第八章 ディアンヌは騎士に叙任される

峠の別れ

 季節は秋を迎えていた。ピレネーの中腹ともなれば、もう朝には霜がおり、山から飛ばされた雪がうっすらと積もることもある。森の木々の多くは常緑樹だったが、一部は見事に紅葉して、鮮やかな彩りを見せている。

 四ヶ月前にクララと歩いた北に続く道をディアンヌは辿っていた。傍らに馬を並べるのはエクトールだ。彼は鎖鎧に濃紺の軍衣を羽織ったモンフェルメの騎士の正装だったが、ディアンヌは薄緑のチュニックに皮の外套を羽織った、女の旅装束だ。貴族の姫君とまではいかないが、まあまあ裕福な商家の若奥様程度には見えたことだろう。それがディアンヌには心苦しい。

「こんなにしてもらうことなんて、ほんと、なかったのよ。ラングレの館だってそっくり取り戻せたんだし、うちの蓄えだけで、なんとか」

「もう、言うなっていったろ」

 何度も繰り返してきた繰り言で、ディアンヌも自己満足とわかっていたから、一々怒鳴り声でつきあってくれるエクトールには申し訳ないと思っている。

「いいか、お前は間違いなくモンフェルメを救った英雄なんだ。本当ならラングレ家の領地が二倍になったっておかしくない。いくらモンフェルメが戦争の被害で大変だといったって、副伯爵家がお前の持参金ごとき出せなくてどうするんだ。それになんだよ、お前も。あれほど望んでいた武勲を上げたんじゃないか。もっと自慢しろよ。あんた全然役に立たなかったじゃいとか言って、俺のこと馬鹿にしろよ!」

「……無茶言わないでよエクトール」

 ディアンヌは苦笑するしかない。

「投石機の櫓から宙づりになったあたしを敵兵の中に駆けこんでまで助けてくれたのはあんただったからね」

「……あれはジャン=バティスタ団長が援護してくれたからだ!」

 そうして結局エクトールも口をつぐんでしまう。いつもならのみこむ言葉をこのときはエクトールは口に出すことにしたようだ。

「だいたい、なんでお前が女子修道院なんかにいかなきゃならないんだよっ」

 ディアンヌは答えない。

 でも、つまるところ、それはディアンヌが望んだから、ということになるのだろう。

 それ以外の道は無かった、ということよりも断然良い、とディアンヌは思う。

 エクトールには言えないことだけれど。


 霧の中の戦闘が終わって五日後。モンフェルメ副伯ローランに謁見したディアンヌは、服装こそ上等な女物のチュニックに剣を下げたベルトを巻いた姿であったものの、中身は傷だらけのぼろぼろだった。脱臼した左肩は添え木の上から包帯が巻かれて袖を通せず、亜麻色の髪の毛先は燃えてしまったので、襟のところでばっさり切っていた。幸い脇腹の傷は化膿もせず、傷口もふさがりつつある。

「ご苦労だったな、ディアンヌ」

 ローランは視線を机の上の書類から離さずに言った。ありがとうございます、とディアンヌが答えてもローランは顔を上げなかった。

「クリニューの教皇猊下のところまで告解にゆくことになりそうだ。行って帰ってそれだけでも一ヶ月はかかるな」

 つまり、それで済んだ、ということなのだ。フランス軍との講和の条件についてはディアンヌもエクトールから聞いていた。司令官は奇跡的に一命をとりとめたが重傷を負い、従軍していた異端審問官は死亡した。副将をつとめていた傭兵団の長は、傭兵団ごと戦場から逃亡したという。こんな有様では、虎の子の投石機が失われなくても厳しい条件は出しにくかったのだろう。

 しかし、ローランが言い出したのは、戦後処理のことでも、異端審問官を殺害したディアンヌをフランス軍に引き渡すということでもなかった。

「それで、どうだディアンヌ。アシルと結婚する気はないか」

 ディアンヌはローランの言葉に耳を疑った。

「お前の方が年上だが、二つも違わんだろう。ラングレの家は子供に継がせればよい」

 それはアシルをラングレ家に婿に出す、という意味だった。ラングレ家も安泰になる。その申し出にディアンヌは心から喜んだし、ローランへの感謝の気持ちを禁じ得なかったが、言わなくてはならないこともあった。

