きはどこへ行ったやら、少女の動きはどう見ても硬かった。


 一直線に神狼の方に駆け、剣を振るう。だが神狼は一ミリもその場を動かない。

 そして、少女の振るう刃が、神狼の身体を切り裂くーーことはなかった。

 剣はまるで石を切りつけたように鈍い音を立てて弾かれた。


 少女の目が驚愕に見開かれる。


 状況を理解できると、悔しさに表情を歪め、その事実を否定するために、今の斬撃で痺れていた腕に無理やり力を入れ直し、再び仁王立ちしている神狼の身体中に剣を振るっていく。



「くそっ! 何で、何でよ!」



 だが、一向に傷一つ付くことはなかった。

 神狼の目が細まる。



『ソンナヤイバデ我ハ傷ツケラレンゾ?』



 神狼は、咆哮を上げた。その瞬間、周囲を強烈な風圧が走る。

 少女の身体は、それに耐えきれず後ずさりしてしまった。

 また、巨大すぎる咆哮に少女の皮膚は軽い電流を受けた時のような感覚を受けた。



「う……」



 抑えていた警鐘が、先程とは比べものにならないほど激しく鳴り響く。

 遂に、少女の足は竦んで完全に動きを失ってしまった。



『マァ、コンナモノカ……』



 神狼は、立ちすくんで動かない少女を見下ろした後、身を翻して少女から一旦距離を置いた。そして、突進の体勢に入る。



『恨ムナラ、愚カナ選択ヲシタ己を恨メ』



 刹那——神狼はその場から消えた。

 厳密に言えば消えたように見えるほど高速で移動したのだ。



「っ!」



 少女は、それに反応するのに一瞬遅れてしまった。慌てて横へ飛び、どこから来るかわからない攻撃を回避する。


 すると、その瞬間、回避するまで少女がいた場所が神狼の爪撃で抉れていた。さら

 に、あまりの威力に爆風まで付いてくる。



「きゃあああ」



 少女は、爆風に飛ばされ、地面を転げ回った。

 右手に握っていた剣も同時に地面に投げ出されてしまう。



『ホウ、今ノ攻撃ヲ避ケタカ』


「っ……!」



 完全に強さが異常だった。今まで魔獣とは、これでもかと言うほど戦闘してきた少女だったが、もはやそのどれとも比べられる程ではない。


 神狼は、予想をしてなかった結果に目を細める。



『面白イ。ダガ、残念ダ。次ハ外サン』



 そう言うと神狼の姿が再び消える。


 少女は足に力が入らず、立つことができてなかった。



(あぁ。終わったな……)



 そう悟った瞬間、それは訪れる。


 神狼の爪撃が、立てずに転がっている少女の背中を貫いた。


 少女の口から、鮮血が吐き出される。更に、貫かれた部位からこれでもかと言うほど血が溢れ出した。それに伴い地面に血の水溜りが出来ていく。

 少女は、次第に体温が冷たくなっていくのを感じながら、意識を失った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る