「ありがとうございます、閣下。でも、アシルは、その、妹が……」

「エレーヌか。それもよかろう」

 相変わらず顔を上げぬまま、ローランはあっさりと頷いた。そして、こう付け加えた。

「では、ラングレ家はエレーヌに継がせるとよい」

 ディアンヌは何も答えられなかった。それは衝撃的な通知でもなければ、失望したりもしなかった。むしろ、ディアンヌとラングレ家にとって最良の結果ではないだろうか。

「……ありがとうございます。閣下、あの」

「なんだ」

 ローランは初めて顔を上げた。ディアンヌはそこに何の表情も読み取れなかった。

「モンフェルメは全ての竜をなくしてしまいました。これからどうなるのでしょうか」

「トートネスのウイリアムは私の古い友人だ」

 突然の言葉をディアンヌはすぐに理解できなかった。ローランは続けた。

「私は、その昔、パリで学生だったウイリアムに出会い、竜について話し合った。ウイリアムは世界の竜について調べていて、そこで初めて、もはや竜がモンフェルメとウェールズにしか残っていないことを知った。そして、竜の本当の役目もな」

「本当の役目?」

「ウイリアムから聞いていなかったのか? ならば、話すこともなかったか。古の時代であれば、竜は現実と幻の境界に有り続けることもできただろう。しかし、これから世界は変わる。人間は知恵をつけるようになり、やがて聖書に書いていることさえ、それは本当かと疑い、その向こうにある真実を見つけようとするようになる。あの皇帝フレデリクスのようにな」

 ディアンヌは、あの風変わりなイタリア人のことを思い出した。しかし、竜を手に入れようとしたのは皇帝ではなく、教皇だったのではないか。

「モンフェルメの竜のことはいずれ世界の誰もが知ることになり、それを手に入れようとする者も出てくる。そのような争いに巻き込まれる前に、竜は消さなくてはならなかった」

「でも、竜はこれまでモンフェルメを守ってくれたじゃないですか」

「私もそう考えていた。だが、四年前にウェールズがイングランドとの戦いで負け、ウェールズの最後の竜が失われたとを知って、もはや伝説の竜の時代は終わったと悟った。竜を消す方法を調べていたウイリアムから知らせを受けたとき、すでに教皇はモンフェルメの竜を狙う手を伸ばしていたのだ。遅すぎたのだよ。もうすこし早くから問題に気づいていれば、こんな戦争をしかけられることもなかったろう」

 焦点を定まらぬ目でローランを見つめるディアンヌに、ローランは初めて笑顔を見せた。

「だが、竜は全ていなくなり、モンフェルメもなんとか持ちこたえた。めでたいことだ。ディアンヌ、お前のおかげだ」

 ローランは、再び視線を机の書類に戻し、顔を上げぬまま言った。

「お前の持参金は副伯家が用意する。好きな女子修道院を選ぶがいい」

 その寛大な申し出に、ディアンヌは礼を言い、副伯の執務室を辞した。


 竜窟はすっかり片付いていた。ディアンヌが擬竜でここを飛び立った日、まだ大窟にはヴォルケがねぐらにしていた藁束が少しは残っていたし、アルフォンス達の工具もあった。今は工房の壁の本棚も空っぽで、まるで頭領が夜逃げしたあとのようだ、とディアンヌは思った。

 アルフォンスは、大窟の端でたき火をしていた。燃やされているのは工房にあった沢山の本だった。

「いいんだ。もう要らないから」

 アルフォンスは、顔を上げてディアンヌに微笑みかけた。「投石機を二つとも壊したんだんだってね。さすがディアンヌだ」

「ありがとう。あなたの作った擬竜のおかげよ。ごめんなさいね、連れて帰れなくて」

「いいよ。あれは、そういうものだから」

 その突き放したような言葉の響きにディアンヌはかすかな違和感を感じる。

 アルフォンスは、竜にもモノにも人と同じ、いやそれ以上に愛着を持っていた。それをおかしいと言っていたのはディアンヌの方だった。

「ずっとここにいたの? 会いに来てくれると思ったのに」

「副伯様のお屋敷なんて、僕なんかが行けるわけないじゃないか」

「そんなことない。あなたはあたしの従者なんだから」

「そう? 今でも?」

 見上げるアルフォンスの顔に浮かぶ笑顔には、皮肉と寂しさが半分ずつ混じっていた。ディアンヌも笑うしかない。「そうね。もう、あたしはとっくに騎士じゃなくなっていたんだわ」

 アルフォンスはそれを否定せず、また焚き火に目を移し、手元に積んであった本を一冊、火にくべた。ディアンヌは、その表紙に見覚えがあった。

「アルフォンス……それ!」

「ああ、聖書。でももう要らない。全部覚えたから」

 ディアンヌはアルフォンスの隣にしゃがみ込む。

「アルフォンス、あたし、この町を出て行くことになったみたい」

 火掻棒を持ったアルフォンスの手が、一瞬だけ止まった。「ひどいね」

「ううん、そんなことない。副伯様はアシルをエレーヌの婿にしてくれるって言うのよ。すごいでしょ?」

「……ディアンヌがそれでいいなら僕は何も言わないけど」

「あたしはいい。……たぶん、それ以上良い答えなんてない」

 アルフォンスは黙っていた。

「ねえ」ディアンヌは、少しだけアルフォンスに近づいた。「一緒に行かない?」

 アルフォンスは驚いた顔でディアンヌを見つめる。

「一緒に町を出ようよ。あたしは騎士じゃなくなっちゃったし、あなたも仕える騎士はいないんだから良いでしょ? どっか遠い国、近くでもいいけどさ、アラゴンとか、イングランドとか、あたしは暑いところはいやだな、でも、アルフォンスがいいならずっと南の国でもいいよ、それで……」

 ディアンヌはそこでつばを飲み込んだ。「一緒に暮らすってのはどう?」

 アルフォンスは、視線をそらさなかった。森で狼と出くわしたかのような表情は、やがてゆるみ、柔らかな微笑が浮かんだ。「ディアンヌも、冗談を言うようになったんだね」

 ディアンヌはため息をついた。苦笑するしかない。「……まあね」

「もし、僕がまだ君の従者で、そして君が許してくれるなら」

 アルフォンスは、そこで少し間を置いた。躊躇しているようにも見えた。「僕は君の従者をやめようと思う」

「そっ」

 ディアンヌは取り乱しそうになる自分を必死で抑えた。アルフォンスの言っていることは、決しておかしなことではない。自分はもう、騎士ではないのだから。

「……それもいいかもね。でも、食べてゆくためには仕事が必要よ。あなたは、これまでラングレ家の碌をはんでいたんですからね、あたしは当然、それを心配しているの」

「僕が擬竜を作ったのはなんのためだったか、覚えている?」

 アルフォンスは全然関係のないことを言った。ディアンヌは面食らったが、その答えを忘れたわけではなかった。

「あなたは言ってた。ヴォルケは戦うためのものじゃない。神聖な生き物だって」

「うん、そう言った。でも、本当は違う。怖かったんだ。やっぱり竜は悪魔の使いじゃないのかって、そう思っていた。竜は強すぎる。それにとても美しい。ディアンヌは小さいころからずっとヴォルケが好きで、本当に恋人みたいに接していたよね」

 ディアンヌの顔が急に熱くなる。思わず両手で顔を覆う。

「……ああ、そんなことはどうでもいいんだ。ディアンヌは小さな頃から竜と一緒にいて、竜が好きになっていったかもしれない。僕も小さな頃にジョシュアに拾われてここに来てから、逆にどんどん竜が怖くなっていった。勉強すればするほど、竜は普通の動物と違うことがわかった。ほんとうに、竜なんてものがこの世に存在するはずがないってことが、だんだんわかってきたんだよ。だから、擬竜を作ろうとしたのは、ディアンヌをこれ以上ヴォルケに近づけないようにするため。でも、駄目だった。本に書いてあることをいくら勉強しても、どうしてうまくいかなかったんだ」

「でも、あなたは作ったじゃない。そりゃ、ヴォルケほどじゃなかったけど、あんなもの世界中を探しても他に絶対にないわ」

「そうだよ。でも、僕一人でつくったんじゃない。ヴォルケだよ! クララが教えてくれた方法でヴォルケに聞いたんだ。ヴォルケがおかしなところを教えてくれたんだよ」

「……すごい、じゃない? そういえば、クララだって驚いていたわよね。あんな短期間でヴォルケと、その『情報交換』ができるようになるなんて」

「……気がつくべきだったんだ。擬竜の作り方だって、竜の扱い方を書いた本と一緒にあったんだからね。でも、それでわかったよ。竜だけじゃない。この世界まるごと、ニセモノの神が創ったものだったんだ」

「セニモノの神が創った……」

 ディアンヌの記憶にその言葉が重なる。体中に戦慄が走る。

「アルフォンス、あなたは間違ってる! クララにふきこまれたんでしょ? それは異端の思想だわ!」

 しかしアルフォンスは、大きく頷き、声も荒げることなく言った。

「そうだ、異端の教義だよ。でも、クララが教えてくれたとか、そういうことじゃない。だって、それが事実なんだから」

 背後で扉の閉まる音がした。

 岩小屋から登ってくる扉の前に、本を抱えたクララがいた。何の飾り気もない黒のチュニックに薄い外套を羽織っている。そうして気がつくと、アルフォンスの着ている上着も黒だった。

「アルフォンス、あなた……」

 ディアンヌは自分の声が震えているのがわかった。

「こんにちは、ディアンヌ」

 クララは陽気に挨拶しながら、たき火の傍らに、どさり、と持ってきた本を置いた。

「アルフォンスはね、救慰礼を受け入れてくれたの。もう彼は完徳者よ。だから色っぽいお誘いとかはやめてあげて」

 そして、以前のように妖艶な笑みを浮かべながら、「まあ、本人がよければ、今から考えを変えたって全然いいんだけど」と付け加えた。

「クララ、あなた、あたしのアルフォンスを……」

 しかし、クララを誹ろうとするディアンヌの声にはもはや力がなかった。

「アルフォンスは誰のものでもない。主のもの、いえ、その魂は主の一部よ」クララの声は毅然としていたが、ディアンヌを責めている調子はなかった。

「ディアンヌ。あなたがそれを信じるかどうかは、あなたが決めること。でも、多分、かつて竜騎士だったあなたはそれを知る権利があるから、教えてあげる。今から何千年か何万年か昔に、この世界は作り直されたの」

「つくりなおされた?……」

「そう。その前にあった世界はエデンの園のようなものだったみたい。多くの人が狩りもせず、田畑も耕さず、戦争もせずに暮らしていた。おいしいものと暖かい家があり、誰もが学僧達よりもずっと高い知恵を身につけていた」

「そんな世界が滅んでしまったというの?」

「当時の人達はそういった全ての文明の痕跡を消し去り、どこかに消えてしまった。残されたほんの僅かな人間達、つまりアダムとイヴの子孫があたし達というわけ」

「その楽園の痕跡が、竜だっていうこと?」

「さすが、察しがいいじゃない? あの擬竜の材料なんかはあきらかにそうね。世界中で呪術とか魔術と呼ばれていて、教皇が目の敵にしているものもたぶんほとんどがそうだわ。楽園の住人達が全て消し去ろうとして残ってしまったもの。でも、竜は違う」

 アルフォンスが、黙ったままクララが持ってきた本の一番上の二冊を火にくべた。火の粉がふわりと舞い上がる。

「竜は楽園の住人達が創ったものだけど、その目的は、自ら消し去ってしまった世界の記録を残すこと。竜はあなた達に使われるためではなく、自分自身を守るためにあれほど強かったの。本当は、竜は人知れず、いつか必要になるかもしれない日まで、洞窟の中で眠っているはずだったと思う。それが人に見つかり、騎獣として使われるようになって、世界の表舞台に出てきてしまった。そう遠くない先に、竜の秘密も滅んだ前世の秘密も暴かれてしまう。あの気障なドミニコ会士は、それを防ごうとしたのね」

「クララ、あなたがこの町に来た理由って、そのことを知るためだったの? 世界が作り直された世界だってこと?」

「ううん、そんなことは分かってた。私達の教典に、ていうか、聖書に書いてある通りだもの。ノアの方舟の話は知っているでしょ? 神は世界を一度滅ぼしている。神というのは、ニセモノの神のことだけど。私達が最後の希望を託していたのは竜だったの」

 クララは、本を一冊、焚き火に投げ込むと、小さくため息をついた。

「竜は、ニセモノじゃない、本当の神が作ったものじゃないかって。今のこのニセモノの世界の前にあったのは、実は本当の神が作った本当の世界じゃないかって。もしそうなら、竜は本当の世界のことを、本当の世界を取り戻す方法を知っているかもしれないって」

 洞窟の入り口から吹き込んだ風が、一瞬、焚き火を勢いよく燃え上がらせ、火の粉を散らした。黙り込んだクララに、ディアンヌはおそるおそる尋ねた。

「それで、どうだったの?」

「ダメだった。やっぱりその前の世界も失敗だったみたい。本当の世界はこの地上には無かったし、たぶん、これからもないってこと」

「……わかった。クララ、私はあなた達『良き信徒』に同情するわ。本当。でもそれとアルフォンスが完徳者になるのと、どういう関係があるのよ!」

 ディアンヌがまくし立てると、アルフォンスは、きょとんとした表情で答えた。

「そんなの簡単なことじゃないか。本当の世界はこの地上にはないってわかったんだ。いっときエデンの園みたいな安っぽい楽園が作れたとしても、そんなもの、結局なくなってしまうんだ。だったら、本当の世界に行こうって思うのが当然じゃない」

「当然なんかじゃない! クララもアルフォンスもおかしい! 神様が作ろうと人間が作ろうと、そんなのどうだっていいじゃない! 戦争が絶えなくても、悪徳に満ちあふれていても、思うようにならないことを、世界のせいにするなんておかしい。自由……そうよ自由なの。あたし達は、今、この瞬間にも自由なのよ!」

「思い出してディアンヌ。ウイリアムが言っていたでしょ? 自由に生きることができるのは、ほんの一握りの優秀な人達だけ。他の人達は自由の意味もわからない。なにより、自由に生きるってことは大変苦しいこと」

「クララ、あなたみたいな人が、そんな、自由が苦しい、とか」

「でも、そうなんだもの仕方ないじゃない?」

 ディアンヌは反論しようとして口を開いたが、やがて力なくそれを閉じた。アルフォンスが顔を上げ、こう言った。

「ディアンヌ、君を残してゆくことに、罪悪感がないわけじゃない。君がこの世界でがんばり続けるっていうなら、僕は応援したい。それに、本当になにもかも、この世界がダメなのかどうか、絶対の自信があるってわけでもないしね」

 アルフォンスは立ち上がった。

「それで、実はきみに預けたいものがあるんだ」


 クララの率いていた傭兵隊は、半分が戦死し、残りは異端の信仰を捨てて正統に戻ると宣誓した。結局、火刑台に登ったのはクララとアルフォンスの二人だけだった。それでも急遽呼び出された異端審問官にとっては面目躍如といったところだったのだろう。ディアンヌは二人の火刑を見ることはとてもできなかったが、城門のすぐ外に設けられた火刑台から聞こえる異端審問官の祈りの声は、ずっと耳について離れなかった。

 身体を焼かれた死者は、最後の審判の日に甦ることができない。

 だがクララとアルフォンスは、ニセモノの神に創られた身体を捨て、一足先に主のもとに旅立ってしまった。二人にとって、残った身体が燃やされようと知ったことではないのだろう。そう考えれば彼らは自分達の死とその後のあり方を選ぶにあたって自由だったと言えるかもしれない。少なくともディアンヌにはとても真似できることではない。

 フランス軍が全て撤退し、被害を逃れた畑の収穫が大慌てで始まった頃、ディアンヌは町を後にした。フォアの女子修道院まで送ってゆく、ローランの許しはもらった、というエクトールの申し出をディアンヌは無碍にはできなかった。


「エクトール、もうここらでいい」

 街道沿いの小さな村を出ていくらもいかないところでディアンヌは馬を止めて、鞍から下りた。エクトールは、やれやれというように首を振り、自分も馬を下りる。

「ありがとう。ここから先はあたし一人でいく。あなたも正騎士になって、跡継ぎとしてやることは沢山あるんでしょ? もう、おうちに帰んなさい」

「お前、何考えてる」

 エクトールはディアンヌのからかいなど意に介さず、目を細めて訊いた。

「フォアの女子修道院からの手紙って、まさか……」

 確かにエクトールはカンも洞察力も鈍いほうではなかった。ディアンヌはごまかすのを諦めて開き直る。

「エレーヌに頼んで適当にでっちあげてもらったわ」

「じゃあ、お前本当は……」

「大丈夫、ちゃんと修道院には行く。ただ、ちょっと遠いし、もちろん、手紙も送ってないけどね」

「遠い?」

「ビンゲンにね、沢山の本があって、薬学の研究も盛んな女子修道院があるんだって。そこで勉強してみたいんだ」

「ビンゲンって……ライン河の河畔じゃねえか! どんなに急いだって、一ヶ月はかかるぞ!」

「あたしの作戦では、ちょうどクリスマスの頃に到着してさ、そうしたら、むこうも少しは情けをかける気になるんじゃないかって」

「おまえの作戦はいつもあぶなっかしすぎるんだよ!」

「でも成功したでしょ?」

 ディアンヌはいたずらっぽく笑ってみせ、そして少し小さな声で付け加えた。

「……これまでだって、いつもうまくいってたんだわ」

 わずかにうつむいたディアンヌに、唐突に、しかし何の躊躇のなくエクトールが言った。

「おい、ディアンヌ。これから、二人でどっかにいかないか」

「ど、どっかって……」

「出奔するのさ。まあ、おまえはもうしたようなもんだな。二人で傭兵でもやって暮らそう。とりあえずアラゴンの方に行ってさ、異教徒と戦うってのはどうだい?」

「エクトール……違うの」

「東に行ってもいいな。聖地への巡礼を助ける騎士団があるらしいぜ。それに加わるってのもいいかもしれない」

「違うのよ、エクトール。空を飛ぶってことは、全然自由なことじゃない」

 エクトールが狐につままれたような顔になる。それは久々に見る彼の間抜けな表情だったが、ディアンヌはからかいもせずに言った。

「風は時間と高度によって変化する。前の山を目指して飛んでいるのに、風を読み違うと、いつのまにか経路がずれてしまう。十分高度に余裕があるつもりでも、山の間を飛んでいると急に地面がせり上がってきて、方向を変えて逃げることもできなくなる。いい気になって高く高く昇っていると、ぜんぜん気づかないうちにすうっと気を失うこともある。高いところでは空気が薄くなるでしょ?」

(……それでもね、あたし、本当はずっと空を飛んでいたかったんだ)

「おれは……おれは、いつかお前の翼になりたいと思ってた。おれは、お前の翼の代わりにはなれなかったけど、せめてお前をモンフェルメに縛り付ける鎖にだけはなりたくない」

 エクトールは照れもせず、真剣なまなざしでディアンヌを正面から見ていた。ディアンヌは大げさに吹き出してみせた。

「冗談でしょ。昔からあたしの方がずっと強くて、剣もうまくて、正騎士になるのも先だったんですからね。そもそも本来の立場は逆でしょ! 領主は『あなた』なんだから」

「……ああ、そうだ。そうだったな。その言葉嘘じゃないだろうな?」

 エクトールは、腰に下げた剣の留め具を払い、それを抜き放った。それは、いつも彼が愛用していた剣ではなく、やや小振りの長剣だった。その切っ先をディアンヌにぴたりと向ける。

「跪け」

「あの……エクトール、こんなところで何の真似?」

 引きつった笑いを浮かべながら、エクトールの言う通りに道ばたにしゃがみ込んだ。

 その肩にエクトールの長剣の平が振り下ろされる。

「ディアンヌ。お前を俺の騎士にしてやる」

 ディアンヌはあっけにとられてエクトールを見つめ返した。「それって」

「修道女になろうと、どこにいようとお前は俺の騎士であることには変わりないからな」

 もう一度、エクトールは、少し乱暴にディアンヌの肩を剣で打つ。

「そして、命じる。二度と俺の前に現れるな。……二度とモンフェルメに戻ってくるな」

 ディアンヌはぎゅっと唇を噛みしめた。

 もちろん、ディアンヌはわかっていた。自分がどれだけエクトールに助けられ、彼に甘えてきたか。幼なじみのよしみとはいえ、臣下にあるまじき態度をとり続け、どれほどひどいことを言ってきたか。

 そして、彼がどういう気持ちでそれを許してくれていたのか。みんなわかっていたのだ。

 ディアンヌの夢。モンフェルメの町と領主を守る騎士になること。

 その夢は、今、この瞬間に叶い、そして終わった。

「将来のモンフェルメ副伯エクトール・ドゥコルヴェ」

 ディアンヌは首を垂れたまま、小さな声で、しかしはっきりと答えた。「ディアンヌ・ラングレは終生御身に忠誠を誓います。ええ、修道女になって終生誓願をたてても、あなたへの忠誠は失わない」

「じゃあ、ほれ、持って行け」

 エクトールは剣を鞘に戻すと、鞘ごと腰帯から外した剣をディアンヌに突き出した。「騎士が剣なしじゃかっこつかねえだろ。道中の護身用だ」

「……ちょっと、どこの世界に長剣下げて修道院に入る女がいるってのよ!」

「そうか? 騎士修道会だってあるんだからおかしくねえだろ。それより、お前、剣なんかより、よっぽどやべえもの持ち込もうとしてんじゃねえのか?」

「え……」

 ディアンヌはおもわず大きな頭陀袋を両手で抱えた。「知ってたの?」

「……やっぱりな。騎士の身分も家も捨てろ、町を出て行けって言われて、お前がそんなにおとなしく従うわけがないと思ったよ。ヴォルケのことでもなけりゃ……」

「あんたにそこまで見通されていたとはちょっとショックだわ」

 ディアンヌはため息をつき、頭陀袋の口を縛っていた紐をほどいた。

 クッション代わりにした服の間から人間の頭より一回り大きい、灰色の球体が頭を覗かせる。

「……これ、ヴォルケの卵か」

「あたしとクララがリヨンに行っている間に産んだんだって。あたし、ヴォルケは雄だと思ってたんだけどね」

「これ、どうやって孵すんだよ」

「それを調べにゆくんじゃない」

 それがウェールズの竜が故郷を離れることのできたしかけなのだろう、とディアンヌは察していた。ウェールズの竜はイングランドとの戦いで失われたが、ベランジェは、竜の卵を持ってドーバー海峡を渡り、それをフランスのどこかで育てたのだろう。

 もちろん竜の言葉も学ばなくてはならない。

 もし、ヴォルケの仔が孵ることがあれば、訊いてみよう。本当の世界の有様を。クララやアルフォンスが死を選んだほどの絶望が本当にこの世界を覆い尽くしているというなら、それを取り払う方法だってあるかもしれない。

 そして、もし叶うのなら……。

 ディアンヌは、頭陀袋を閉じて肩にかけ、エクトールの手から剣を奪い取って腰に巻いた。

「じゃね。元気でね」

 最後にエクトールに見せたのが笑顔でよかった、と思う。

 馬に跨ると、もう後は振り向かない。

 碧灰色の空の下、ピレネーの山麓を緩やかに下る細い街道。

「行こうか、ヴォルケ」

 

 モンフェルメ最後の竜騎士だった娘は、遠い道のりの、ようやく最初の一歩を踏み出したのだ。

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